旦那様、私は人間ですのでほんと勘弁してくださいっ
脇に抱えてさらっていったロジャーが向かったのは、屋敷の裏口だった。
「わぁ……」
そこを出た途端、緑の香りがフェリシアの鼻孔いっぱいに入り込む。
そこには柵の向こうを遮るように木々も植えられていた。広がった芝生に飛び出るようにして一つだけ、一際目立つ大きな木があった。それは西日のこぼれ日をきらきらと泳がせた緑の葉を、たっぷりとつけてある。
「お前が実家で好きだった木だよ。覚えているか?」
本気で『長らく迷子になっていた』と思っているらしい。
フェリシアは、ロジャーの問いかけにがっくりと脱力感を覚えた。
けれど――その木がなんなのか知れてよかったと思えた。彼女は新緑色の瞳にそれを映し出す。
(やはり特別なものだったのね)
わざわざこちらの屋敷でも植えたのだろう。
どれほどの年月が経てば、こんなに大きくなるのか。
「実家の木の一つを持ってきたのですか?」
そんな想像が起こった時には、尋ねていた。
「同じ木がたくさんあって、そのうち若いものを運んだ。みるみるうちに土地に馴染んで、大きくなった」
「そう……」
――会話が、成立している。
(それなのに気付く気配がないわ)
無意識のうちに彼は拒絶しているのだろうか。
愛犬にまた会いたい、町中で見かけた〝ジャスミンと同じ色〟に、抱いてはいけない夢を見た。
だから愛犬は死んでいないと思いたくて?
二年も落ち込んでいたロジャー。久しぶりに笑顔が見られて嬉しいと使用人たちは言っていたが、フェリシアのせいで悪い状況になってしまってはいないだろうか。
悲しい気持ちは胸に刻まれて、消えることはない。
けれど、それを抱えて強さに変えて前を進んでいく。
(大好きなおばあ様を失った時がそうだったわ)
このまま改善してくれるのなら役に立てると思える。
けれど、どうなのだろう。フェリシアは心配になって、地面から離れている自分の足へと視線を落とす。
「……私がいて、ケアにならないようなら」
「なると思いますよ。医師から話を聞いてまいりましたので、信じてよいかと」
「きゃーっ」
突然、イヴァンの声が聞こえて驚いた。
「心が疲弊しきっているのなら、一時的な代わりでも『楽しい』という気持ちは治療薬になるそうです」
「そ、そうなのですか」
どっどっと心臓の鳴る音を聞きながら肩越しを見ると、ブランケットと白い敷物を片腕にかたイヴァンがいた。
一時的に姿が見えない時間帯があったが、どうやらわざわざ世話になっている医師を訪ね、話を聞いてきたようだ。
「ただ、医者も今回のことは首を捻っていましたね。暗示もまるで聞きそうにない騎士伯爵なのに、いったいどういうことかと逆に興味津々で尋ねられました」
「……あの、私研究材料になったりしませんよね?」
「しませんよ。当家の大事なお客様です」
旦那様を働かせる大事な犬役、と実直なイヴァンの顔に書いてある気がした。
自分の世界にとって不都合な情報のせいか、ロジャーが反応する様子はなかった。
(聞こえてもいないみたいだわ)
不思議に思ってフェリシアは彼の横顔を眺める。
実に奇妙な〝症状〟だ。
するとイヴァンが前に出て、木の下に敷物を置いた。そこにロジャーが腰を降ろし、ひょいとフェリシアを持ち上げて座らせる。
綺麗なサファイアの目で見つめられ、彼女は緊張した。
そこは木陰になっていて気持ちよかったが、異性と向き合って座っているのが落ち着かない。
「あ、あの――」
「今日もいい毛艶だね。きちんとブラッシングされているようでよかった」
ロジャーがにっりと笑い、両腕を伸ばす。
彼の端正な顔がぐんっと近くなる。腕が自分を囲い、フェリシアが「あ」と思った時には引き寄せられ、一緒になって横向きに敷物の上に倒れ込んでいた。
「なっ、な……!?」
背を抱いているのは男の大きな手だ。
フェリシアの至近距離には、男の整った顔がある。
真っ赤になって声が出ないでいると、ロジャーがフェリアの頬に落ちた髪を後ろへとやった。咄嗟に顔を後ろへと引いたが、彼が後頭部を手で押さえてしまう。
「だ、旦那様っ」
「ん? どうした?」
「近いです!」
「それが何か?」
きょとんとして言われ、フェリシアは衝撃を受けて固まった。
「僕の可愛いジャスミン、いつもみたいに鼻をこすりつけてきても構わないんだよ」
「そ、そんなことできませんーっ!」
フェリシアは涙目で、首をぶんぶん横に振って伝えた。
さすがに無理だ。
いや、犬役の行動を望まれたとしても初心なフェリシアにはこの距離だって自分からは絶対にできない。
(近い、近いんです、イヴァンさーん!)
パニックが増して、もう執事のほうを見ようとした時だった。
「寝る時も一緒だ。戻ったばかりでお前も心簿細いだろうから、今日からしばらくはベッドで眠っていいからな」
「一緒に寝るんですか!? うそっ」
「本当です」
イヴァンが間髪を入れずそう言った。フェリシアは、信じられない思いで仕事しか頭にない冷徹執事――じゃなくて彼を見た。
「……あの、いつそのようなことが決まったのでしょうか」
「あなた様を『犬役』として連れかえることを決めた時からこうなるとは分かっておりましたが?」
ひどい、そんなこと聞いてない。
イヴァンが平然とロジャーとフェリシアの足元にブランケットをかけるのを、彼女はふるふると涙目で見守る。
「ジャスミンはいつも旦那様と一緒でしたから」
「で、でも、私は淑女なのですが」
「旦那様は犬一筋の変態、いえ愛犬家なのです。犬だと思っているのですから、間違いなどないかと」
間違いがあったりしたら困る。
ずっと一緒にいた執事のお墨付きとはいえ、フェリシアはもう声も出てこなくて口をぱくぱくしていた。
(そんな無情な……)
というか年頃の女性と添い寝することに対して、屋敷の誰もが『旦那様は絶対に手を出さないので問題ない』と言い切れるのも、問題な気がする。
二十九歳の立派な紳士なのに?
美人でなくともだめだ、気を付けるようにと兄からも散々フェリシアは忠告を受けた。
(彼らにとって『旦那様』っていったい)
失礼な憶測も頭の中に浮かんだものの、フェリシアとしてはメイドとして快適な宿を得られたどころか、まさかの就寝先が『旦那様のベッド』ということに慄いたのだった。