だから、私は犬ではありませんのでスキンシップ過剰は禁止ですっ
「しばらくずっと君に会えなくて寂しかったんだ。見付けられてよかったっ、迷子になっていたんだね」
フェリシアは、次こそ声なき悲鳴を上げた。
(こ、こ、この人っ、いきなり何をしているのー!?)
顔を肩口にすり寄せられ、抱き締められている。
こんなこと異性にされた経験はない。フェリシアは、もう内心パニックになってしまう。
「あ、あのっ、伯爵様、いえ旦那様!」
髪の匂いを嗅がれていると察した瞬間、恥ずかしさもピークに達してフェリシアはたまらず彼の肩をばしばしと叩いた。
「スキンシップは控え目でお願いしますっ!」
「いつもの距離感だろう?」
はっきり『旦那様』とも口にしたのに、まったく見知らぬ人間の女性と気付かないなんて、彼はおかしい。
(あ、いえ、『錯乱中』だったと言っていたわね)
すん、とフェリシアは一瞬冷静に思い直す。
だがそう思った次の瞬間には、ロジャーが「久しぶりで照れているのかい?」なんて笑って、もっと力を込めてぎゅぅっと抱き締められてしまった。
(し、心臓が止まってしまうわ……!)
胸が、男のたくましい胸板で潰される感触にフェリシアは硬直した。
男性向けの、薄い香水の匂いがする。体温がダイレクトに伝わってきて、じわじわと頬が染まる。
まさかここまでとは思わなかった。
(犬ってこんなふうに思いきり抱き締めるものなの? ジャスミンちゃんは、大型犬だったりするのっ?)
しばらくの間とはいえ、彼の〝犬役〟を引き受けてよかったのか猛烈に心配になってきた。
こうやって言葉も交わしているのに、なぜ、愛犬と思って疑わないのか。
「いい子だ、ジャスミン」
「ひゃっ」
続いて、後頭部をよしよしと撫でられた。
ただただ混乱して固まっていただけなのだが、落ち着いて大人しくなったとでも思われたみたいだ。
後頭部から首の後ろまで、何度も優しく降りてくる大きな男の手。
その感触も温もりも、なんだかぞくぞくして大変くすぐったい。
「お前の毛並みは相変わらず安心できるな」
ロジャーはそう言って、フェリシアの髪に顔を埋めて、息を吸う。
(ああぁお願い、これ以上ぎゅっとしないでっ)
恥ずかしい。体温が熱くて、目が回りそう――。
もうだめだと思った時、ようやくイヴァンの『ストップ』が入った。
「はい、お時間です。仕事をなさってきてください」
イヴァンがロジャーを引きはがしてくれた。
(た、助かった……)
フェリシアはばくばくしている胸を押さえた。もう、かなり精神力がすり減った気がする。
「なぜだイヴァン! 僕とジャスミンの間を引き離すとは!」
「はいはい。愛犬と触れ合うのは結構ですが、きちんとお仕事をされることが約束だったはずですよ」
イヴァンが男性使用人にバトンタッチし、彼らによって連れ出されていくロジャーが非難の声を上げ続けている。
「くそっ、その間にジャスミンとボール遊びなんてしたら許さないからな! 久々なんだから、僕が一番だ!」
イヴァンが初めて、口元を引きつらせて主人を見送った。
その顔には『人間相手にボール遊びなんてありえねぇ』という言葉が書かれているようにフェリシアには思えた。
◇◇◇
ロジャーが仕事部屋に放り込まれたことにより、ようやく落ち着いて話せるようになった。
ひとまずイヴァンに屋敷の使用人たちを紹介してもらえた。大きい屋敷だが、思ったより所属人数は少なめに感じる。
理由は、ロジャーの『人間嫌い』だとか。
数が多いわけではないせいか、イヴァンに紹介されたフェリシアをみんなは友好的に受け入れてくれた。
「人手があるのは助かりますわ。とくに、旦那様の仕事場近くの担当!」
「イヴァン様の負担が一番多いですものねぇ」
事情が事情だっただけに反応に困ったところも当初はあったようだが、イアヴァンの他に『旦那様が寄せつける人員』ができたのは有難いみたいだ。
「愛犬の代わり、とはまた奇妙な縁というか、なんというか」
一番年上だと自己紹介してきた長身の料理長も、しげしげとフェリシアを見たものの、同情というよりはいい縁だと考えたらしい。
「まっ、新入りは大歓迎だ」
「まぁ旦那様があんなに喜んでいる顔は久しぶりに見ましたしね」
「どうぞよろしく」
男性使用人たちにそう聞いて、フェリシアは「久しぶりに楽しそう……」とフェリシアは何も言えなくなってしまった。
それだけ、ロジャー・エルベラントという男は、『ジャスミン』という犬を、愛していたのだろう。
長く飼っていた犬で、彼が二十七歳の時に亡くなった。
年老いた犬が他界して二年経つ。それでもずっと忘れられなくて『楽しさ』なんて忘れてしまっていたのだとしたら――。
そんなことを考えたら、誰も何も言えないのかもしれないとも勘ぐって、フェリシアはしんみりとした気持ちになってしまった。
犬役での臨時雇用だが、正式にはロジャーの専属メイドという枠だ。
「世話についても手間はかからないかと」
基本的に、ロジャーの身支度を整えるメイドも最少人数にと決められていると、イヴァンは説明した。一部は自分でやってしまうらしい。
「たとえば『ネクタイくらい自分でやったほうが早い』というのが旦那様の言い分です。あまり人とは近付になりたくないようで」
「なるほど……」
ロジャーがいる時は、彼専属のメイドとして彼を優先にする。そして彼が離れている間、フェリシアは屋敷のメイドとして働く。
その雇用条件も改めて確認したのち、時間は限られているとのことで続いてイヴァンに屋敷を案内された。
一階には贅沢なサロンの他、酒や本がお洒落に並べられた趣味部屋もある。
大きな螺旋階段を上がると、二階には大きな窓を持った解放感溢れる談話室や、町を眺められる大きなバルコニーを持った個室なども並んでいた。
「旦那様の仕事部屋は、あちらとなります」
イヴァンが手で示しながら教えてくれた。
「先に説明しました通り、旦那様は気が難しいところもあるお方です。仕事中は『集中が乱れるから近くに使用人を置くな』という、引きこもりっぷりも発揮します」
「人嫌いみたいな反応ですね……」
出会い頭に『もう離さないぞ』という勢いで抱きつかれたことを思い返していると、イヴァンが片眉を上げた。
「まさに人嫌いですよ。何よりもご自分の愛犬と過ごすことを好んでいらして、少年時代から愛犬第一に動くことは変わりませんでした」
「そう、なんですか……」
そうは見えなかったが、それはロジャーがフェリシアを『唯一の愛犬』と思い込んでいるせいなのだろう。
(やはり相当に溺愛していたのだわ)
愛していたから、愛犬が亡くなったショックがいまだ癒えないでいる。
想像すると、こんな仕事無理ですなんて言ってロジャーを見捨てることは、フェリシアの性格からしてできない。
「『見目麗しいのに残念な愛犬家の伯爵』と知られているのですか、道中で噂を耳にされたことは?」
「いえ、ないですね……有名なお話みたいですのに、申し訳ございません」
フェリシアは妹が嫁ぐため家を出たその日、この国のことを何も下調べしないまま逃げるように列車に飛び乗った。
そのあとは、初めての列車旅や一人の状況で、周りの声を拾っている余裕もなかった。自国にいる時も社交界とはほとんど距離を置いていたから、隣国の貴族関係の話も集めていない。
「下調べも無しに女性が身一つで来る、というのも珍しいですね。何か理由が?」
鋭いイヴァンの問いかけに、肩がわずかにはねる。
逃げ出してきたなんて言ったら、ぎくしゃくしそうだ。しばらくここにいると決めたので家のことや事情は余計に知られたくない。
同情はされたくなかった。
(妹が婚約者になるはずの人をとったなんて、――そんなこと口にしたくない)
それはフェリシアのただの勘ぐりだ。だって妹はそんなことしない。姉思いで、みんなから愛されているいい子で、可愛い妹だ。
彼と気が合ったのは妹で、二人は結婚する運命の相手同士だった。
ただ、それだけの理由なのだ。妹があんなにアピールしなくとも、彼女のほうが魅力的なのだから、オリバーが妹のほうに惹かれていたのは時間の問題だったはずだ。妹だって珍しく気が合ってあんなに話していたのかもしれない。
こんな嫌なことを考えたくないから、フェリシアはココへきた。
「いえ。自立しようかなぁと思って、一番に目に留まった国際列車に飛び乗っただけです。視野も広げて見たくて」
フェリシアは「あはは」と令嬢らしくなく笑って見せた。イヴァンは冷静な顔で頷く。
「そうですか」
何かしら事情があると察してのことなのか、それとも、ただの臨時雇用と割り切ってくれているのか――。
イヴァンは尋ねることもせず、館内の案内を再開した。