犬役で雇用されましたが、旦那様落ち着いて欲しい
新しい人生を、自分で歩んで行こう――。
そう思っていたのに、王都に到着して早々まさかの〝犬役の仕事〟として、急きょ雇用された。
フェリシアは近くに停まっていた黒塗りの高級馬車に乗せられ、数十分足らずでこれからしばらく世話になる屋敷へと運ばれていた。
「人生っていったい……」
レディが乗っているのに、先に降りていってしまったロジャーの背中を、呆然と眺めつつ呟く。
「ほら、おいでジャスミン」
「…………」
彼は下車したかと思ったら、振り返ってきてにこやかに手を差し向けてくる。
(そうか、そももそ犬だったわね)
フェリシアがそれを思い出すまでに数秒を要した。
おずおずと馬車を降りる。すると、目の前に開けたのは、二階建ての横に長い立派な屋敷だ。
「わぁっ、すごい」
大都会のど真ん中に建てられたエルベラント伯爵邸は、そもそもロジャーが仕事用にと新しく建てたものだという。
大通りに背の高い門扉、その向こうに急に公園かと思える庭園が現れる。玄関の前にはお洒落で段差が低い白い階段があり、そこから屋根付きの呼び鈴が設けられた玄関へと続く。
「こちらは犬が高齢になっても上れるようにと設計されたものです」
ロジャーに続いて玄関までの階段を上がりながら、イヴァンがそっと教えてくれる。
「はぁ、それはすごいですね……」
お金持ちの人が考えることって、と同じく貴族籍ながらもフェリシアは暮らす身分が違い過ぎる豪邸を前に呆然とする。
イヴァンの説明によると、ロジャーはあまり人を寄せ付けない気難しい人でもあるらしい。幼い頃から剣の才能もあったため、爵位を継ぐ前は王宮の第二部隊をみていた。現在も指導教官の一人として名を連ねており、軍事に頭脳を貸してもいる。
人と関わるよりも、剣を振るっているか、自宅ではもっぱら書き物に明け暮れているそうだ。
その文才から、軍関係といった専門分野の書籍の執筆依頼も請け負っており、書斎とは別に『仕事部屋』と呼ばれている大きな部屋があるという。
その近くには使用人を置かないことが決められているのだとか。
「旦那様は気配に敏感なところもあるのです。それが、まぁ、戦いでは活かされているのでしょう」
「なるほど……」
「ほらジャスミン、お前の家だよ。早く上がっておいで」
使用人が開けた玄関から入ったロジャーが、にこにこして読んでくる。気難しい性格の持ち主とは思えないくらい温かみを感じ、フェリシアはそこにと惑いつつも屋敷へと足を踏み入れる。
屋敷内は第一印象通りやはりとても大きい。
高級絨毯が敷かれた床、美しい壁紙がされた壁に大きな風景絵画、金が施された調度品はきらきと輝く。そして天井は高い。
フェリシアは、夢を見ているのではないかと思う。
「人払いをしている間は私が急きょ掃除などを行ったりしておりますが、本日からは犬役以外は、専属メイドとしてあなたに頼む予定です」
「はい、分かりました……」
ロジャーのあとに続きながら、きょろきょろしているフェリシアにイヴァンが言った。
(問題は――その『犬役』よね)
フェリシアは、目の前を歩くロジャーの背へおずおずと視線を戻す。
すると広い部屋に入るなり、ロジャーが笑顔で両手を広げてきた。
「さあおいで! ジャスミン!」
いったい、どう反応すれば正しいのかフェリシアには分からない。
歩きながらイヴァンにざっと説明してもらっただけでは、到底足りない〝特殊な採用仕事〟だ。屋敷の案内を兼ねての細かい説明も後回しである。
室内には、テーブルに紅茶を用意し始めるメイドの姿もあったが、彼女たちはあくまで仕事に徹している。
「ははは、どうしたジャスミン。久しぶりで場所を忘れたのかな?」
「あ、あの、私は初めてで――」
「迷子になっていたからね。さ、おいで」
戸惑っていたら手を取られた。上等な三人掛けソファに導かれたフェリシアは、異性に手を取られていることにどきどきする。
(……これが人を寄せつけない人?)
そもそもどうも『気難しい』という印象を探すのが難しくもある。
それから――こんなふうに手を取っても人間だと違和感さえ抱かないなんて、そうとう〝重症〟らしい。
そう持っている間にも、ソファに腰を下ろしたロジャーの隣に座らされた。
「イヴァン、僕は休憩をする。ジャスミンが不安がるから、他の者は下げろ」
「かしこまりました、旦那様」
イヴァンがメイドたちを退出させた。
有難いことに、ティーカップは二つ用意されていた。そこに目を向け、はじめてフェリシアは気付く。
(あら?)
いつ用意したのか、フェリシアのほうには小さなメモ用紙があった。そっと手に取ってみると、女性らしい字でこんなことが書かれていた。
『お疲れ様です。ご挨拶ができなくてすみません。執事長の反応からしてもなんとなく察しました。旦那様は食べませんが、砂糖菓子もティースプーンのそばに添えています。甘いものを食べると、疲労も少しは薄れるかと』
なんていいメイドさんたち、とフェリシアは感動した。
すぐに戻ってきたイヴァンが「メモを渡して共有しました」とも告げる。
なんて仕事ができる人たちなんだろう。またしてもフェリシアは感動してしまったが、たぶん〝主人がとてもよくできる人だからだ〟と推測した。
使用人たちの統率もとれているところからしても、ロジャーは、屋敷を持った時からはすでにかなり有能な主人だったに違いない。
「ほら、ジャスミンには慣れる時間が必要なんだから、お前もじっと見ない」
ティーカッブを持ったロジャーがイヴァンに行った。
それで放っておいてくれているらしい。
(彼が飲んでいるから、私も飲んでいい、のよね……?)
作法的に言えばそうだ。フェリシアは視線をテーブルへ下ろし、緊張しつつティーカップを手に取る。
「――ん」
飲んでみると、それはミルクが混ぜられていてとても美味しかった。ほんのり蜂蜜の甘さもする。
(旅疲れが癒えるみたいだわ……)
思えば家を出てからずっと、知り合いもいない状態でただひたすらここを目指した。一人になったほうが気楽だと朗らかに独り言をしたものだが、列車内で夜が訪れた外を見て不安を覚えない日はなかった。
(こうして飲んでいても違和感を覚える気配がないわ)
フェリシアは、隣にいるロジャーをうかがう。
イヴァンが言っていた通り、彼は自分にとって都合が悪いことなんて見えないし、頭で理解しようともしていない――のかもしれない。
二十九歳だというロジャーは、落ち着いた表情をしていると怖いくらいに見目麗しいことが分かった。
整った顔立ちにサファイアのような目、上流階級ではたびたび見られる血筋の良さが一目で分かる金髪は彼の白い肌にもよく似合う。
細身だけれど、引き締まっているのはベストを来たシャツ越しにもよく分かる。
(――ど、どうしよう)
フィリアは、不意に緊張が戻ってきた。
こんなふうに異性と隣同士で座ったのは、自宅で顔合わせという形でまず二人になって挨拶をして言葉を交わしたオリバー以来だ。
「あっ」
ロジャーのサファイアの輝きを宿した目が、ふっとフェリシアの視線を捉えた。
「も、申し訳ございません」
つい、彼の美貌を意識してしまったと気付き、猛烈な乙女心の恥じらいが込み上げ慌てて目をそらした。
だが直後、フェリシアは短い悲鳴を上げそうになった。
「ああっ、よかったジャスミン!」
突然、これまでこらえていた落ち着きがまた飛んだみたいに、ロジャーにぎゅぅっと抱き締められた。
心臓が口から飛び出そうになった。
いや、その前に――。
「ティーカップ!」
「大丈夫だよ、先に取ってあるからね」
ハッと思い出してフェリシアい言ったのだが、いつの間にそんな神業を行ったのか、片腕で抱いた彼の残った手には、確かにフェリシアのティーカッブが取り上げられていた。テーブル側へと寄せられたそれを、イヴァンが何も言わずに受け取る。
(か、カップも離したのに私を犬と信じているなんてっ)
頭がこんがらがりそうだ。
けれど、ふとフェリシアは、彼の残る手も自由になったことに嫌な予感を覚えた。
「さすがに僕の隣だと安心してくれるんだな。もう落ち着いたみたいで嬉しいよジャスミンっ」
「ふぎゃっ」
ロジャーが両手でかき抱き、フェリシアの髪に鼻先を埋めた。