ただの『フェリシア』として隣国へ
センディーバ王国から、長距離列車に乗って数日でルシェスハウンド王国に入った。
そこから、仕事が多そうという理由だけで、フェリシアは王都まで走っている国内最大の列車へと乗り換えた。
訳が分からない列車。それを各地で降りて、次の便に乗り継いで――とするより切符一枚、列車一本のほうが意外と安かったのも理由にある。列車旅が初めてのフェリシアには、複雑ではないほうがいいこともあった。
「わぁ……」
列車を降り、大都会の街並みに圧倒された。
とても背が高い国立の建物、パンフレットで見た観光名物の塔に、いったい馬車が難題収まるのだろうと思えるメイン通りの中心にたっぷりと広がった平地の、交差点広場。
(センディーバ王国の王都とも、とても違っているわ)
こんなに広く、そして何もかも大きくて近代的なのも目に新しい。
フェリシアもセンディーバ王国の貴族令嬢として、年に二回ある社交シーズンでは、家族と共に王へ挨拶に行った。
ルシェスハウンド王国は、自国より国土が二倍という超大国だ。
にもかかわらず、自国と同じく、五日あれば王都に辿り着けるのは列車がそれだけ速い証拠だろう。
「ふぅ……まずは休みたいわ」
くたくただった。美しい広場、そこに設けられたベンチへと誘われて、少ない私物が入った鞄を両手で持って移動する。
足元に鞄を置き、座った途端にフェリシアはくったりとなった。
(長距離の一人旅は、慣れないわね)
それでいてまったく知らない異国の地だ。
目の前の見慣れない大都会を眺めていると、人生で一番の、とんでもない行動力を起こしたものだと自分でも思う。
(どうにか衣食住付きの仕事を探さないと)
ここには、あても、知り合いさえもいない。来るまでに結構なお金も飛んでしまったので、アパート代も節約したいところだ。
どうなるか、分からない。
一人で仕事をするなんて初めての経験であるし、きっと挫折だって待っているはずだ。でもフェリシアは、この国で新しく人生を送ろうと思った。
結婚をしない人生を考えた際、もう何が来ようと、乗り越えて見せると心に決めた。
「そうね、頑張りましょうっ」
フェリシアは、自分を奮い立たせるように口にした。
通っていく人々の多さからしても、その中には働きに出てきている人も結構いる感じがある。
見る限り貴族ではなさそうな人もたくさんいた。
服装も庶民から上流階級服まで様々だが、商売で潤っているのか貴族以外も上等な服の着こなし方が目立つ。
この様子からすると、確実に仕事や採用幅も充実しているはずだ。
(それなら早速、職捜しの第一歩を起こすのよ)
疲労感はあるが、実家と母国を離れたことで足が格段に軽いのを感じていた。
だが、立ち上がろうとした直前、力を入れるタイミングをそがれた。
「お待ちください旦那様!」
どこからか、男性の短い悲鳴が聞こえてくる。
気のせいでなければ、その声は近付いてきている気がする。それでいて周囲から小さな悲鳴も次々と上がっていた。
一人のフェリシアは、途端に心細さに駆られて周囲をきょろきょろした。
(いったいどこから声が――えっ)
通行人の向こうに目が留まったところで、ギョッとした。
そこには、人混みをかき分けてこちらを目指して一直線に猛然と向かってくる、男の姿があった。
ブロンドの髪に、とても上質な白いスーツを着こなしていた。
端整な顔立ちをした貴族紳士だったが、目が合った瞬間に彼の眼光が増して、もうそれだけでフェリシアは震え上がってしまった。
「見つけたっ! 僕の、ジャスミン!」
怨念のような地を這う声が、彼の口から強く上がった。
(――いいえ、そんな人知りません)
フェリシアの心の中で即答した。
「ひ、人違いですわっ」
勇気を奮い立たせてようやく身体を動かすことができた。フェリシアは『逃げよう』という行動選択肢が頭に浮かび、慌てて足元の鞄を拾い上げて踵を返す。
「なぜ逃げるんだジャスミン!」
「うっきゃあぁああ!?」
直後、その人が恐ろしいほどの速度を出して距離を詰め、逃げようとしたフェリシアを後ろから抱き締めた。
鞄が、ごとんっと足元の地面に落ちる。
「もう君を離さないっ!」
背中にぐりぐりと顔を押し付つられ、フェリシアの口からさらなる悲鳴が上がった。たくましい男の腕、呼吸……耐性がない異性のその感触にも震えた。
身をよじると、ますますかき抱かれた、
ものすごい力だ。気付けば自分の足が持ち上っていて、フェリシアは慄く。
「ひ、人違いです―っ! お願い降ろしてっ、離してくださいぃっ」
震え上がって、情けない声で悲鳴を響き渡らせた時だった。
「旦那様! それは人間です!」
執事服の男が横から飛び出してきた。
三十代頃のスリムな男だ。彼はフェリシアと男にガシリと手をかけ、引き離しにかかった。
「ひぃ!?」
今度は、別の男性に触れられている。続けざまのことで、フェリシアはぞわりとした拍子に言葉が詰まった。
「旦那様! 今すぐ下ろしなさい!」
「嫌だ! なぜ止めるんだイヴァン! 僕とジャスミンの仲を引き裂こうだなんてっ、お前が相手だろうと絶対許さないぞ!」
「よく見てください! その方は、人・間・です!」
強調された言い方が気になった。
いや、二人共そもそも速やかに手を離して欲しい。
(痴話喧嘩なら私を巻き込まず、よそでやってっ)
そう思った時、フェリシアは腹に腕が食い込むほど抱き締める力が増したのを感じた。こんなふうに触れられたことはなく、びくっと身体が強張る。
すると、見ている方向がくるっと変わった。
「き、……きゃあぁあぁ!?」
あろうことか自分を抱き締めている変態、ではなく貴族紳士がツカツカと歩き出してしまったのだ。
「イヴァン、お前が何を言おうと僕は絶対に離さないぞ!」
「離さないと困ります! そのお方は『ジャスミン』ではありません!」
「ああジャスミンっ、僕がどんなに寂しかったか分かるかい!?」
背中にぐりぐりと顔をこすりつけられ、フェリシアはぞわぞわとした。
「いゃあぁあぁっ、いい加減に離して―っ!」
「まさかこんなところで迷子になっていただなんて! もう僕から離れないでおくれ!」
「旦那様! いい加減にしてください!」
三人の声が町中にぎゃんぎゃん響く。
後ろのほうは見えないが、フェリシアは自分を抱き上げている男が嫌々と顔をぶんぶん振っているのは感じていた。くすぐったくてたまらない。
周りのざわめきに気付いたのか、執事が小さく息を吐いた。
説得の声が途端に止まった。
まさか、と思ってフェリシアは思わず横を見た。そこにいた執事は、男の隣を歩いているだけだ。
「……あ、諦めないで助けてくださいぃ!」
思わず見知らぬ執事に涙目で叫んだ。
「申し訳ございません、不可抗力です」
「私のほうを見て言ってくださいっ」
彼は「はあぁ」と溜息を吐くばかりで、手を動かそうともしない。
「この状態で引き離すと、余計に面倒なことになります。旦那様は、全力で連れ帰る方向に時間を費やすでしょう」
「そこまで!?」
どうしてこうもかたくななのか。
フェリシアはちらりと肩越しに目を向ける。そこには、自分の背中に顔を押し付けている紳士のブロンドの頭が見えた。
(と、殿方の髪に触れてしまっているわ……)
異性というのは遠い存在とばり思っていたから、どきどきする。
彼は、確かに執事から反対意見が言われなくなったおかげか大人しくはなっている。
「……でもこれ、ほんと、いったいどういうことなのですか?」