旦那様その不意打ちはなんですか!?
ひとまずこの姿勢を解除してもらうべく、こくりと喉を鳴らして、答える。
「べ、別になんでもないです」
「そうは感じなかった。何が心を悩ませている」
「考えなんて旦那様には関係ないじゃありませんか」
「ある。お前が落ち込んでいるのを見過ごせない」
それは――きっと愛犬に対しての優しさだ。
フェリシアに言っているわけではない。それなのに、彼女の胸は甘くざわついた。
「いい子だから、教えてごらん」
彼は「ん?」と優しい声を上げ、フェリシアがまん丸く見開いた新緑の瞳を覗き込んでくる。
(私に言っているわけじゃない、彼には私が愛犬に見えるだけ)
けれど、彼の優しさは本物だ。
それを彼の眼差しや雰囲気すべてに感じ取ってしまったフェリシアは、強く愛犬が羨ましくなる。
言葉が通じないのに、こうされるほどまでに愛されていたのだろうなと思えた。
フェリシアは、こんなふうに家族以外に気にかけられたことはない。
代わりでもいいから、今、ほんのちょっぴりだけ頼りたくなってしまった。
「……もしも、もしもの話ですよ? どこからも必要がないと言われて、結婚できなかったとしても私は幸せになれますか?」
令嬢でも幸せになれるのか。
フェリシアはそんな思いで尋ねてみた。この国は女性も活躍しているようだし、彼は何か知っていないだろうか。
ロジャーが目を見開く。
フェリシアはハッと身を引いた。
「いえ。変なことを言ってしまってすみませんでした。ジャスミンの話ではないんです、ごめんなさい」
失敗だ。彼に、自分の話をすべきではなかった。
慌ててモップを取り返し、いったん出直すべく廊下を走ろうとした瞬間、後ろから両肩を掴まれた。
「ふぇっ?」
そのまま彼のほうへくるりと向けられた。
力強い手は、フェリシアが正面を向くと彼のほうに固定するみたいに、今度は床に足を留めさせる。
そこにいたロジャーは覗き込んでいた。振り返りざま、目と鼻の先に彼の顔面を見てフェリシアはその近さに息を呑む。
何かあるのだろうかと言葉を待ったら、ただひたすらじーっと見つめられた。
「えっ、え……?」
穴があくほど見つめられ、力強い眼差しに自然と頬が熱くなる。
と、不意に彼の両手がフェリシアを引き寄せた。
「だ、旦那様いけませんっ」
ぐんっとロジャーの顔が近付いてきて、咄嗟にフェリシアの頭にパッと浮かんだのは、キスだ。
慌てふためいて伝えたが、ロジャーの美しい顔がすぐそこまで迫る。
フェリシアは、咄嗟に目をつぶった。
――がぷっ。
「ひょわ!?」
直後、耳の先を軽く噛まれた。甘噛みつれるような感触に目を開けると、ロジャーが頭を引き戻して、フェリシアの顔を見つめてくる。
「元気、出た?」
「……え?」
「気分が沈んだら、ここを噛んで教えたらいつも元気になってくれただろう? 何も不安を覚えることはない」
フェリシアは目をぱちくりとした。こちらを覗き込む彼は、色っぽさとは程遠いにこやかさだ。
(――って、それ犬の話!)
躾か何かで噛まれたみたいだ。フェリシアは真っ赤になり、まだ彼の吐息や柔らかな唇の感触が残っている気がする耳を咄嗟に手で押さえる。
嘘でしょ、と頭の中では言葉がいっぱい浮かんでいるが、羞恥のあまり声が出ない。
まだ来たばかりなのに、ロジャーは「元気になってよかった」と何やら一人納得し、書斎へと戻って行ったのだった。
◇◇◇
あのあと、フェリシアはロジャーの仕事中にある休憩時間で、大急ぎに書庫へと突入した。
つい『犬の躾』という本を手に取ったが、耳を噛むという項目は探せなかった。
(旦那様が独自にしていること? それとも愛犬家ではよくあることなのっ?)
分からない。
だが、異性に耳を甘噛みされるというのは、フェリシアにとって衝撃的だった。誰かに尋ねることも難しすぎる内容だ。
「あ、ああぁ……旦那様の前では冷静にいるように努めないとっ」
落ち着かせるか、元気を出させる時に愛犬の耳を噛んで〝じゃれて〟いたのだろう。
そんなこと彼にさせるわけにはいかない。
「およっ、お嫁に行けなくなる……っ」
動揺して涙目になっていたら、休憩室に入ってきたメイドがぎょっとして、どこかの男に泣かされたのかと勘違いした。
それは続けて数人女性が入ってきたせいで一気に膨らんだ。
「どこの男なのっ、ガツンと一発れ入てくるわ!」
「どこに!?」
「フェリシア様、都会の女は強くなければならないのです」
「ここの男性たちは挨拶代わりに唇を奪うのも、『デートしない?』と散歩のごとく誘うのも日常的」
スキンシップが強い国柄だとは知らなかった。
「そうなのですか?」
「ですから、出入りしている業者にも気を付けたほうがいいでしょう」
「まったく、違う国から来たばかりなので遠慮してくださいと言わなければなりませんわね」
「彼らも挨拶代わりになれなれしく手へ口付けてきますが、あんなのは虫にとまられたと思えばいいのです」
聞く耳を持たない団結した女性たちは、フェリシアが訂正しようとした言葉から『手に唇をつけられた』と思い至ったらしい。
それも違うのだが、いい助言を聞いたとフェリシアは思った。
(そ、そうね、なかったことにしましょう)
それが一番早いし、何よりそうしなければならない。忘れないと、今夜の就寝時間が大変だ。
動揺したり変な仕草になったりして、もし人の目がある状態で今度は『あんな躾』をされても、困る。
もう二度とあんなことをさせないよう、フェリシアが気を付ければいいのだ。
たが、さすがにロジャーと付き合いの長いイヴァンは気付いたらしい。
「まさか……旦那様が、耳に噛むやつをやったのですか?」
「うっ」
メイドたちが何やら業者の男を血祭りに上げそうな勢いだったのだが、何か知っているかと確認にきたイヴァンが、フェリシアの顔がみるみるうちに真っ赤になったのを見て、納得の表情を浮かべた。
やはりロジャーは愛犬にそんなことをしていたらしい。
「い、言わないでくださいぃっ」
「さすがに言いませんよ。ですから泣かないでください」
彼は額に手をあて、溜息をこぼしていた。
「旦那様がそこまで変態だとは……」
人間相手として考えるとそうだが、そんなこと言わないであげて欲しい、とフェリシアは思った。
ロジャーは、あくまで『犬』だと思っているのだ。
そう思うくらいにフェリシアは彼の味方になっていた。それが、ただの情でありますようにと祈りながら。