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エアロ!  作者: 迎ラミン
第三章 トレーナー
9/20

トレーナー 1

 申し込みは結構ぎりぎりで、『IOI』本番までちょうど一ヶ月しかなかった。

 しかもなぜか、話を聞きつけたみくまで、


「だったら私も出ます! エロ薬飲ませようとしたスケコマシー斉藤を、翔子先輩とのコンビでぎゃふんと言わせてやるんだから!」


 などと言い出した。どこぞの芸人かプロレスラーのようなニックネームを勝手につけているし、当たり前だが『IOI』にはダブルス種目など存在しない。けれどもエントリー自体は自由だし、会員の応援も増えるだろうということで、なんとさゆりたち幹部はそれもあっさりとOKしてしまった。

 ちなみに今年度の『IOI』優勝景品は、《マッチョな男たちに会いに行こう! フィットネスの聖地カリフォルニア、マッスル・ビーチへ三名様までご招待!》というもので、公式ウェブサイトにもでかでかと記されている。サイトを確認した翔子は、今回の件に関する言い出しっぺはおそらく獅子神だろうと、こっそり苦笑したものだ。


 まあ優勝は無理だとしても、斉藤先生――もとい、斉藤にだけは負けるわけにはいかないものね。


 頭のなかとはいえ、今までのくせで「先生」とつけてしまったのをすかさず訂正しながら、翔子は誰もいないAスタジオに入った。隅の棚にあるCDデッキの、22:30という時刻表示を確認しながら照明のスイッチを入れる。

『IOI』に向けて練習できるようにと、さゆりはわざわざ「電源と戸締りにさえ気をつけてくれれば、営業終了後、自由に練習してもらってかまいません。天野先生なら、そのへんも心配いらないでしょうし。本番、期待してますよ」と、スタッフ通用口の鍵まで預けてくれたのだった。

 出場の経緯はともかくとして、ここまでしてもらったからにはやるしかない。かくして翔子はほぼ毎日、メイク・フィットでのレッスンがない日でさえも、こうしてお邪魔して練習に励んでいるのだった。


「よしっ、今日も頑張ろう」


 鏡に向かっていつもの笑顔をつくり、CDをセットする。

 音楽とともに、翔子は入念なウォーミングアップを開始した。




 全国から六十名もの出場者が集うという『IOI』の審査は、三次にまで及ぶ。なかでも、もっとも過酷と言われるのが一次審査で、その名も《サバイバル・エアロ》。

 これは総時間六十分間もの公開エアロビクスで、出場するイントラたちが普段とは逆に皆でレッスンを受ける。そうして動きや表情から二次審査へ進めると判断された十二人のみ、番号を呼ばれた順に抜けていくという、まさにサバイバル・レースである。


 経験者の獅子神によれば「でも実力があれば、十五分程度でさっさと番号を呼んでもらえるわよ」とのことで、彼も実際にそうだったらしい。逆に当落線上の者はほぼ最後まで、つまり一時間近く踊り続けなければならないので、スタミナの温存という点を考えても、この時点から審査員に好印象を与えておきたいところだ。


「翔子ちゃんなら絶対大丈夫よ。多分、前半の三十分以内には呼ばれるんじゃないかしら。むしろそのあとの二次、三次の振付や構成を練っておかないとね」


 とも言ってくれたが、どうしてもプレッシャーを感じずにはいられない。確率で考えれば五人に一人しか通過できない計算だし、下手をすれば一次審査の時点で、斉藤との勝負が決してしまう怖れだってある。そんなわけで翔子は「どこにいても目を引くくらい楽しそうに、元気よく踊ること」も今まで以上に意識しながら、日々の練習に取り組んでいた。


 その《サバイバル・エアロ》をくぐり抜けると、いよいよイントラとしての指導力が試される、模擬レッスン形式の二次審査、三次審査へと進む。二次では一人十分間の演技で十二人がさらに六人に、そして最終の三次では一人あたり二十分のレッスンを入念に審査され、一位から三位までが決定するという大会規定になっていた。


「てことは獅子神さんも、上位三名に入られたってことですよね」

「私? 二位だったわよ。銀メダル」


 さらりと答える獅子神もじゅうぶん凄すぎるが、その彼を抑えて優勝したイントラがいるということにも翔子は驚かされた。


「一位の子は、ずば抜けてイケメンてわけじゃないけど、ほんっとに楽しそうにエアロする男の子でね。私も見てて、思わず一緒に踊っちゃったもの。今はダンサーになって、パリのテーマパークでショーに出てるらしいわ。残念ながらノンケだったけど」


 最後のひとことは置いておくとして、やはり楽しさや、自身もエアロが大好きだという気持ちが伝わるに越したことはないようだ。


「でもそのへんは翔子ちゃんの得意分野っていうか、まさに持ちキャラでしょ。神さんのヤンキー電話がなくても、私はあなたを推薦しようと思ってたわよ」


 たしかに、自然と笑顔がこぼれるあまり「先生が一番楽しそう」と会員たちに笑われることすらあるのが、翔子のレッスンだった。獅子神ほどの先輩にもそれが好意的に伝わっていたというのは、ささやかな自信にもなる。


「うん。やっぱりエアロは楽しくなくちゃね」


 まさに自然な笑顔でつぶやいて、翔子はウォームアップを続けていった。




 身体も温まった翔子は、実際に本番で使う技術の確認に入った。いくつかのステップとともに、細かい部分も入念にチェックしていく。元気よく見せることに夢中になりすぎて、手先や足先がおろそかになっていないか。正面だけでなく、横や後ろからの視線も意識できているか。


 うん。


 悪くない、と自分で思えたところでスタジオの端へと移動し、折り返しから歩幅を広げる。シャッセと呼ばれるツーステップ。回転技のピルエット。

 そして。


「やあっ!」


勢いあるジャンプの直後、パン! という音が響いた。斜めに伸ばした足先同士が空中で打ち合わされ、反動も使って上側の脚が大きく跳ね上がる。

 板張りの床に降り立った翔子は、そこでようやく動きを止めた。


「カブリオール、やっぱダブルにしたいなあ」


 宙に浮いている間に足を打ち合わせる「カブリオール」は、もともとはバレエテクニックの一つだ。高い跳躍力と同時に、素早い脚の動きを可能にする筋力も必要とされるため、ダンスの世界では男性ダンサーの見せ場としても知られている。

 だが翔子は、女性ながらにこのカブリオールが得意だった。子どもの頃は実際にバレエ教室に通っていたし、高校もダンス部だったのでかなり身軽なのである。


 まあ、胸がないぶん軽いのかもしれないけど。


 自虐的に思ったりするのはさておき、その軽やかな跳躍は専門学校時代から、同級生や先生たちも認めてくれる大きな武器になっていた。ただ、メイク・フィットもそうだが、通常のエアロレッスンは参加者の多くが一般の、それも女性ばかりなので、カブリオールのような大技を振付に入れることはほとんどない。仮に入れたとしても、大部分の人がついてこられないばかりか、下手をすれば怪我人が出てしまうだろう。


 そういった意味では、コンテストとはいえ自分の運動能力を思いきり発揮できるのは、たしかに気持ちがいい。ただし翔子としては自慢の武器をさらにもう一段階上のレベル、足を二度打ち合わせる「カブリオール・ダブル」にして、審査員への格好のアピール材料としたかった。レッスンとしてはやりすぎかもしれないが、参加者には、「もちろん皆さんはシングルでいいですよ!」と笑顔で伝えればいいだけの話だし、逆に大技を入れることで会場は盛り上がるはずだ。獅子神からも「最終審査ではどこかで参加者や客席が、おおーって湧くテクニックは入れた方がいいわよ。私のときは、バク宙する子もいたぐらいだし」と言われていた。


「でも、ぎりぎり間に合わないのよね」


 いかに跳躍力があるとはいえ、宙で二回も足を打ち合わせるのはさすがに難しかった。ジャンプの高さは足りているはずだが、空中での脚の動き、特に二回目のカブリオールがどうしても間に合わない。


 まだまだ! 練習あるのみ!


 笑顔とともに、翔子は直前のシャッセからもう一度くり返していった。




 三十分近くカブリオールを跳び続け、さすがにジャンプの高さも少し落ちてきたところで、いったん翔子はスタジオを出た。空調こそ切られているものの、なかよりはひんやり感じられるジムの空気が心地いい。

 照明も点いていないため薄暗いが、迷うことなく冷水器に近寄った翔子は、空になったボトルに水を入れながら首を捻った。


「やっぱり脚、開きすぎかな。(ない)(てん)(きん)も疲れてる気がするし……」


 脚を閉じるときに使われる内股の筋肉を、不恰好に揉み始めたとき。


「内転筋、痛めたんですか?」

「きゃあっ!!」


 背後から突然聞こえた声に、がに股のまま振り返ってしまった。


「あ、すいません」

「赤星さん!」


 ジムの出入り口、非常灯の淡い光のなかに、Tシャツと短パン姿の健が立っている。


「びっくりさせちゃいましたか」

「い、いえ……大丈夫、です」


 まだ心臓がバクバク言っている。どうも最近、この人に心拍数を上げられてばかりだ。

 直後に翔子は、自分のおかしな格好に気づいて慌てて脚を閉じた。


「や、やだ! これは違うんです! そう、内転筋です、脚を閉じる内転筋!」


 意味がわからないうえに、釈迦に説法そのものの台詞である。しかし健の方は特に気にする様子もなく、もう一度冷静に確認してきた。


「痛めたわけではないんですね? 翔子先生」

「あ、はい。全然元気です。ありがとうございます」


 また心臓の音が聞こえた気がする。斉藤に泣かされたあの日依頼、健はごく自然に「翔子先生」と呼ぶようになってくれていた。


「よかった。翔子先生は頑張り屋さんですから、ちょっと心配しました」

「……ありがとうございます」


 なぜだろう。室温は高くないはずなのに、顔の熱さが治まらない。むしろ自分を落ち着かせるため、翔子は尋ねてみた。


「あの、赤星さんはなんでここに?」

「ああ、俺……じゃなかった、僕も自分のトレーニングで。営業終了後、よくやらせてもらってるんです」

「へえ」

「今日はジムじゃなくてプールで泳いでました。ストレッチだけ、ここでやろうと思って」


 相変わらず生真面目な口調ではあるものの、健の表情は優しい。二ヶ月前に受けた最悪の第一印象は、今はもう翔子のなかからすっかり消えていた。それに、やっぱりさすがだ。もう夜中なのに自分のトレーニングを欠かさないなんて。

 そんな感想を察したように、健は続けた。


「俺、やっぱりクラブが好きなんです。立派なトレーニング機器が沢山あって、プールがあって、スタジオやエステサロン、大きなお風呂だってある。身体を鍛えたい人にとって、こんなに恵まれた場所ってないですよ」


 薄明かりの下、瞳が強い光を放っている。先日、ジャイナバのサロンで肩を掴まれたときもだったが、トレーナーとしてのスイッチが入るとこうなるようだ。


「たとえば、部活の学生が本格的に筋トレしたいって思っても、普通の学校のトレーニングルームなんて、せいぜい古いマシンやバーベルが置いてある程度でしょう? 安全面も怪しいことが多いし、プールやお風呂なんて望むべくもない。大学だってそうです。俺の大学はスポーツに力を入れてるけど、ここまで沢山のマシンや広いスタジオがある施設なんて、キャンパスのどこにもありません」


 真剣に語る姿を、気がつけば翔子は真っ直ぐに見つめ返していた。いつの間にか胸の鼓動も、顔の熱さも治まっている。


 この人、本当にトレーニングのことが好きなんだ。


 同時に、少しだけおかしく思う。


 初めて会ったときは、ちょっとおっかないぐらいだったのに。


 つい微笑んでしまったが、健の声はさらに熱を帯びていく。


「だから俺、そういう環境にいるからには、やっぱりお客さんのお手本でいたいんです。たとえ会員さんがこっちの名前を知らなくても、あのスタッフさんね、とか、自分もちゃんと身体を鍛えてるあのトレーナーさん、ってすぐにわかってくれるような。坪根チーフとか神さん、獅子神さんはそういうところもすげえなって、マジで尊敬します」


 口調も年相応の大学生らしいものになっている。つまりはこれが、普段の彼なのだろう。ますます距離が縮まったように感じられて、翔子は嬉しくなった。


「翔子先生だってそうです」

「え?」


 こっそり喜んでいたところに、いきなり自分の名前を出されてびっくりした。


「ジムとかプールで、ポニーテールの可愛い先生のクラスもっと増えないかなあ、とか、笑顔が素敵だからいつも元気をもらえる、なんていう会員さんのお声をよく聞きますよ。俺もその通りだと思いますし」

「……あ、ありがとうございます」


 俺もその通りだと思います、ってつまり、それは、その……。


 恥ずかしそうに俯く姿に、健は怪訝な顔をしている。


「翔子先生?」


 数秒遅れて、やっとスイッチが解けたらしい。


「あっ! ち、違うんです! いや、違わないけど! 要するにお客さんが言う通り、翔子先生は可愛くて笑顔が素敵で……あの、そういうイントラさんだってことです!」


 見慣れたクールな態度とはかけ離れた様子に、思わず翔子は吹き出してしまった。おかげで逆に、自分の方が冷静になれた。


「あはは、大丈夫ですよ。言いたいことはわかりますから。でも本当に嬉しいです。ありがとうございます」


 笑った勢いのまま、いたずらっぽくつけ加えておく。


「あと、できれば普段から今みたいに話してください。自分のこと〝俺〟って言ったり、自然な感じで。私もその方が嬉しいです。だって同い年でしょう?」

「は、はい。頑張ります」


 まだ動揺しているのが丸わかりで、ますますおかしい。ここのところ心拍数を上げられてばかりだったので、ささやかな仕返しができた気もする。

 リラックスできたからだろうか。「そうだ!」と、翔子の頭にアイデアがひらめいた。


「赤星さん」

「はい?」

「お願いっていうか、頼みごとがあるんですけど」

「はい、頑張ります」


 まだ何も言ってないでしょ、とまた吹き出しそうになりながら、チャーミングな笑顔のまま翔子は尋ねた。


「ちょっと苦手な動きがあるんですけど、そのためのトレーニングとか、身体の使い方とか、アドバイスしてもらっていいですか?」

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