アイ・オー・アイ 4
当初よりずっと安心してメイク・フィットを出た翔子だったが、クラブ裏手の駐車場に差しかかったあたりで思わず足を止めた。黄色い派手なオープンカーのところに立っている男性と、目が合ってしまったからだ。
斉藤だった。
額に乗せたサングラスと小麦色の肌、ぴったりしたTシャツに金のネックレスという姿は、知らない人が見たら完全にホストである。
ただし向こうはスマートフォンで誰かと話しており、翔子の姿を認めても「なんだ、君か」とばかりに、細い眉をぴくりと動かしただけだった。
君など眼中にないよ、とでも言わんばかりの態度で視線を外し、斉藤は会話を続けていく。
「ああ。そこそこ順調だ。田舎の有閑マダムたちなんて軽い軽い。けど、やっぱケチだな。たかだか八千円程度のロットに二の足踏んでやがる。こっちはホストの真似事までしてババアを喜ばせてやってるってのに、恩知らずなもんだよ」
途切れ途切れではあるが、「田舎の有閑マダム」「八千円程度のロット」といった単語が、翔子の耳にもはっきり届いた。そして。
「ついでに、若くて活きのいいイントラのねーちゃんたちにも配っといたよ。すれてない子もいるし、引っかかったら遠慮なく食わせてもらおうと思ってる」
今度の台詞は、ほぼすべてが聞こえた。
もとより険しい表情を浮かべていた翔子は、通話が終わるやいなや、眉間のしわを一層深くして斉藤に駆け寄った。
「斉藤先生!」
「やあ、翔子さん。相変わらず可愛いね」
調子のいい台詞はいつも通りだが、もはやこちらを馬鹿にした雰囲気を隠すこともしない。周りに人がいないとこうも違うのかと、別の意味でも不愉快な気持ちにさせられる。
「なんであんなサプリメント、売ろうとするんですか」
「ん? 『スキップ』のこと?」
「他に何があるっていうんですか」
それでもなんとか冷静さを保とうとする翔子に、むしろ神経を逆撫でするかのように、斉藤は「ふん」と鼻で笑ってみせる。
「たしか昨日、ジムの小生意気なバイトにも同じような説教されたなあ。なんつったっけ、赤福、赤紙、ええっと……」
すぐにわかった。健が自分でも直接抗議してくれたのだろう。
「赤星さんでしょう。赤星健」
「ああ、そうそう。そのタケル君。なんかバイトのくせにえらくマジな顔してさ、天野先生と佐野先生にまでこんなもの飲ませようとしたんですか、なんて言われちゃったんだよね。そっか、彼にいろいろ聞いたんだ。あれ何? 翔子ちゃんの彼氏かなんか?」
「違います!」
馴れ馴れしい「ちゃん」づけにも気づかないくらい、翔子はますます腹が立っていた。同時に、悔しくてたまらない。
たしかに健は無愛想だし、堅苦しいし、可愛げがないかもしれない。でも間違いなく、彼はこの仕事に誇りを持っている。立場こそアルバイトだけど、お金をいただくプロのトレーナーとして会員のこと、クラブのことを第一に考えてくれている。少なくとも斉藤とはまったく違う。なのに――。
「あれ、とか、なんか、だなんて……」
「ん? やっぱ翔子ちゃんの彼氏?」
「だから違います! それも含めて、赤星さんに失礼でしょう!」
我慢できず声が大きくなってしまったが、斉藤の方は軽薄な笑みを消さないまま、さっさとオープンカーに乗り込んでいる。
「ふーん。ま、どうでもいいけど。そんなことより君もみくちゃんも、『スキップ』飲まなかったんでしょ? せっかくエフェドリンも入れといたんだから、イケメンの赤福君に色仕掛けの一つだってできたかもしれないのに。もったいないことしたねえ」
「なっ……!?」
失礼極まりない台詞に言葉を失っていると、さらなる追い討ちをかけられた。
「どーせ君ら女のイントラなんて、イケメンにはすぐ股開くじゃん。年取ったらそのへんの小金持ち捕まえて、主婦やりながら趣味でチイチイパッパのレッスン続けられりゃ、御の字でしょうが。今のうちに楽しんどきなよ」
「あ、あなた! 言っていいことと悪いことが――」
だが翔子の抗議は、大きなエンジン音にかき消されてしまう。かわりに「まあせいぜい、いい男見つけなよ。翔子ちゃん」という捨て台詞だけを残して、黄色いオープンカーは乱暴に発進していった。
「…………」
呆然としていた翔子は、しばらく経ってからようやく、視界が滲んでいるのに気がついた。頬に何かが流れる感触がある。
涙、だった。
なんの涙か、よくわからない。でも悲しいのとは違う。むしろ怒っていいはずだ。いや、実際に心は怒りではち切れんばかりだった。きっと健も昨日、同じような対応をされ、同じような言葉を浴びせられたのだろう。
でも、なぜか涙がとまらない。どうしてなのか、どうすればいいのかわからない。斉藤に対する怒り。仲間である健を、自分たちの職業を、仮にも同業者から馬鹿にされた悔しさ。それに対して何も言い返せなかった不甲斐なさ。いろんな気持ちがごちゃまぜになって、勝手に両目から溢れてくる。
「龍子先生……」
こんなときいつも道を示してくれた恩師の名を、無意識のうちにつぶやいたとき。
答えるかのようなタイミングで、肩に手が添えられた。
「ショーコ!」
「え!?」
「サ・バ・ビアン? ダイジョーブ?」
褐色の肌と目鼻立ちの大きな顔が、心配そうにこちらの瞳を覗き込んでくる。エステサロンのジャイナバだった。サロンの消耗品であるウエットティッシュなどを買いに、近くのドラッグストアへ出かけていたのだろう。片手にビニール袋をぶら下げている。
「ジャイナバ! あ、ありがとう。ごめんね……」
「ケスキリヤ? 何かあった? プティ・タミとケンカした?」
「ううん、そうじゃないの。ありがとう」
プティ・タミというフランス語が「恋人」という意味なのを思い出したら、自然と泣き笑いじみた表情になってしまった。似たようなことを言っているのに、斉藤とはどうしてこんなに違うのだろう。どうしてこんなに優しさが伝わってくるのだろう。
「でも、ショーコのこのラルムは、うれしいラルムじゃないね。寂しかったり辛かったりするときのラルムだね」
「ラルム?」
「ウイ。ええっと、ジャポネでなんて言ったっけ。これ」
手のひらだけ白い手が、ためらうことなくそっと涙をぬぐってくれる。
「ああ、涙」
「ウイウイ。そう、ナミダ」
「うん。ちょっと嫌なことがあって。ごめんね」
「ノンノン。ショーコが謝るの、変だよ。さっきサイトーと話してたよね? あいつのせい?」
「うん。ちょっと……」
言うべきかどうか迷っていると、分厚い唇をとがらせたジャイナバが、珍しく不満そうな表情をみせた。
「私、サイトーあんまり好きじゃない」
「え?」
「だってあいつ、サイサイだよ」
「サイサイ?」
「ウイ。セネガルでは、スケコマシのことをそう呼ぶの」
ジャイナバでも嫌いな人がいるんだという事実に驚くとともに、どこでそんな日本語を覚えたんだと、また少しだけ笑いがこぼれた。
「セ・ボン。やっぱり笑ってるショーコが、トレ・シャルマンテだよ」
たしかこれは英語で言うところの、ベリー・チャーミングという意味だ。
「ありがとう」
もう一度、翔子は微笑んだ。微笑ませてもらえた。すると、にっと笑い返してきたジャイナバが、空いている方の手で腕を取ってくる。
「じゃ、ショーコ、気持ちオチツカセルためにアロマしよう。お茶しよう」
「え? ちょ、ちょっと、ジャイナバ?」
「ダイジョーブ。アッラーはきっと見てるよ。セーギは勝つよ」
よくわからない理由で、だがなぜか自信満々で笑うイスラム教徒の友人に引っ張られて、翔子はメイク・フィットの館内へ戻ることとなった。
《じゅんびちゅう》という店主直筆の札を表に出したエステサロンは、当然ながら誰もいなかった。翔子を招き入れたジャイナバは、どこかに内線電話をかけたあと、ご機嫌な様子で奥の流し台に向かっている。
しばらくすると暖かい蒸気とともに、ふわりと安らぐような香りが流れてきた。
「あ、ラベンダー?」
「ウイ、セ・サ。リラックスのときは、これがテイバンね」
施術台のベッドに腰掛けるよう言われた翔子は、涼しい室温とラベンダーの香りのおかげで本当に落ち着いてきた。やはりジャイナバの腕はたしかだ。
「そうだ、ジャイナバ。この前のアロマもありがとう」
「ああ、エセイエしてもらったやつね。ジャイナバ・スペシャリテ。セ・ボン?」
「うん。とってもいい香りだったし、なんだか疲れも取れた気がしたよ」
「セ・ビアン。よかったよかった」
ジャイナバも満足そうに頷いている。
「あれって、何を混ぜたの?」
「ラベンダーにビサップをメランジェしてみたんだよ。あとは、ニューコー」
ラベンダーはわかるが、あとの二つがわからない。翔子が小首を傾げていると、ジャイナバは棚からガラス瓶を二つ手に取り、見せてくれた。
「こっちがビサップ。セネガルに一杯生えてる。ジュースとかもつくるよ」
「あ! ビサップってハイビスカスのこと?」
「ウイウイ。セ・ラ・メム。おなじおなじ」
ガラス瓶の片方に入っている紫色の乾燥花は、よく見るとハイビスカスの名で知られるそれだった。
「こっちはニューコー」
「ニュウコウ?」
「ウイ。フランキンセンスのジュシだね」
「ジュシ」が樹脂というのは理解できたが、「フランなんとか」とはなんだろう。ふたたびのクエスチョンマークとともに翔子が瓶に顔を近づけると、そこには《Frankincense(乳香)》と書かれていた。
「ああ、乳香ね」
名前だけは聞いたことがある。アロマに使われる精油の一つだったはずだ。
「ニューコーのニューは、おっぱいの意味でしょ?」
「え?」
思わず訊き返すとジャイナバは、にっと無邪気な笑顔を返してきた。
「ニューコーは胸のキンチョーをほぐして、コキューを楽にしてくれるんだよ。おっぱいを気にしてたショーコにも、チョードいいと思ったの」
「そ、そういう意味で気にしてるんじゃないってば!」
いつだったかは忘れたが、たしかに翔子は「胸が悩みの種なの」とジャイナバにぼやいたことがあった。ただし、さすがにアロマで解決できる問題ではない。
「チガウの?」
きょとんとなるジャイナバだったが、外から聞こえてきた「すみません!」という声にぱっと顔を上げた。
「ウイ! ビアンヴニュー! どーぞ、入ってOKよ!」
「はい、失礼します」
丁寧な返事と、はきはきした語り口。翔子もすぐに出入り口へと視線を向ける。
「赤星さん!」
「翔子先生! よかった、無事だったんですね」
「はい?」
無事って何が? ……って、あれ? 翔子先生?
目を丸くしたのもつかの間、入ってきた健がいつも通りの生真面目な、けれどもやや焦りの滲んだ表情でこちらを覗き込んでくる。
「翔子先生」
「は、はい」
「ちょっと待っててください」
「え?」
言うが早いかジャイナバに、「氷とビニール袋、ありますか?」と確認した健は、あっという間に握りこぶし大の氷嚢を作って差し出してくれた。
「目、赤いです。大丈夫ですか?」
「あっ! い、いえ、大丈夫です。ありがとうございます」
しまった、と思ったがもう遅かった。涙のあとを気づかれてしまったらしい。泣き腫らした顔を見られた恥ずかしさから、翔子は目元以外も赤く染める羽目になった。
「怪我とかはないですよね?」
こちらの気持ちを知ってか知らずか、心配そうな健はさらに顔を覗き込んでくる。ますます頬や耳が熱い。
だ、黙ってればイケメンなんだから、そんなに見つめないでよ……。
俯く翔子の姿に、部屋の主だけが勝手に喜んでいる。
「タケル、やっぱりトレ・ジャンティね。ショーコとプティ・タミがお似合いだよ」
「ちょ、ジャイナバ! 変なこと言わないの!」
斉藤と違ってまったく悪意がないことはわかるものの、本人を前にして言われると余計に恥ずかしいし、何より申し訳ない。
もはや逃げるしかないとばかりに、翔子は「ありがとうございます。大丈夫ですから、ほんと」とベッドの端へおずおずと移動した。
すると驚いたことに、追いかけるようにして健が距離を詰めてくる。
「え!?」
予想外の展開に固まりかけたところで、さらに別の声が、それも複数飛び込んできた。
「ジャイナバ、入るわよ!」
「失礼します」
「私もいるわよー!」
「ビアンシュール! サユリとジンさん、シシガミさんもビアンヴニューね」
返事とほぼ同時に、まさにどやどやという感じで現れるさゆりと神、さらには獅子神。ベッド二つしかないサロンの人口密度が、一気に高くなった。
「赤星、天野先生のご様子は?」
「ご本人は大丈夫と仰ってます。見た感じ、目が少しだけ赤く腫れていますが、涙のせいかと。ジャイナバさんに氷をもらってアイシング対応しました」
「そうか。ならよかった」
狭苦しい空間など気にもしない様子で、ついでに言えば当人の自分を完全に差し置いて、神と健の間で急病人を扱うような会話が交わされている。残る二人、さゆりと獅子神の方は、翔子に直接言葉をかけてきた。
「天野先生、少しは落ち着いた?」
「貞操は奪われてないみたいね。マジでよかったわあ!」
獅子神の飛躍しすぎな想像はともかくとして、落ち着くどころか逆に思考が停止する寸前の翔子は、ぽかんと周囲を見つめるしかない。
「あの……」
「ビアンビアン。ショーコ。みんなシンパイしてくれてるよ」
相変わらず無邪気に笑うジャイナバを見て、「あ」とようやく状況を理解した。
「ひょっとして、ジャイナバが皆さんに知らせてくれたの?」
「ウイ、イグザクトマン。ショーコみたいにシャルマンテな女の子が泣かされてたら、私もシンパイだよ。だからノン・プロブレマに見えても、サユリやジンさんにはホーコクしておいたの。エクスキュゼ・モワ」
「ううん、ありがとう」
サロンに翔子を連れてきたあと、ジャイナバはどこかに内線電話をかけていた。あれは事務所宛で、「ショーコがサイトーに泣かされてたから、連れてきたよ」とでも伝えてくれたのだろう。
「ありがとう、ジャイナバ」
生まれも育ちも、信じる神様さえも違うアフリカ生まれの友人に、翔子は心からのお礼を重ねた。セネガル人は彼らの言葉で「テランガ」と呼ぶおもてなしの精神、優しい心根を大切にするというが、国籍こそ日本人になった彼女も、もちろんそれを忘れていないのだ。本当に素敵な人だと思う。
「とりあえず、お身体がご無事で何よりでした。ジャイナバから内線をもらったときは、少々驚きましたが」
「そうね。赤星君なんて私たちに断りもなしに、真っ先に飛び出してったものね」
「ほんと。健ちゃんがあんなに血相変えたの、私も初めて見たわ」
同じく一息ついた様子で幹部たちが微笑み合う。からかうように名前を出された健だけが、やや動揺した表情になった。
「すみません。俺も心配だったから、つい」
いつもは「僕」の一人称も「俺」になってしまっている。そんな姿をもう一度微笑ましく見つめたさゆりが、「ちょっといい?」と彼に伝え、入れ替わるようにして翔子の隣に腰を下ろした。
切れ長の目がじっと、優しく、見つめてくる。
「何を言われたかはなんとなく予想がつくし、思い出すだけでも嫌な気持ちになるだろうけど……差し支えない範囲で、斉藤とどんなやり取りがあったのか教えてくれない?」
たしかに思い出すだけでも、悔しくて腹立たしい。けれど、もとよりこれは自分だけの問題ではないのだと、翔子はあらためて実感していた。ともに働く尊敬できる人たちが、自分がちょっと泣かされたというだけで、こうして飛んできてくれたのだ。
しっかり話そう。そして皆で、クラブとして解決してもらおう。
「はい」
頷いた翔子は、斉藤との会話と彼の態度を、ありのまま全員に伝えた。
「あいつ……!」
健が声を震わせたのは、自分が「バイトのくせに」などと言われた部分ではなく、翔子たち女性イントラが露骨に馬鹿にされたくだりだった。続いた「許せねえ」という彼らしくない乱暴なつぶやきは、思わず男言葉に戻った獅子神と台詞が重なったほどだ。口にこそ出さないが、さゆりも同じ感想を抱いたらしい。優美な眉を険しく寄せたままだったし、ジャイナバですら呆れたように天を仰いで首を振っていた。
だが意外にも、もっとも大きな行動に出たのは神だった。
ずっと腕を組んで話を聞いていた、海兵隊員と執事を掛け合わせたようなサブチーフ・トレーナーは、
「――ていうのが一部始終です」
と、翔子が話し終えたときにはすでに、先ほどジャイナバがかけていた電話の受話器を取り上げていた。相手の番号を暗記済みのようで、そのままボタンをプッシュしていく。
「神さん?」
信頼する、そしておそらくは大切に想ってもいる相棒へさゆりが問いかけるも、返事はない。受話器の向こうで、すぐに相手が出たようだ。
かわりに全員が聞いたのは、別人のように変貌した神自身の声だった。
「もしもし。斉藤先生、いや、斉藤京四郎だな。メイク・フィットの神だ。なんですか、じゃねえよ。いきなりで悪いが、もう明日からうちのクラブには来なくて結構だ。つーか出禁だ。我がクラブは本日づけで、お前との契約を解除する」
「神さん!?」
獅子神でさえびっくりしているが、神はかまわず話し続ける。ドスまできいた声音は、あきらかに物騒な会話に慣れたものだ。
「いいか、二度とうちに足を踏み入れるな。一歩でもその汚ねえ足を敷地につっこんでみろ、俺が全責任をもって叩き出してやる。ああ? 冗談だと思ってんのか? 細マッチョだかなんだか知らねえが、てめえのかりんとうみてえな腕や脚をへし折るぐらい、こちとら朝飯前なんだよ。なんなら今からそっちに行って証明してやろうか? それと――」
一瞬だけ翔子を振り返った視線は、言葉とは正反対の優しげなものだった。ただし、物騒なままの口調は続いていく。
「天野先生にも、ずいぶんと失礼なことを言ってくれたらしいな。そのスッカスカの脳みそにはわからねえだろうが、彼女の方がよっぽど優れたイントラだってのは、誰が見ても明らかなんだよ。少なくともエフェドリン含有のドーピングサプリを売りつけるような似非イントラにだけは、天野先生は負けてねえ。てめえがエントリーしてるとかいう今年の『IOI』、あそこでそれを証明してやる。赤っ恥かくのを覚悟して待ってろや!」
受話器を置くカチャンという音が聞こえたあとも、サロンのなかは時間が止まっていた。
翔子と健は目を丸くし、さゆりと獅子神はあんぐりと口を開け、ジャイナバも両手を頬に添えたまま、それぞれ固まっている。
沈黙を破ったのは、あ然とした空気を生み出した張本人の声だった。
「どうしました、皆さん?」
「あ、あの、神さん?」
口をぱくぱくさせながら、なんとかさゆりが呼びかけたものの、いつものキャラクターに戻っている神は、いつものように答えるだけである。
「なんでしょうか、チーフ」
「いや、なんでしょうかじゃなくて……」
さすがの彼女も二の句が継げない。
助け舟というわけではないだろうが、ジャイナバの素直な質問が場を繋いでくれた。
「ジンさん、モトヤン?」
「ええ。恥ずかしながら私は、元ヤンキーです」
冷静そのものの答えが、ふたたび返ってくる。どうでもいいことだが「元ヤン」を正式名称(?)で「元ヤンキー」と言い、しかもそれを業務報告ばりの冷静さで告白してみせたのは、翔子の人生であとにも先にもこの人だけである。
「私は高三の夏までヤンキーでした。その後ヘッド、すなわちリーダーの座を後輩に譲り、諸々の引継ぎや後処理も終えて受験勉強に専念し、アメリカの大学へ進学したのです」
まるで部活の引退か何かのように語っている。
や、ヤンキーってそんな簡単に辞められるものなんですか? サラリーマンじゃあるまいし、「諸々の引継ぎや後処理」っていうのも非常に気になるんですが……。しかもなんで、そこから突然アメリカ?
クエスチョンマークだらけの視線を他の面々と交わしていた翔子だったが、重大な事実を思い出した。
「そ、そうだ! さっき神さん、変なこと言ってませんでした!?」
「なんでしょう」
「今年の『IOI』で私が斉藤先生、じゃなかった、斉藤に負けないことを証明してやるとかなんとか」
「はい。言いました」
「それって」
「はい」
「まさか」
「はい」
「まさか、私が……」
「はい」
頼むから、「はい」じゃなくて否定の返事をしてください! と叫びたくなったところで、元ヤンのサブチーフ・トレーナーは相変わらず業務報告のように告げてきた。
「天野先生には今年の『IOI』に、我がクラブの代表として出場していただこうかと思っています」
「無理っ!」
脊髄反射よろしく、考えるより先に声が出た。
「無理です! 大体そんなの、いつ決めたんですか!?」
すると神はますます冷静に、なんでもないことのように返してくる。
「今です」
「は?」
「さっき斉藤と話していて、つい私もエキサイトしてしまいまして。売り言葉に買い言葉というか、まあどうせ天野先生が負けることなど一万パーセントないだろうと思い、自然と口走っていました。スケジュール調整等が難しければ、遠慮なくご相談ください」
いや、スケジュールとかそういう問題じゃないんですが。ていうか、売り言葉に買い言葉って言ってるけど、絶対に何も売られてないでしょう。そもそも一万パーセントって、なんですか。アメリカの大学まで行っておきながら百分率も怪しいんですか。
つっこみたいところは山ほどあるが、どうせ何を言っても「暖簾に腕押し」ならぬ、「執事に腕押し」のリアクションしかくれないのは目に見えている。
「はあ……」
がっくりとうなだれてしまった翔子は、落とした肩にそっと手が置かれるのを感じた。
坪根チーフかな、と思った。
やっぱり、このへんの素早いフォローはさすがよね。神さんと上手くいくといいな。
そう思って顔を上げたが、さっきまで隣にいたはずの彼女は、健の向こう側で苦笑とともに腕を組んでいる。
「あれ?」
次の瞬間、翔子の丸い瞳は、アニメキャラばりの大きさにまで見開かれた。
「赤星さん!?」
いつの間に再度入れ替わったのか、自分の右肩に優しく手を置いているのは、まぎれもなく健である。
「あ、あの……」
真っ赤になった翔子は、もはや今日何度目かわからないパニック状態に陥った。だが健の方はそんなこと気にもしない様子で力強く頷き、なんと逆の手まで肩に添えてくる。
「翔子先生」
「ひゃ、ひゃい!」
すぐ近くから飛んでくる目力が、いつも以上に強い。何かのスイッチが入ってしまっている感がある。
「翔子先生」という呼び方はもちろん、こちらの声が裏返っているのにも気づかない様子で彼は続けた。
「やりましょう」
「はい?」
「斉藤に見せつけてやりましょう」
「は?」
「『IOI』、期待してます。俺たちも全力でサポートしますから」
全力でサポート……って、イケメンを自覚してないくせにがしっと両肩抱いて、やたらと目力の強い視線で見つめてきて、こっちの心拍数を勝手に上げちゃうことですか!?
もはやわけがわからない。混乱した頭と赤い顔のまま、ぼーっと健を見つめ返すことしか翔子にはできなかった。
「ちょっと赤星君。天野先生が固まってるわよ? スイッチ入っちゃうのはいいけど、斉藤が許せないのは私たちも同じなんだから」
「アレ、タケル! ついでにショーコにコクハクしちゃいなよ! そのイキオイでサイトーもやっつけよう!」
「あら、いいわね。なんならチューしちゃっても許すけど、せっかくだから翔子ちゃんが斉藤を倒したときまで取っときなさいな」
「なるほど。赤星も天野先生にだけは、気持ちを素直に出すんだな。これならいいサポートができそうだ」
周りの四人も好き勝手に盛り上がっているが、斉藤を許せないという想いは、確固たる共通認識のようだ。
そしてもう一つ。こちらは共通認識どころか決定事項と化しているらしい事実を、さゆりが伝えてくる。
「じゃあ天野先生が、うちの代表で決まりね。じつを言うと、クラブを盛り上げるために今年の『IOI』に誰か出てもらおうって、ちょうど神さんと獅子神さんと話してたのよ。というわけで、頑張って」
『IOI』。『インストラクター・オブ・インストラクター』。
イントラ日本一を決めるコンテストへの翔子の出場が、決まってしまった瞬間だった。