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エアロ!  作者: 迎ラミン
第二章 アイ・オー・アイ
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アイ・オー・アイ 2

 バイクを漕いだあと、バーベルやダンベルが置いてあるフリーウェイト・エリアに移動した翔子は、眼前の鏡越しに手を振られた。


「翔子先輩、お疲れ様です!」


 後輩イントラの佐野みくである。今日も例によって、レッサーパンダの笑顔がドーンとプリントされた派手派手しいTシャツ姿をしている。


「お疲れ様、みくちゃん」


 手を振り返した翔子は、苦笑混じりにつけ加えた。


「今日もヨガだよね? あんまり派手なウェアだと、エアロと勘違いされちゃうよ」


 先日もさゆりにぼやかれたばかりだったので、先輩としてさり気なく注意しておく。

 するとみくはツインテールの頭を揺らして、「ありがとうございます。でも、なかなかちょうどいいサイズのシャツがなくて」などと言いながら、Tシャツをぴんと張ってみせる。レッサーパンダの鼻が、これ見よがしに大きく伸びている。


「いっつも胸のところが、ぱつんぱつんになっちゃうんですよねえ」

「そ、そう。うらやましい悩みだわ。あは、あはは」


 若干顔を引きつらせながら、翔子はさり気なく背中を向けた。鏡の前で並んでしまうと、自身との違いが際立って見えて仕方がない。

 先輩のささやかな動揺には気づかない様子で、みくは笑顔のままさらに近寄ってきた。


「そんなことより翔子先輩、明日の代行ありがとうございます! ほんと助かりました!」

「ああ、全然いいってば。おたがいさまだし気にしないで」


 施設リニューアルによる大規模工事などが入らない限り、長期休館のないフィットネスクラブ関係者は連休が取りづらい。なので、こうしておたがいに代行を立てながら、まとまった休みをやり繰りすることになる。


「美味しいマッコリ買ってきますね。それともキムチがいいですか? サムギョプサル? カムサハムニダ? サランヘヨ?」

「だから気を遣わないでいいってば。彼氏と楽しんできて」


 韓流ドラマや向こうのアイドルにはまっているというみくは、翔子をはじめ何人かのイントラに代行を頼んで四日間ほど、ボーイフレンドと韓国旅行をしてくるのだと言っていた。


 生活に余裕があると、胸も彼氏も手に入るのかな。


 わけのわからないハングル語をスルーしてふたたび苦笑していると、よく通る声が割り込んできた。


「おはよう、翔子さん、みくさん」

「あ、斉藤先生! お疲れ様です」

「……お疲れ様です」


 元気に挨拶を返す後輩とは対照的に、翔子の声はやや強張った。先日の一件が思い出されたからだ。斉藤自身は気づいていなかっただけかもしれないが、胸元を見られそうになったという警戒心がどうしても消えない。

 そうでなくとも、じつはもとから彼のことが翔子は苦手だった。タンニングマシンでこまめに焼いているという小麦色の肌と、昭和のアイドルじみたセンター分けの茶髪。いわゆる「細マッチョ」程度に鍛え上げた身体も、むしろそれくらいを狙ってトレーニングしているのだろう。そうした一つ一つから、どこかつくられたような印象が拭えないのだ。もっと乱暴な言い方をするなら、「うさんくさい」とも思えてしまう。


「みくさんは、相変わらずレッサーパンダが似合ってるね。自分のキャラをわかってるし、さすがだなあ。もちろん翔子さんも」

「ありがとうございます!」

「どうも」


 先輩イントラのくせにそんなことを言うから、みくが誤解するのではないか、ともつっこんでやりたくなる。また、彼がさゆりにすらそんなリップサービスをしていることも、翔子は知っている。当然ながらさゆりの方は、露骨に素っ気ない態度であしらっているが。


 ほんと、何考えてるのかしら。


 内心で呆れていると、斉藤は手にした小型のデイパックをごそごそとやりだした。


「そうそう、二人にもプレゼントがあるんだ」

「え!?」


 プレゼント、という単語にみくは敏感に反応している。逆に翔子はますます警戒心を強めた。プレゼント? このホストまがいの人が?


「サンプルなんだけど、よかったらぜひ使って感想を聞かせて欲しいんだ」


 言葉とともに取り出されたのは、小さなピンク色の缶入りドリンクである。


「知っての通り、僕の会社はサプリメントの輸入販売とかもしていてね。で、これが今度の新商品。もちろん本場アメリカですでに使われているものだし、安心して」


 そういえば斉藤は自分で会社を起ち上げて、ちょっとしたトレーニンググッズやサプリメント販売もしているのだと聞かされたことがあった。とはいえ、その気になれば誰でも株式会社を起こせる昨今では珍しくもなんともない。駆け出しの翔子にはまだまだ関係ない話だが、税金対策として起業するトレーナーやイントラもいるのだとか。


「すキッぷ?」


 税金どころか生活の心配もいらないであろうみくが、缶にプリントされた商品名を、怪しい発音で読み上げている。


「イエス。スキップジャック・ツナ・パワー、略して『スキップ』。スキップジャック・ツナ、つまりカツオの身体をヒントに開発された、脂肪燃焼効果を高めるドリンクなんだ。回遊魚のカツオは年間二千五百キロもの距離を移動するほどエネルギー消費が多いんだけど、その体組成を参考に、いくつかのアミノ酸を組み合わせたサプリメントってわけさ」


 どこぞの通販番組のように、淀みなく解説されてしまった。同じ台詞をいろんな人たちに言いながら、こうして営業活動をしているのかもしれない。

 だがやはり――。


「うさんくさい」

「え?」

「あ、いえ、なんでもないです!」


 思わずつぶやいてしまった翔子は、慌ててごまかした。反対にみくは「いいんですか!? 私、最近お腹が気になってたからちょうどよかったです!」などと喜んでいる。


「試してみてあらためて商品が欲しくなったら、いつでも連絡して。もちろんお二人ならサービスさせてもらうよ。じゃ、僕はこのあとパーソナルがあるから。よろしく!」


 得意の歯磨きCMスマイルを残して、斉藤は去っていった。おおかたパーソナルトレーニングでも、客に『スキップ』とやらを営業するのだろう。好き嫌いはさておき、どこまでもたくましい商魂には翔子も素直に感心してしまう。

 斉藤ほどではないにせよ、フリーランスの身であるイントラやパーソナルトレーナーには、営業努力もたしかに必要になってくる。特にイントラは、限られたレッスン枠を争ってのオーディションが開かれることもざらで、スケジュール改変期の年度末などは知らないイントラが集まって、ぴりぴりした雰囲気になる休館日が何日もあったりするほどだ。


 かく言う翔子自身もそうやって、ここメイク・フィットをはじめとするレギュラーレッスン枠を確保してきた。

 ただ、メイク・フィットに関しては、スタジオレッスン全般の監修をするプログラム・アドバイザーと呼ばれる立場に、獅子神が就いていた事実も大きい。恩師の草薙龍子とも旧知の仲だという獅子神は、オーディション風景をひと目見て「三番の天野さん。あなたの先生ってひょっとして龍子、草薙龍子さんじゃない?」と見抜いてくれたのだ。


「もちろん翔子ちゃん本人が、しっかりしたパフォーマンスを見せてくれたことが第一の決め手。加えてやっぱり龍子の弟子だったもんだから、これはもうドラフト一位扱いで採らなきゃって思ったわけよ」


 とも言ってもらえて、翔子としてはまたもや師匠の偉大さを実感させられた。

 じつは翔子は、営業活動というかそうした自己アピールが得意ではない。逆にみくなどは意識してか天然なのかは知らないが、ちょっとでも話したことのある会員を見つけると、ぱたぱたと走り寄って「◯◯さん、今度私のクラスにも出てみてくださいね!」などと無邪気に声をかけている。

 こればかりは、斉藤ではないけれどキャラクターの違いもあるので仕方ない。が、何より翔子自身が、「自分を安くしない」というのを心がけていることも大きかった。


 聞けば師匠の龍子も、若い頃から営業活動が苦手なタイプだったという。それでも獅子神いわく「まあ龍子ほどのレッスンなら、営業なんていらないんだけどね」とのことで、特段営業っぽい活動をしなくとも口コミが口コミを呼び、瞬く間に集客が増えていくのだとか。しかも代行で初めて訪れたクラブにもかかわらず、「翌週からレギュラーでぜひ」とか、「アドバイザーに就任して欲しい」などのオファーをその場で出されてしまったという「伝説」を、いくつも持っているらしい。

 そんな龍子が、あるときの授業でどこか嬉しそうに伝えてきた。


「翔子は、若い頃の私にそっくりね。だから大丈夫。自分を安くする必要はないわ」


 なんのことかわからないでいると、彼女はまだ短かった翔子の頭を、くしゃっと撫でて続けたものである。


「いい? いつも言ってるけど、私たちは運動の先生、フィットネスの先生なの。水商売じゃないのよ。心と身体の健康を伝える真摯な気持ちと、シンプルでも素敵なレッスンがあれば絶対に大丈夫。お客さんは必ず見ているし、ついてきてくれるから」


 にっと笑みを深くした龍子は、そうしてなぜか、確信を抱いているような調子でくり返してくれた。


「翔子なら、きっと大丈夫」


 長めのポニーテールを揺らして笑う恩師の姿は、今でもまぶたの裏に焼きついている。

 その日から翔子は髪を伸ばし始め、自身もポニーテールを結ぶようになったのだった。




「翔子先輩、このあとレッスンですよね。私もトレーニングしていくんで、これさっそく飲んでみましょうか」

「え? ああ、そうね」


 毒々しいショッキングピンクの缶を掲げるみくの声で、翔子は我に返った。


「けど翔子先輩はスレンダーだから、ぶっちゃけこういうのいらないですよねえ。うらやましいなー」


 悪気はないのだろうが、スレンダーという単語が自動的に、「壁」とか「貧乳」という単語に変換されて聞こえてしまう。

「そ、そんなことないわよ」と努めて冷静に答えつつ、翔子は自分でも『スキップ』なるドリンクをさっさと飲んでしまおうと思った。クラブ内で誰かにあげるわけにもいかないし、だからといって缶を持ったままレッスンの準備に入るのも邪魔である。まさか、お腹を壊すようなものでもないだろう。


「あ、パイナップル味って書いてありますよ。おいしそう!」


 パイナップル味なのになぜピンクの缶なのかということにも、みくは特に疑問を感じないらしい。相変わらずの能天気っぷりに苦笑しながら、翔子がプルトップを開けようとした瞬間。


「ちょっと待って!」

「え?」


 声とともに駆け寄ってきた人影に、持っていた缶を奪われてしまった。


「赤星さん!? どうしたんですか?」


 みくの反応で、それが誰かを翔子も理解した。缶を取り上げたのは健だった。


「あの……」


 ぽかんとなってひとことだけ発したものの、続く言葉が出てこない。飲もうとしていたドリンクをいきなり奪われたのだから、普通なら「何するんですか!」と抗議してもいい場面だ。しかしそれ以上に、『スキップ』の缶を見つめる健の表情が、気になったからである。

 眉間にしわを寄せた、非常に険しい表情が。


「赤星さん?」


 なんとか名前だけ呼びかけると、たっぷり五秒ほど経ってから健は顔を上げた。


「すみません、急に。ちょうどお二人が何か渡されているところが見えたから、気になって。でもこれ、飲まない方がいいです」

「は?」「へ?」


 翔子もみくも、揃って間抜けな反応になってしまった。だが健は真剣な表情を崩さず、二人の目を交互に見つめてくり返す。


「このドリンク、飲まない方がいいと思います」

「どうしてですか?」

「ひょっとして、なんかやばいんですか?」


 重ねて問い質す翔子とみくに、健が缶の一部を指差してみせる。成分表示箇所のようだ。


「ここを見てください」

「ええっと……エフェドリン?」


 少しだけ顔を寄せて、彼の人差し指が示す単語を翔子は読み上げた。エフェドリン。どこかで聞いた気がする。こう見えても専門学校時代、栄養学は得意科目だった。隣のみくは正反対で、先輩の自分からノートを借りて丸写ししていたが。


「漢方薬でいうところの()(おう)です。喘息などへの気管支拡張剤として知られています」

「はあ」


 まおう、というやはりどこかで聞いたことのある名称が、記憶をさらに刺激する。たしかもう一つ、似たような名前だか単語だかがあったような……。


「エフェドリン、麻黄……」


 宙を見つめて翔子がつぶやくと、「ええ」とばかりに健が頷いた。ふと見ると、その視線がますます鋭くなっている。まるで目からビームでも出して、『スキップ』を缶ごと焼却するかのように。


 赤星さん、怒ってる?


 今さらながらに察したタイミングで、まさに怒りを抑えているとわかる低い声が耳に届いた。


「エフェドリンは他にも、低血圧時の交感神経興奮剤として使われたりします」

「興奮剤……あっ!」


 翔子もようやく思い出した。


「エフェドール! ドーピング!」

「ええっ!? ドーピング?」


 さすがにみくも、「ドーピング」という単語はわかるようだ。小動物じみたつぶらな目を、真ん丸に見開いている。


「はい。交感神経を活性化させる作用などから、ダイエット薬として売り出されたエフェドリン含有商品、『エフェドール』がむかしブームになりました。ただし高血圧や心筋梗塞などを引き起こしてしまう副作用も認められたことで、現在は販売が禁止されています。もちろんスポーツの世界でも、ドーピング規定に抵触する禁止薬物の扱いです」

「たしか、実際に死亡事故も起きてるんでしたっけ」


 ここに来て翔子も、学生時代の記憶がはっきり甦った。具体的な事例と合わせて、だからドーピングは絶対にしてはいけないと、栄養学の先生もまた厳しい顔と口調で教えてくれたのだ。


「ええ。長距離選手に熱中症を誘発してしまったり、ウエイトリフティング選手が大動脈瘤を患ったりという、エフェドリンの副作用と思われる事故が起きています」

「そ、そんな危ないもの、飲んじゃうところだったんですか!?」


 怖ろしい話に、みくが泣きそうな声を出す。翔子も思わず自分の両腕を抱きしめた。


「あと」


 さらに続けようとする健の視線が、そこで少しだけ柔らかくなった。真面目で固い性格ではあるが、彼なりに安心させようとしてくれたのかもしれない。


「エフェドリンは興奮剤ですから、つまり、その……」

「その?」

「まだ何かあるんですか?」


 翔子の問いを受け、申し訳なさそうに、そしてどこか恥ずかしそうに次の言葉が告げられる。


「媚薬、としての作用もあると言われているんです」

「びやく? びやく、ビヤク……。びやくって、なんです?」


 大きな声でくり返す後輩の口を、翔子はとっさにふさぐ羽目になった。


「み、みくちゃん!」

「ひょーこへんはい!? びばうっえあんえうあ?」


 そのままツインテールの頭部をヘッドロックしつつ、健と二人で頬を染めてしまう。


「ええっと、媚薬っていうのは特に性的興奮を助長する薬です。なんていうか、つまり……」


 健も健である。赤くなりながらも律儀に説明しようとするので、逆に始末が悪い。


「あ、赤星さん! 別に詳しく話さなくても――」


 翔子の注意は、するりと頭を抜いたみくの大声にさえぎられてしまった。


「あーっ! まさかエッチ薬のことですか!? やだ、赤星さんエロい! 幻滅です!」

「いや、僕がじゃなくてドリンクが――」

「ひょっとして赤星さんも、合コンでカクテルに目薬とか入れちゃう人ですか!? ひどいです! むごいです! ケダモノです! せっかく翔子先輩と、お似合いだと思ってたのに!」

「ちょ、みくちゃん!? 変なこと言わないの! 赤星さんはケダモノじゃないから! 合コンだって、何もしなくてもきっと大丈夫な人なんだから!」 


 動揺のあまり、翔子まで意味のわからないフォローを口走ってしまった。健本人はと言えば、「……天野先生、声がでかいです。ていうか、合コンなんて行ったことないし」と、もはや諦めた態で肩を落としている。

 ただし、ピンクの缶を見つめる視線だけは厳しいままだった。


「なんにせよこいつは、フィットネス志向のサプリメントとして、明らかに相応しくありません。クラブ内での露骨な営業や勧誘行為だって禁止されていますから、とにかく僕の方で神さんと坪根チーフに報告しておきます」

「あ、はい。ありがとうございます」

「そっか、赤星さんがエッチ薬くれたわけじゃないですもんね。ごめんなさい」


 なんとか落ち着きを取り戻した翔子は、同じく大人しくなったみくとともに頭を下げた。 顔を上げると、健が不思議そうな顔をしている。


「まだ何か心配ですか?」


 いつかのように、無意識のまま彼を見つめてしまっていたらしい。


「い、いえ! 本当にありがとうございます」


 あたふたと両手を振るなかで、翔子は思った。

 また助けてもらっちゃった、と。

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