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エアロ!  作者: 迎ラミン
第二章 アイ・オー・アイ
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アイ・オー・アイ 1

 この日も翔子は、メイク・フィットでの勤務日だった。今日は自身も大好きなダンスエアロのクラスだ。いつも通り早めに出勤し、手だけで振付を確認しながら上機嫌でジムに向かう。

 トレーニングジムへと続く階段の踊り場には大きな掲示板があって、一週間のレッスンスケジュールやイントラが休みを取る際の代行情報、スタッフ紹介ボード、ジャイナバのサロンのポスターなど、様々なインフォメーションが貼り出されている。かく言う翔子も明日、みくの代行を一クラス受け持つ予定なので、《水曜:初心者エアロ45 佐野→天野》としっかり掲示されているのをあらためて確認した。


「あ」


 代行情報の隣に、新しいポスターが貼り出されていた。

 黒をバックにしたスタイリッシュなデザインと、《20th IOI》という大きなタイトル。下半分には、最近テレビでよく見るイントラ上がりのタレントや、有名ダンス&ボーカルグループのメンバーらしき男性の笑顔が、《特別審査員》として並んでいる。


「そっか、もうアイ・オー・アイの時期なんだ」


『IOI』。正式名称は『インストラクター・オブ・インストラクター』。

 これはエアロビクス・インストラクター同士によるコンテストで、振付やリズム感、レッスンのリード、さらにはウェアのファッションセンスや笑顔、爽やかさなどの各項目を採点して国内ナンバーワン・インストラクターを決めようという、業界では有名な大会である。二次審査、そして最終の三次審査で行なわれる模擬レッスンは、抽選による一般参加枠もあるので、自分が応援するイントラや有名な先生のレッスンを受けて盛り上がりたいという、フィットネス・フリークの人たちにも人気があるようだ。

 とはいえ、翔子のような駆け出しには縁のない話だし、そもそも人気や実力があっても参加しない人もいるらしい。尊敬する恩師もたしか、


「競技エアロならわかるけど、イントラ同士でレッスン競い合ってどうすんの」


 と笑いながら、若い頃は出場者としての、有名になってからは審査員としての参加依頼を、毎年のように断り続けていたのではなかったか。ちなみに、獅子神は一度だけ出場した経験があり、しかも見事入賞者に選ばれたらしいが「日本代表として海外の大会にタダで連れてってもらえるかと思ったら、その年は国際大会がなかったのよ。失礼しちゃうわ」とのことで、やはりそれ以来興味を失ったのだとか。

 いずれにせよ翔子にとっての『IOI』は、「いつか実力がついて、ついでにその気になったら一度くらいは出てみてもいいかな」という程度のものである。


「人と競う前に、自分を鍛えなくちゃ」


 苦笑した翔子は、ふたたび振付を確認しつつ軽快に階段を上っていった。



 

 女性イントラのなかには「腕や脚を太くしたくないから」と、ジムにはほとんど足を踏み入れない人も多い。だが翔子は、それは単なる言い訳ではないかとひそかに思っている。そもそも筋トレ=ウエイトトレーニングの効果が筋肉を大きくするだけではないというのは、トレーナーでなくともどんなイントラだって知っているはずだ。

 事実、バレリーナやフィギュアスケーターといった、まさに腕や脚が太くなると困る人たちも、傷害予防やパフォーマンスアップのために軽負荷でウエイトトレーニングに取り組んでいるのだと、かつてはアスリートを専門に指導していたという神からも聞いたことがある。


 結局、食わず嫌いなだけよね。


 さり気なく肩をすくめる翔子自身は、専門学校時代にトレーニングに関しても正しい教育を受けることができたおかげで、女性イントラには珍しくマシンやバーベル、ダンベルといった器具にまるで抵抗がないタイプである。何よりジムで時間を過ごすなかで、会員たちと触れ合えるのが楽しい。

 別にそれで、自分のクラスの集客を増やそうなどと考えているわけではない。というか本当に人気のあるレッスンならば、放っておいても口コミで参加者は増えるだろう。

 利用者たちが「あら、先生。今日も熱心ね」「今日は仕事が休みなんで、昼から来ちゃいました」などと言いつつ、元気に身体を動かしている様子を見るのが、純粋に翔子は嬉しいのだった。


「私たちは、レッスンだけやっていればいいんじゃないの。立場こそ外部委託の人間だけど、クラスを持たせてもらってる以上、そのクラブの一員としての自覚を持って会員さんと接しなきゃいけないわ。カリスマだかなんだか知らないけど、お高くとまって自分のレッスン時間しか顔を見せないようなイントラは、すぐに愛想つかされちゃうわよ。お客さんはそのへん、シビアなんだから」


 やはり恩師から、口酸っぱく言われた台詞だ。彼女自身は獅子神同様に海外でも名を知られる、まさに「カリスマ」と呼ぶに相応しいイントラなのだが、本人はそう呼ばれることをいたく嫌っていた。


「カリスマなんて持ち上げられて喜んでる人間に、ろくな奴いないわよ。私たちイントラはあくまでも、単なる〝運動の先生〟なんだから。一億円のお金を動かすようなこともなければ、人の命を直接救うようなこともない。ちょっと健康のお手伝いをさせてもらうだけ。でも、だからこそ、ささやかな自分の専門分野にはプライドを持たなきゃね」


 国内外のフィットネス業界で確たる実績を残しているにもかかわらず、こうした庶民感覚を持ち続けている恩師、(くさ)(なぎ)(りゅう)()のことが翔子は今でも大好きだった。最近はまた海外での仕事ばかりらしいが、いつかは自分もああいう風になってみたい、という大きな目標でもある。歩くマイペースと言えるみくですら、「龍子先生、かっこいいですよねえ」と素直に憧れるほどの人なのだ。

 師匠の姿を思い出しながらフィットネスバイクにまたがったところで、目の前のスタジオ出入り口から人が現れた。


「あ」

「お疲れ様です」


 例によって自衛隊員のような口調とお辞儀で、先に挨拶をしてきたのは健だった。スタジオから出てきたということは、次に予定されている自分のレッスンに備えて、掃除をしてくれたのだろうか。


「あの――」


 翔子の口が自然と動いた。


「え?」


 話しかけられるのは予想外だったようで、健はきょとんとしている。


 へえ、こういう顔もするんだ。


 関係ない感想を抱きそうになったが、気を取り直し、翔子はぺこりと頭を下げてみせた。


「赤星さん、ありがとうございました」

「え?」


 きりりとした眉をハの字にして、健はますます不思議そうな顔をしている。だがすぐに納得したらしく、三秒と経たないうちにいつもの引き締まった表情に戻った。


「いえ、これも自分たちの仕事ですから。天野先生のダンスエアロは人気クラスなので、会員さんが滑らないよう、床もしっかり拭いておかないと」

「あ、いえ! そうじゃなくて!」


 スタジオ掃除についてではないので、翔子は慌てて言葉を重ねた。


「そうじゃなくて、ええっと、この前の件……です」


 今さらながら恥ずかしさを覚え、言葉尻が小さくなってしまう。


「この前?」

「はい。私が斉藤先生に、声かけられたときの……」

「ああ」


 やっと思い出してくれたみたいだが、健の態度はやはり冷静なままだった。「当然のことをしたまでであります」などと言いながら、敬礼でもしそうなくらいである。


「いえ。ご無事で何よりでした」

「は、はい。本当に、ありがとうございました」


 彼の顔をまともに見られないまま、翔子はもう一度頭を下げた。視界の端につつましすぎる胸元が映ったが、もちろん今日は襟ぐりがだぶついたりはしていない。

 あの日、エステサロンでジャイナバに指摘されて初めて、翔子は自分の首まわりの緩さに気がついた。獅子神にもらった大きめのTシャツだったためだが、当然ながら尊敬する先輩にはなんの責任もない。むしろ、いつもウェアをくれて心から感謝している。

 いずれにせよ本人も自覚がなかったそれを、いち早く察してくれたのが健だった。


 斉藤に対して何も考えず深く頭を下げ、胸元を大きくさらけ出しそうになってしまった瞬間。この無愛想な学生トレーナーがさっと現れて、多少強引ながら肩を引いて防いでくれたのだ。しかも、ジャイナバのアロマモニターに推薦するという自然な理由で、下のフロアに避難もさせて。

 見られるほどのボリュームなどないのはさておき、おかげで翔子は以後しっかり気をつけることができたし、助けてもらった事実に対しても、きちんとお礼を言っておきたかった。


「自分でも、もっと注意します。本当にありがとうございました」


 顔が熱いまま、それでも今度は頑張って目を合わせながら言うと、珍しく彼の方が照れたような表情を見せた。


「いえ。でもあのTシャツ、似合ってました。今日のも素敵です」

「え?」

「あ、いえ。レッスン、頑張ってください」


 思わず訊き返したものの、素早く頭を下げた健は、いつものようにきびきびとした足取りで行ってしまう。

 言葉の意味を理解した翔子の顔が思わず、そしてふたたび赤くなったのは、数秒後のことだった。

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