メイク・フィット・スポーツクラブ 4
「マジでなんなのよ、あいつ」
いまいましい記憶がフラッシュバックした翔子は、ストレッチをしながら思わず毒づいてしまっていた。ハッとして首を振るが、幸い周囲に会員はいなかった。直後に、事件のあと受けた優しいフォローも思い出す。
あの日、健から強烈なダメ出しを受けた翔子を助けてくれたのは獅子神だった。
涙が収まるのを待ってスタジオを出たものの、尊敬する大先輩は、それでも何かを察したらしい。こちらの姿を見るなり「翔子ちゃん、ちょっといい?」と声をかけてきて、スタッフだけが入れるクラブの屋上へとさり気なく連れ出してくれたのである。
「やっぱり。どうせ、そんなことだろうと思ったわ」
ふたたび瞳を潤ませながら愚痴る翔子の肩を、獅子神は分厚い手でぽんと叩いてくれた。
「私のレッスンにも出てくれたんだけど、彼――健ちゃんだっけ。ほんとに真面目なのね」
話によれば先週、獅子神のクラスにも健は研修として参加したのだという。さすがに彼ほどの実力者に対するダメ出しなどはなかったそうだが、逆に「ウォームアップから、あんな風に盛り上がった雰囲気をつくるコツはなんですか?」だの、「喋りが終わるのと同時にインターバルの三十秒が終わってたんですけど、あれは頭のなかでカウントしてるんですか?」だのと、やたらとマニアックな質問攻めに遭ってしまったのだとか。
フィットネス雑誌のインタビューでも、そんなところまで聞かれた経験はないと、獅子神は苦笑していた。
「それに健ちゃんの言う通り、別に間違ったことを教えたわけじゃないんだから大丈夫よ。あんたたちなら、おたがいの誤解が解ければ、むしろきっと仲良くなれるわ」
翔子としては、多少ルックスがいいからといって、あんな失礼な男の人と仲良くなんてなれるはずがないと思うし、正直する気もない。しかしながら、他のスタッフにそれとなく聞いても、健の評判は悪いものではなかった。
「ちょっと固い感じもするけど、真面目で勉強熱心なアシスタント・トレーナー。ついでにイケメン」
という印象で一致しており、後輩イントラのみくにいたっては、健の研修に自分のレッスンが選ばれなかったのが不満な様子で、
「翔子先輩、赤星さんと何をお話したんですか!? 彼、レッサーパンダが好きとか言ってませんでした?」
などと、まるで合コンの結果を聞くような質問をしてきて、呆れさせられたほどである。
なんなのよ、あいつ。
今度は声に出さないよう気をつけながら、翔子が胸の内でつぶやいた直後。別の会員にも応対する健の姿が、またもや目に入った。
シャープな顔立ちは相変わらず、ホテルマンのような笑顔で爽やかに彩られていた。
二十分ほど後。いくつかのマシンでトレーニングを終えた翔子がストレッチエリアに戻ってくると、見慣れた顔があった。
「やあ、翔子さん。おはよう!」
「あ、斉藤先生。こんにちは」
たしかに今は午前中だが、この人、イントラ兼パーソナルトレーナーの斉藤京四郎は、何時に会っても「おはよう」である。芸能人じゃあるまいし、と翔子などは思ってしまうが、サラサラの茶髪と歯磨き粉のCMにでも出られそうなニカッとした笑顔は、たしかに大昔のアイドルを彷彿とさせる。そんなルックスもあって特に主婦層から人気抜群の彼は、トレーナーとしての顧客に、本当に芸能人も抱えていたりするのだとか。
「相変わらず熱心だね。そのTシャツも、よく似合ってて素敵だ」
白い歯を見せつけるような笑顔で、斉藤がしれっと褒めてくる。とりあえず翔子は、「ありがとうございます」と無難に返しておいた。
サービス業としての側面も持つイントラに、ホストやホステスのようなコミュニケーション能力が必要なのは厳然たる事実だ。ただ彼は、他と比べても明らかに、ホスト系の色が強い人物なのだった。獅子神に言わせれば「あいつは、なかにイタリア人が入ってんのよ。口を開けば綺麗だの、可愛いだの、素敵だの。私にはひとことも、そんな台詞言ってこないくせに」とのことである。もっとも斉藤の性的嗜好はストレートらしいので、さすがに誤解を招かないよう配慮しているだけかもしれないが。
「今日はこのあと、ピラティスだっけ」
「はい」
「集客はいつも何人くらい?」
「二桁いくかいかないか、ぐらいです」
褒め言葉に続いての問いに、翔子は恥ずかしさを覚えつつも正直に答えた。すると斉藤は、お得意の「歯磨きCMスマイル」(と翔子はひそかに命名している)のまま、軽く首を振ってみせる。
「まだ年度が替わったばかりだからね。翔子さんはルックスもいいし、可愛くて人気があるからすぐに増えると思うよ」
相変わらず、言葉の端々にホストばりのヨイショが入ってくる。とはいえいつものことだし、もう一度「ありがとうございます」とだけ答えた翔子がお辞儀をしかけたとき。
傾けた肩が、いきなりぐいっと引き戻された。
「きゃあ! ……あっ!?」
「天野先生」
振り向くと、目の前に健がいた。
挨拶以外の言葉を交わすのは、二ヶ月前の険悪な初対面以来だ。けれども彼の方は何かを気にする様子もなく、
「突然すみません。ちょっとご相談があるので、来ていただけますか」
と冷静に告げ、さっさと歩き出している。もちろんその顔は、会員向けの営業スマイルではなく、きりっとした通常モードである。
「え? ちょ……。あ、すみません斉藤先生。じゃあまた!」
とにもかくにも斉藤との会話を終わりにした翔子は、慌てて健の背中を追った。
「あの、赤星さん? 相談ってなんですか?」
戸惑う翔子の声など聞こえない態で、健は素早く階段を下りていく。ようやく口を開いてくれたのは、一階に着いてからだった。
「ここです」
「え?」
手で示されたのは、フロアの一角にあるエステサロンである。エスニック風のパーテーションで区切られていてなかは見えないが、アロマオイルのいい香りが漂ってくる。
わけがわからない翔子を放置したまま、「失礼します」と入り口のカーテンを開けた健が、内側に向かって呼びかける。
「ジャイナバさん、この前仰っていたモニターの件ですが、天野先生でもよろしいですか?」
するとすぐに、褐色の肌をした外国人女性が顔を覗かせた。
「メルシー、タケル! 覚えててくれたのね。ビアン・シュール、ショーコなら大歓迎よ。ボンジュール、ショーコ!」
「ぼ、ボンジュール、ジャイナバ」
挨拶を返しながら、翔子は少しだけホッとした。健本人の相談というわけではなく、エステサロンのセラピスト、ジャイナバからの依頼か何からしい。
ある程度以上の大きさを誇るフィットネスクラブになると、施設の一部を治療院やエステサロンが間借りする場合も珍しくない。メイク・フィットもそうで、フロントの斜向かいに、日本人との結婚を機にこの国へ移住したというセネガル人セラピスト、田中ジャイナバのサロンが店を構えている。もちろん別料金はかかるが、ジャイナバのたしかな腕とフランス語とのちゃんぽんで元気に会話する、「面白外国人」なキャラクターが合わさって、そこそこ繁盛しているようだ。
また、女性同士という関係もあってかジャイナバは客がいない時間、こっそりなかへ招いてお茶を淹れてくれたりするので、ここは翔子にとってもちょっとした癒しの空間となっているのだった。
にこにこと笑みを浮かべて、ジャイナバが説明してくれる。
「あのね、ショーコ。今度、新しいアロマをメランジェ、ええっと……ちょーごー? したから、エセイエして欲しいの」
「ああ、モニターってそういうこと」
「ウイウイ。シルブプレ」
つまり彼女は、新しいアロマのモニター探しを健に依頼しており、結果、翔子が適任と考えられたらしい。しかしなぜだろう。そもそもこの二ヶ月、翔子は彼と、まともな会話すらしていない。
「これだけど、セ・ボン?」
頭のなかにクエスチョンマークを浮かべていると、ジャイナバがガラス製の小瓶を差し出してきた。漂ってくるいい香りに釣られて、翔子も自然とそちらへと身を乗り出す。
すると。
「オー! ショーコ!」
「な、何!?」
「ちょっと、かなり、とっても、すげえ、セクスィーよ?」
「え?」
ジャイナバの長い人差し指が、ある一点を指し示している。ハッとした翔子は、慌ててその部分――自身の胸元に両手を当てた。
「や、やだ!」
翔子が今着ているTシャツは獅子神にもらったものなので、大きめの襟ぐりからグレーのスポーツブラが丸見えになっていたのだった。悲しいことに谷間などは望むべくもないが、それでも少々汗ばんでいるのが艶めかしい。
「ショーコ。おっぱい、おっきくなった?」
「なってませんっ!」
馬鹿正直に返してしまった翔子は、いつの間にか健の姿が消えているのにも気づいた。そしてもう一つ。先ほど斉藤と話していたとき、彼が自分の肩に手をかけてきた理由にも。
あれは、翔子が前屈みになって胸元が覗かれてしまわないよう、さり気なく助けてくれていたのだ。
「あいつ……」
いつもとは違う棘のない言い方とともに、無愛想な、けれども悔しいことに(?)ハンサムな顔が、翔子の脳裏に浮かび上がった。