メイク・フィット・スポーツクラブ 3
翔子が赤星健と初めて顔を合わせたのは、二ヶ月ほど前、四月初めのことだ。
イントラデビューして一年がなんとか過ぎ、新年度もメイク・フィットでのレッスン契約を無事継続してもらえて喜んでいたところに、ジムの新人アルバイトとして現れたのが健だった。
――二ヶ月前――
「天野先生」
「はい!」
レッスンの準備をするためスタジオへ向かっていた翔子は、思わず気をつけの姿勢になった。メイク・フィットのサブチーフ・トレーナーである神良彦が、珍しく自分から話しかけてきたからである。
「神さん、どうしたんですか?」
トレーナーとしてみずからもしっかり身体を鍛えている神は、分厚い胸板と太い腕で、今日もユニフォームのポロシャツがぱんぱんに張っている。短く刈り上げた髪と彫りの深い顔立ちも合わさって、相変わらずフィットネスクラブというより米軍基地にでもいそうな雰囲気だ。
本当に英語もペラペラだって、誰かが言ってたっけ。
さゆりとは対照的な太い眉を見ながら、豆情報を思い出していると、同じ言葉を返されてしまった。
「どうしました?」
「あ、いえ、なんでもないです。すみません」
苦手というわけではないのだが、翔子はこの人を目の前にすると、何を話していいか困ってしまう。神本人は、会員はもちろん自分たちイントラにも常に敬語で接してくれる、むしろ人格者だ。だが積極的に世間話をするようなタイプではないし、常にどこか緊張感を持ってジムの安全に目を配っているのがわかるので、なんというか、
トレーナーっていうより、自衛隊の人みたいな……。
印象なのである。
そんな「質実剛健」が服を着て歩いているようなジムのナンバー2が、どこか申し訳なさそうに尋ねてきた。
「このあとのピラティスクラスですが、研修として新人アシスタントを参加させてもよろしいでしょうか」
「あ、全然大丈夫です。むしろ参加者が少ないので助かります」
アシスタントとはつまり、アルバイトスタッフのことだ。無難な用件にホッとしながら答えると、「いえ」と実直な言葉が返ってきた。
「新しいレッスンスケジュールになったばかりですし、天野先生なら参加者はこれから伸びていくと思います。それに午前中のクラスを引き受けてくださって、こちらこそ助かっています。ありがとうございます」
「い、いえ、こちらこそ」
自分より年上の、しかもふた回りは身体の大きなサブチーフから丁寧に頭を下げられ、翔子は恐縮してしまった。そういえば新年度のスケジュール改変にあたり、たまたまこの曜日の午前中を担当できるイントラがいなくて困っていたのだと、さゆりからもお礼を言われたことがあった。
「私なんて、仕事を選べる身分じゃないですから」
フィットネスクラブのピークタイムは、仕事帰りのサラリーマンやOLが増える夜六時以降で、人気のスタジオレッスンもその時間帯に集中する傾向がある。当然イントラにとっても激戦区、言わばプライムタイムだ。主婦をしながらのベテランイントラなどになってくると、逆に夜のレッスンを避ける場合もあるが、やはり夜七時台、八時台のレッスンが花形枠であるのに変わりはない。
とはいえ、翔子のような駆け出しはそんな贅沢を言っていられないので、仕事を選べる身分じゃないというのは、謙遜でもなんでもなく純然たる事実である。目の前の神は、「いえ、そんなことはありません」とまたしても実直に否定してくれてはいるが。
そもそもフィットネス・インストラクターというのは、華やかに見えて経済的にはかなり厳しい職業だったりする。見た通りの肉体労働であることに加えて、エアロやダンス系のレッスンは参加者に合わせて曲や振付を考えなければいけないから、準備に時間もかかる。結果、週に十コマもレッスンを持てば立派な「売れっ子」だ。
けれどその売れっ子でも、仮に一コマ五千円のギャラだとすれば、結局は月収二十万円程度にしかならない。そこからウェアやシューズ、CD、自己研鑽のためのセミナー代や専門書などの経費もやり繰りするわけだから、獅子神クラスになればともかく、若手イントラの収入は実際のところ、フリーターとさほど変わらない。
「そりゃあ、彼氏もできないよね……」
「は?」
「あ! いえ、あの、なんでもありません!」
無意識のうちに口から漏れていたらしい。怪訝な顔をされてしまい、翔子は慌てて両手を振ってごまかした。幸い、よく聞こえなかったようで、神もすぐにいつもの真面目な顔に戻っている。
「新人の名前は、あかぼしたける、赤い星に健康の健と書きます。帝体大の三年で、学生トレーナーもやっています」
「大学三年生なら、私と同い年くらいですか?」
「二十一歳だと言っていました」
履歴書などで知っているはずだが、神はこちらの年齢には触れず、さり気なく会話を進めてくれる。さすがは客商売のプロだ。きっと女性客に対しても、いつもこうなのだろう。
しかし。
「じゃあ、おんなじですね」
気遣いをありがたく思いながらも、翔子はさらりと答えた。
まだ二十一ということもあるが、そもそも年齢を隠すという行為を、翔子自身は潔しとしていない。仮にこの先十年、十五年とイントラを続けていったとしても実年齢を聞かれたら正直に伝えたいし、それに対して常に数字より若く見える存在でありたいとも思う。フィットネス・インストラクターである以上、自分自身が生きたお手本でいたいのだ。
すると、まさに自分と同い年くらいの若者が近くに寄ってきた。
「神さん」
「お、着替えてきたか。ちょうど今、天野先生に許可をいただいたところだ」
どうやら彼がその新人アルバイト、赤星健らしい。翔子より頭半分ほど高い身長は、百七十センチちょうどくらいだろうか。神ほどではないが、適度に筋肉がついた身体にぴったりしたコンプレッション・ウェアがよく似合っていて、サッカーやバスケの選手を思わせる。短めの髪も清潔な印象で、シャープな面立ちはなかなかハンサムだ。
へえ……。
見栄えのよさに思わず見とれていた翔子だが、向けられた声で我に返った。
「新人の赤星です。よろしくお願いします」
優しげな声音とは裏腹な、歯切れのいい口調。表情も引き締まっている。
「あ、ええっと、エアロとステップとピラティスを担当してます、天野翔子です。インストラクターです」
イントラというのは見ればわかるだろうと、内心でみずからつっこんでしまった。なんだか少し顔が熱い。健はといえば、なぜか不思議そうに視線をこちらへ固定したままでいる。
二秒ほど遅れて翔子は、またもや彼の顔をぼーっと見つめてしまっていることに気がついた。
「ご、ごめんなさい! あの、なんでもないです。よ、よろしくお願いします」
これではどちらが新人だかわからない。あたふたと謝ったものの、健の方はさっさと神に向き直り、
「じゃあ赤星、あとは天野先生のご指示に従ってくれ」
「はい」
「君なら大丈夫だろうが、レッスン中はくれぐれも、お客様方の邪魔にはならないように」
「はい。承知しました」
などと、ふたたび冷静に会話を始めている。きりっとした二人によるそんな光景は本当に、フィットネスクラブというよりも自衛隊の訓練か部活動のようにも見える。
な、なんか肩が凝りそう……。
こっそり首を回していると、「では天野先生、あとはよろしくお願いします」と神がまた丁寧に頭を下げてきた。
「は、はい!」
答えるやいなや、分厚い背中がさっさと離れていってしまう。かくして翔子は、あっさり健と二人きりにされてしまった。あらためてそちらを見ると、だが彼は翔子などまるで存在しないかのような表情で、トレーニングマシンのエリアを凝視している。
「あの……」
沈黙した空気に耐え切れず、何か話しかけようとしたとき。
「ちょっと失礼します」
健が目の前をすり抜けた。凝視していた先、太腿を鍛えるレッグ・エクステンションというマシンを使用中の会員のところへ、早足で向かっていく。
「え? あの、ちょ……」
どうしていいものかわからず、とりあえず翔子もあとを追った直後。
レッグ・エクステンションのそばまできたところで、健の顔が変わった。
軽く持ち上げられた眉と、明るく光る目。上がった口角。いつの間にか「好青年」という言葉を具現化したような、やたらとさわやかな笑顔になっている。
「失礼します、お客様。トレーニングマシンは重り同士がぶつからないように、ゆっくり動かした方が安全ですし、筋肉もしっかり働きますよ」
「え? ああ、そうなの? ごめんなさいね」
たしかにそのおばさんは、重りのプレート部分からガチャンガチャンと音を立てて、がむしゃらにトレーニングしていたのだった。ただ、頬が上気した感じなのは、筋トレ直後だからという理由だけではないようにも見える。
「よろしければ、もう一度やってみましょうか」
突然声をかけてきたハンサムな若者に驚いた様子でもあったが、おばさんは「え、ええ」と素直に従ってマシンを動かし始めた。
「大丈夫ですよ。自信を持って」
さわやかな笑みが、ふたたび向けられる。
「うん、そうです。二、三秒で持ち上げて……OK、下ろす時は倍ぐらいの時間をかけましょう。……そう、お上手です!」
「本当?」
「ええ、とてもいい感じです。じゃあ、もう一度。一、二、三……はい、ゆっくり下ろして。一、二、三、四……うん、そこでもう次の動きに! そうです、グッド!」
「あ! なんか筋肉、使ってる気がするわ!」
「ええ。こうやってプレートをぶつけないよう、常に筋肉を使いながら動かしてあげるのがポイントです。でも、とってもお上手ですよ。この調子で頑張ってくださいね」
「ありがとう! 助かったわ」
マシンを上手く扱えたのとイケメンに指導してもらえたのとで、おばさんはじつに満足げな表情だ。
「あなた、見ない顔だけど新人さん?」
「失礼しました。この四月から入った赤星と申します。何かわからないことがございましたら、今後もご遠慮なくお声がけください」
「ありがとう。お若いのにしっかりしてるのね。頼りにしてるわ」
すっかり笑顔になった彼女がトレーニングを再開すると、頃合と見計らったらしく、健もにっこりと会釈をしてその場を離れていった。
「…………」
翔子は呆気に取られていた。
ついさっきまで神や自分に自衛隊員のような応対をしていた人が、突然とびきりの笑顔になって、しかも一流ホテルマンばりの接客をしてみせたのだから無理もない。
……どうして普段から、こうしないのかしら。
とは出会ったばかりなのでさすがに言えず、「凄いですね」と口にするのが精一杯だった。
けれども健の顔はすでに、最初と同じ引き締まった表情に戻っている。
「何がですか?」
「あ、その、すごく上手に教えるんだなって」
「いえ、普通です」
「普通って……」
「そんなことより、マシンの使い方をきちんと伝えきっていないのは全然だめです。一般の方は一度教わったぐらいじゃ、マシンの扱いなんて慣れるわけないんだから、ちゃんとアフターフォローもしないと。どうせバイトの誰かが初回に担当したんでしょう。神さんや坪根チーフが、そんなことするとは思えないし。まったく」
並んでスタジオへと歩きながら小声でまくしたてていた健だが、すぐにハッと口をつぐんだ。客がまわりにいなくなったので、一瞬だけ気が緩んだようだ。
帝体大で、学生トレーナーもやってるんだっけ。
厳しい言葉にややびっくりさせられた翔子だが、神が言っていたことを思い出して納得した。
学生トレーナーというのは、文字通りトレーナーの勉強をしている大学生や専門学生のことで、インターンとして学内外のスポーツチームや、こうしたフィットネスクラブでアシスタント・トレーナーとしての修行を積む場合がほとんどだ。健が通う「帝体大」こと帝都体育大学はスポーツの名門で、オリンピック選手なども在学しているし、体育教員やトレーナーを多数輩出する学校としても有名な名門校である。
「赤星さんも、将来トレーナーさんになるんですか?」
「そのつもりです。ここにいる時点で、お客さんにとってはもうトレーナーですけど」
初めてまともに会話できた気がする。それだけでなんだかホッとした翔子は、精悍な横顔を無意識のうちに、また見つめてしまっていた。
この仕事にとても誇りを持っているらしい、クールだけどちょっと格好いい、同い年の学生トレーナー。
だがそんな好印象は、一時間後には跡形もなく消え去る羽目になった。
時間になり、翔子のピラティスレッスンが始まった。
年度が替わったばかりとはいえ、今日も参加者はそれほど多くない。広いAスタジオを使うのがもったいないくらいの、全部で九人。スタッフ研修として参加している健を入れても、やっと二桁という少人数だ。
まあこの方が、みんなの表情や動きがよく見えるのはたしかだけど。
もはや見慣れた風景に、翔子自身も内心で苦笑してしまう。これでよくレッスン打ち切りにならなかったものだと自分でも思うが、さゆりいわく、
「参加率こそ低いものの、天野先生のピラティスは満足度の高いクラスですから。ほぼ同じメンバーが毎回参加してくださっていることからも、それはわかります」
とのことだった。とはいえ、「新年度は参加率自体も上げられるように、頑張ってくださいね」と、しっかり釘も刺されてしまったが。
何はともあれ翔子は、いつものようにレッスンを始めることにした。例によって今日もリピーターばかりなので、特段気にかけるべき参加者もいない。
……と思ったが、よく考えたら一人だけいた。一番後ろにさり気なく立っている初参加者――というか、研修スタッフの健である。
彼の方をちらりと見ながら、翔子は最初の挨拶に入った。
「こんにちは、皆さん! 今週もマット・ピラティスのレッスン、四十五分間しっかり集中して頑張りましょう。今日はスペシャルゲストとして、新しいスタッフの赤星トレーナーも参加してくれています。よろしくお願いしますね」
「皆さん、こんにちは! この四月からジムに勤務している赤星です。どうぞよろしくお願いします!」
ぺこりと頭を下げた健の顔は、先ほどの好青年スマイルになっている。数分前に見たばかりとはいえ、見事なまでの変貌ぶりには、やはり驚きを禁じえない。
「あら、格好いいトレーナーさん」
「翔子先生とお似合いね」
何も知らない参加者たちは全員女性、しかも常連の主婦ばかりなので、健の姿を見てすぐに調子のいいことを言い出している。
「はいはい、イケメンを大事にするのもいいですけど、たまには私にも優しくしてくださいね。じゃ、さっそく始めますよ。仰向けになっていつもの呼吸の練習と、スクープの感覚を思い出すところからやっていきましょう」
軽口を返しつつ、CDデッキのスイッチを入れた翔子自身もマットに横たわる。
直後に、もう一度驚かされることとなった。
うわ!
のっけからみんなにいじられた健はと見ると、まるでいつも参加しているかのように「スクープ」と呼ばれる基本姿勢に取り組んで、しかもそれが随分と様になっていたからである。
トレーナーさんって、やっぱり凄いんだ。
その後も同様だった。ピラティスの経験自体はない様子だが、健は身体のコントロールや柔軟性が抜群に優れており、他のエクササイズも二、三回繰り返すだけで美しいフォームを次々とものにしていく。
「翔子センセ、イケメンさんばっかり見てないで、私たちの方もチェックしてよー」
「そ、そんなことありませんってば。ほら、お口じゃなくてインナーマッスルをちゃんと働かせてください!」
そんなやり取りに、珍しく健の方からこちらを見てきたようにも感じたが、恥ずかしさもあって翔子は目を合わせられなかった。
以降も彼の美しいフォームはまったく乱れず、結局、四十五分間のレッスンを涼しい顔で、ほぼ完璧にこなされてしまった。担当インストラクターとしては舌を巻くばかりだ。
「はい、皆さんお疲れ様でした! 赤星トレーナーのようにインナーマッスルをしっかり使って身体をコントロールすれば、あんな風に格好よくなれますよ。マシンでアウターマッスルを鍛えるのもいいですけど、引き続きピラティスもぜひ継続してくださいね」
まとめながら最後列に目をやると、またしても何か言いたげな視線が返ってくる。どきりとした翔子だが、とにもかくにもクラスを終わらせることにした。
「じゃ、じゃあ、今週はこれでおしまいです。ありがとうございました!」
「ありがとうございましたー!」
健が話しかけてきたのは、いつもの笑顔で参加者たちを見送った翔子が、CDをデッキから取り出したときだった。
「天野先生」
「ひゃい!」
初めて名前を呼ばれ、思わず声が裏返る。
「ええっと……なんでしょう?」
「一つだけ、いいですか」
「はい?」
「レッスン中に盛んにおっしゃっていた、〝インナーマッスル〟についてなんですが」
「は、はい」
なんだか嫌な予感がする。声音こそ優しいが健の目が笑っていない。もちろん、あの好青年スマイルも欠片も浮かんでいない。
真剣な眼差しのまま、健は尋ねてきた。
「どうして、ああいう伝え方をしたんですか?」
「え?」
きょとんとする翔子から視線を逸らさず、問いが重ねられる。
「ご存知の通り、インナーマッスルは身体の内側にある目に見えない筋肉のことで、姿勢制御や、関節の安定性を高めるために働く筋肉群です」
「はあ」
「そしてアウターマッスルという分類はその逆、身体の外側にある目に見える筋肉で、実際に身体を動かすときにメインで使われる、比較的大きな筋肉が多いですよね」
いきなり機能解剖学の講義が始まってしまった。ちなみに翔子は専門学校時代から、この分野が大の苦手である。
けれどもそれは、講義などではなく抗議に近いものだった。
「たしかにマシンをはじめ多くのエクササイズは、どこを鍛えられるのかと聞かれた際には、アウターマッスルの名前を答える場合が普通です。大胸筋とか大腿四頭筋とか」
「…………」
それぐらいわかってます、と言いたいのを、だが翔子は我慢した。健の目がずっと真剣な光を放っているし、何より口調が熱を帯びてきていたからである。とはいってもエキサイトして相手を論破しようというような調子ではなく、重要な議題について意見交換を求めるみたいな感じではあるが。
「でもそもそも、インナーマッスルとアウターマッスルをアイソレート……って言ってもわかんないか、ええっと、分けて鍛えることなんてできません」
大学生らしく(?)ゼミで発表するかのごとく、健の主張が続いていく。そこまで聞いて翔子は、ようやく「あっ!」と声を上げた。彼の言いたいことが、なんとなくわかってきた。
「ヒトのすべての動作において、インナーもアウターも一緒に働きますし、逆にそうじゃなければ身体は動かせないですよね」
言いながら健が、おもむろに腕立て伏せの姿勢を取ってみせる。もはや完全に、何かのスイッチが入っているのがわかる。
「たとえばこのプッシュアップも、大胸筋や上腕三頭筋といった、いわゆるアウターマッスルのエクササイズだとされていますが、肩関節や体幹を安定させるためにインナーマッスルも一緒に働いているわけです。僕たちトレーナーの間では、プッシュアップは上半身ではなく、むしろ体幹のトレーニングと捉えることも多いくらいです。状況にもよりますが、ヒトの骨格筋をインナーとアウターという風に分類すること自体、乱暴な分け方だとも言えるんじゃないでしょうか」
つまり、健の主張はこういうことらしい。翔子がレッスン中よく口にする「インナーマッスルを大事に鍛えましょう」という言葉が、トレーナーである健の視点からすれば、まさに乱暴な教え方なのではないか、と。
「それは……」
突然の糾弾に、翔子は何も反論できなかった。養成コースでは実際にそう教わったし、今まで会員から、こんなつっこみを受けたこともなかった。
「もちろん完全に間違っているとは言いません。そういう分類の仕方があるからこそ、現場でも使われている用語なわけですから。でもマシンはアウター、ピラティスはインナー、だからピラティスは大事、みたいに短絡的な伝え方だとお客さんが誤解して、本来は必要なウエイトトレーニングを、やらなくなってしまう怖れだってあるんじゃないでしょうか。特に女性相手ならなおさらです。さっきのレッグ・エクステンションのおばさんもそうですけど、正確な知識を伝えないことで、何よりお客さんが一番困るんです」
はっきりと述べた健が、もう一度、真っ直ぐにこちらを見つめ直してくる。今さらの印象だが、俗に言う〝目力〟がかなり強い。
「イントラもトレーナーも、嘘や誤解を招く教え方はやめましょう。僕がお伝えしたいのは、それだけです」
きっぱりと述べた彼は、そうして「レッスン、楽しかったです。ありがとうございました。失礼します」と律儀に頭を下げてから、すたすたとスタジオを出ていってしまった。
呆然とする翔子は、鏡に映る自分を見てあとから気がついた。黒目がちの瞳が、思いきり潤んでいる。
悔しい。言われた内容は正論だけど、とにかく悔しい。
それでもぐっと唇を噛みしめて、光るものが両目から溢れ落ちないよう、なんとか踏みとどまる。
そんな事件が、今から二ヶ月ほど前にあったのだった。