エアロ 4
「いたたた……」
「まったく。床が滑るってわかってたのに、どうしてあんな無茶を?」
しゃがんだ位置から、健が呆れ顔で見上げてくる。
「だって、みんなと一緒に盛り上がりたかったから」
言い訳しつつ、翔子自身も反省の色は隠せない。
「しかも明らかに痛めてるのに、終わったあとも跳びはねて手を振ってましたよね?」
「あれは、その、つい……」
「下手をすれば、もっと大怪我になってたかもしれないんですよ?」
「はい。ごめんなさい」
観念して頭を下げると、その様子がおかしかったのか彼はようやく表情を緩めてくれた。
すべてが終わったあと翔子は朝と同じベンチで、ふたたび健に左足をケアしてもらっていた。傍らには《20th IOI Finalist》 とプリントされた記念ポロシャツが置いてある。
ありがたいことにスポーツドクターの如月もすぐ来てくれたが、彼女の診断によれば「ま、これなら大したことないでしょ。すぐアイシングして、あらためて一週間ぐらい大人しくしてなさいな」とのことだ。
だからというわけではないだろうが、その如月をはじめ応援してくれた人たちは、
「私たちは先にクラブへ戻ります。天野先生は足も痛むでしょうから、赤星君にもう一度テーピングでもしてもらうといいわ。赤星君、ちゃんと天野先生をお送りしてね」
と、こっそりウインクなどしてくるさゆりに率いられて、先に帰ってしまった。
自分だって、神さんと二人っきりになればいいのに。
などと思いながらも翔子は素直に従い、健も「わかりました」とすんなり頷いて、こうしているというわけだった。
「でも本当によかった。あのまま翔子さんが頭から落ちなくて」
「ごめんなさい」
神妙な顔でもう一度謝った翔子だが、「健君のおかげだよ」と胸の内で感謝もしておく。
二度目のカブリオール後に足を滑らされた瞬間、目に飛び込んできたテーピング裏の言葉。あのメッセージのおかげで翔子は自分を取り戻し、とっさに反応できたのだ。それも健自身が教えてくれた技術で。
けれども健は、メッセージの件については何も触れてこない。翔子の足が第一とばかりに、テーピング自体もさっさと剥ぎ取って素早く氷を当て直してくれている。
ちなみに表彰式の際、ステージ下まで来ていたのは、
「翔子さんが入賞したとき、また思いっきり跳びはねたりしないか心配だったからです」
とのことで、ここでも翔子は「ごめんなさい……」と恐縮するしかなかった。
「よしっ、と。じゃあ立ってみましょうか」
「はい」
頷いたところで彼の右手が差し出される。
あ、四回目。
しっかり覚えている回数とともに、翔子はそっと手を取った。自分のトレーニングも欠かさないことがわかる、少しだけ皮の厚くなった手。いつも守ってくれる優しい手。
だが。
「きゃっ!」
「翔子さん!」
立ち上がったはいいものの、思ったより左足に力が入らなかった。倒れそうになる身体を、すかさず健が支えてくれる。
「大丈夫!? 痛む?」
「ううん、ごめん。痛いっていうより力が入らなかっただけ。本番終わって気が抜けちゃったからかも。あはは」
「そ、そう。ええっと、ならよかった」
「健君?」
なんで急に動揺してるの? と顔を覗き込もうとした翔子は、さらに大きな声を出す羽目になった。
「きゃあっ!」
近い。近すぎる。というか――。
「ご、ごめんなさい!」
さっきとは別の意味で謝りながら、慌てて両腕を離す。あろうことか、健の首っ玉にかじりつくような格好になっていたのである。
「あ、いや、全然。それより、その、歩けそうですか?」
「あ、はい。問題なさそうです、はい」
おたがい顔を真っ赤にして、今さらの他人行儀な口調になってしまう。
抱きついちゃった……。
シャワーを浴びたとはいえ、汗臭くなかっただろうか。髪だってぼさぼさだ。
久しぶりに心拍数を上げられた翔子が、もう一度だけ表情を窺おうとしたとき。
「あら、ちょっと見ないうちに翔子も大胆になったのね」
からかうような声が届いた。
「え!?」
「ふーん。で、こちらが翔子の〝世界線の君〟ね。トレーナーさんなんだ?」
「龍子先生!」
近づいてきた龍子が、「表彰式の最中は、さすがにゆっくり話せなかったからね」と笑いながら健にも挨拶する。
「初めまして。翔子の専門学校時代の教員、草薙龍子です」
「あ、初めまして。メイク・フィット・スポーツクラブのアシスタント、赤星健です。翔子先生にはいつもお世話になっています。草薙先生のお話も常々伺っております」
一瞬だけぽかんとなった健の方も、すぐに如才ない挨拶を返している。こういうところもさすがだ。
「それはそれは。でもこの子の世話って大変でしょう? よかった、あなたみたいにハンサムなトレーナーさんが彼氏になってくれて」
「先生! ち、違います!」
今度こそ本当に固まってしまった健にかわり、翔子はかあっと熱くなりながら抗議した。
「あら、違うの? だって今もがっつり抱き合ってたじゃない。本番のラストだって、決めポーズ取って生歌まで歌いながら彼にアイコンタクトを――」
「気のせいですっ! 全然全然気のせいです! そんなことより!」
やはりこの人には見抜かれていた。もはや大声を出してごまかすしかない。
「そんなことより龍子先生。どうして今日、いらっしゃったんですか?」
「え? 来ちゃだめだった?」
「いや、だめってわけじゃないですけど」
最近の龍子は海外が拠点だと言っていたし、そもそも『IOI』の審査員は毎年のように断っていたはずだ。
隣の健はといえば、コントのような師弟のやり取りを、まだ固まったまま見つめている。
龍子はルックスもこの通り非の打ちどころのない人だが、中身がかなりすっとぼけているというか、マイペースすぎるくらいマイペースな人だというのは、意外に知られていない。翔子をはじめ教え子たちの間では、「残念美女」「がっかりスーパーウーマン」などと呼ばれたりもするほどなのである。
その残念美女は、「ていうか公衆の面前で抱き合ったりするぐらいなのに、まだつき合ってないってこと? 友達以上恋人未満ってやつ? いいわねえ、青春してて」などとのたまってから、しれっとつけ加えた。
「だって私、翔子とみくちゃんを見にきたんだもの」
「え?」
「今年も『IOI』の審査員頼まれて、例によって断ろうとしたんだけどさ。なんとなくエントリーシート見たら、翔子とみくちゃんの名前があるじゃない? こりゃ面白そうってことで、サプライズ審査員としてたまには見せてもらうことにしたの。ちょうど日本に帰ってくる用事もあったしね」
「はあ」
面白そうという理由でわざわざ審査員を、それも責任の大きいサプライズ特別審査員として引き受ける人など、彼女以外にいないだろう。わかってはいるつもりでも、師匠の特異なキャラクターにはあらためて呆れてしまう。
「でもさ、翔子」
言うやいなや、龍子がいきなり両手を広げた。そのまま踏み込んでぎゅっと抱きしめてくる。
「先生!?」
「あんたのレッスン、ほんとによかったわよ。私も鼻が高い!」
「あ、ありがとうございます」
豊かな胸の弾力をもろに感じながら、翔子はとりあえず礼を述べた。髪型は真似できるけどこればかりは真似のしようがない、などとどうでもいいことを考えながら。
「でも、すみません」
「ん? 何が?」
「せっかく見にきてくださったのに、入賞できなくて」
「ああ、いいのいいの」
抱きしめていた愛弟子を解放して、先生はさらりと手を振ってみせる。
「だってあんた、本当は二位だもん」
「え!?」
「は!?」
健まで声を上げてしまっている。
「銀メダリストが目玉のサプライズ審査員の教え子ってのは、さすがに誤解を招くでしょ? もちろん私自身公平に審査させてもらったし、ガブやオトヤ君なんてむしろ、それでもいいから翔子をぜひ二位に! とまで言ってくれたんだけど、やっぱりねえ。だからごめんね」
「い、いえ! 全然気にしてません!」
ファイナリストになれただけでも自分にとっては嬉しすぎる勲章なのだ。この記念ポロシャツだって、ずっと宝物になるだろう。
それに――。
「私の、龍子先生のエアロは、誰かと競うためのものじゃないですから」
翔子はにっこりと笑ってみせた。
「お、わかってるじゃない」
頷いた龍子が健にも笑顔を向ける。
「というわけで本人が納得してくれてるから、彼氏としてもそれでいい? 健君」
「え? 俺……いや、僕は翔子さんが納得できれば、結果はなんでもいいって最初から思ってましたから」
自分が何週間もかかったのに、出会って五分も経たないうちからあっさり「健君」と呼んでしまう師匠にはやっぱりかなわない。
いや、そんなことより。
「まだ彼氏じゃないですから!」「まだ彼女じゃないですから!」
思わず二人の声が重なった。
「ふーん。まだ、ね」
してやったり、というような顔で龍子がさらに笑う。
「いいのいいの。少しずつ話をして、少しずつおたがいのことを知って、少しずつ一緒に過ごす時間を増やして、少しずつ手を繋いだり抱き合ったりしていきなさいな」
手を繋ぐのだけはもう何度も済ませてるんですが、とはさすがに言えず、翔子は真っ赤な顔のまま俯くしかなかった。
「そういう小さな積み重ねこそが大切だって、翔子も健君もわかってるでしょう」
「あ!」
もう一度、二人の声が重なる。
「Do the little thing !」
「シー! ご名答!」
手を叩いた龍子が、「ほらね、翔子?」と楽しそうに首を傾けた。自分と同じ髪型がふわりと揺れる。
「こんな風に、自分にもいろんなことを教えてくれるの。だから――」
恩師が言い終わる前に、「はい!」と翔子は元気に返していた。
大きな瞳をチャーミングに輝かせながら。
「エアロって、イントラって、楽しいです!」
Fin.




