メイク・フィット・スポーツクラブ 2
「こんにちは」
「あ、翔子先生! こんにちは! はい、どうぞ」
翌日。ふたたびメイク・フィットに出勤すると、顔馴染みのフロント担当アルバイト、森永綾乃がいつものように関係者用のロッカーキーを渡してくれた。
「ありがとうございます」
「先生、敬語じゃなくていいですってば」
おかしそうに笑う大学二年生の綾乃は、年齢自体は翔子と一つしか違わない。そんな彼女から見れば、同世代にもかかわらず社会人として日々働く自分の姿は、「憧れのお姉さん」のように映るようだ。親しみを込めて下の名前で呼んでくれるのも、むしろその表れだろう。フリーターに毛が生えた程度の収入しかない身としては、なんだか申し訳なくもなるが、無邪気に慕ってくれるのはやはり嬉しい。
「そうだったね。ごめんなさい……じゃなかった、ごめんね、綾乃ちゃん」
同じく下の名前で返した翔子は、頬を染めた綾乃が「先生、いっつも可愛いなあ」と、にこにことつぶやくのには気づかず、笑顔のままロッカールームに向かった。
トレーニングウェアに着がえた翔子は、さっそく二階にあるジムへと階段を上った。今日はレッスン前に軽く筋トレする予定だが、もちろんボディビルダーのような肉体のためではなく、軽い負荷でイントラらしいしなやかな身体を維持するためである。
ちなみにフィットネス・インストラクターは、一日に複数のレッスンを担当することがざらだし、こうして自身もトレーニングする必要があるので、着替えが何枚も必要になる。毎週のレッスンにしてもいつも同じシャツというわけにはいかないから、ウェア代も馬鹿にならない。ただ、イントラ同士でもそれをわかっているので、仲のいい先輩ができるとまだ使えるウェアをおさがりで譲ってくれたりする。
「あら翔子ちゃん、こんにちは。レッスン、このあとだっけ?」
ジムへ入るとすぐ、その先輩イントラの声が聞こえてきた。
「こんにちは、獅子神さん、坪根チーフ。今日もよろしくお願いします」
カウンターの前で手を振っているのは、10kgと彫られたダンベルを軽々とぶら下げた、タンクトップ姿のマッチョな男性だった。男性の向こう側には、チーフ・トレーナーを務める社員、坪根さゆりの姿も見える。
「あら!? それ、この前私があげたシャツじゃない? さっそく着てくれてるのね! ありがとう」
マッチョな先輩イントラ、獅子神将人が嬉しそうに顔をほころばせる。勇ましいフルネームといかつい容姿が特徴的な獅子神は、生物学的には♂で表記される側の人だが、中身はオネエ言葉を隠そうともしないバリバリのゲイである。
「はい! すごく助かってます。ありがとうございます」
「いいのよー。私がワンサイズ小さかったときのだし、すぐに着られなくなっちゃったから、こっちとしても助かったわ。でもちょっと大きかったかしら」
「大丈夫です。私、大きめの方が好きですし。大事に使わせてもらいますね」
ぴったりしてると、胸がないのがバレちゃうし……。
とはさすがに口に出せず、翔子はもう一度「ありがとうございました」と頭を下げた。
獅子神はメイク・フィットでのレッスン以外にも、全国でのイベントレッスンや海外のフィットネス展示会などにも呼ばれる、国内を代表するベテランイントラだ。二十年近くこの業界でトップを走り続けているだけあって、エアロもヨガも筋トレ系も、さらには最新のグループ・サイクリングすら軽々とこなし、どのレッスンも常に満員御礼。そんな大物がなぜか翔子のことをいたく気に入って、デビュー以来、何かと世話を焼いてくれるのだった。
「オカマは苦労するからね。そのぶん人に優しくなっちゃうのよ」
とは本人の弁である。
彼のようにオープンなセクシャル・マイノリティ=性的少数者の人に出会ったのは、翔子は初めてだったが、気さくで面倒見のいい獅子神を自分もすぐ信頼するようになり、今では専門学校時代の恩師に次ぐ身近な目標としている。
「天野先生、レッスンもそのシャツでされますか?」
するとカウンターのなかから、こちらは性的多数派(のはずだ)のさゆりが、微笑みながらもしっかりした口調で聞いてきた。ショートボブの黒髪が、今日も艶やかに揺れている。
「いえ、もちろんレッスンは着替えます。ピラティスですから、あんまりゆったりしすぎてても変ですし」
チーフ・トレーナーのさゆりは、スタッフマナーや接客態度にも厳しいことで知られる、きりっとした性格の美女だ。イントラは厳密に言えば外部の人間だが、翔子もいまだに彼女の前では緊張してしまう。逆にそれくらいでなければ、ジムのリーダーなど務まらないのかもしれない。
「翔子ちゃんがそのへん、おろそかにするはずないでしょ。さゆりの方こそ、あんまり小姑みたいなことばっか言ってると、ほんとの〝おツボネ様〟になっちゃうわよ。黙ってれば美人なんだから、もったいない」
「そんな失礼な呼び方するの、獅子神さんだけです! あと、〝黙ってれば〟も余計です!」
眉間にしわを寄せながら、さゆりがすかさず抗議する。聞いた話によれば、新入社員の頃から自分を知っている獅子神にだけは、さすがの彼女も調子が狂うらしい。
「この子は絶対大丈夫よ。みくちゃんじゃあるまいし」
「そうですね。佐野さんももう少し、自覚を持ってくれればいいんですが。まあ、あれはあれで、キャラ的に人気と言えば人気なんだけど……」
綺麗に描かれた眉をふたたび寄せたさゆりは、やや困った表情でレッスン中のスタジオへと目を向けた。
メイク・フィットにはスタジオが二面あり、そのうちの大きい方、Aスタジオはジムのなかに併設されている。翔子のピラティスクラスも、一時間ほど後に同じAスタジオで行なわれるが、今はヨガのレッスン時間だった。
「……なんでヨガの先生が、レッサーパンダなのかしら」
なかば呆れながらの台詞に、翔子も獅子神も苦笑するしかない。たとえでもなんでもなく、Aスタジオ内のイントラは実際にレッサーパンダの顔が全身にプリントされた、それも蛍光イエローのド派手なTシャツを身に着けているのだった。髪型も、まるで小学生のようなツインテールである。
「しょうがないわよ。みくちゃんだもの」
「すみません、私からも言っておきます」
獅子神がたくましい肩をすくめるのに合わせて、翔子も少々申し訳ない気持ちでつけ加えた。
レッサーパンダ好きを公言しているイントラ、佐野みくはヨガと初心者向けエアロを担当する今年からの新人で、翔子にとっては専門学校時代の後輩にも当たる。
自分よりさらにレッスン本数が少ないみくのことを、翔子は当初、さぞかし生活も大変だろうと心配していた。が、聞けば実家がアパレル会社を経営しているそうで、あくせくする必要などないのだとか。そうした背景もあってかやたらとマイペースな、けれどもなんだかんだで憎めない彼女を翔子は、手のかかる可愛い妹分、といった態で今もさり気なく見守っている。
「別に、ルール違反てわけではないんですけどね」
楽しそうに《三角のポーズ》を取るそのみくを見つめたまま、さゆりがまた呆れたように肩をすくめる。とはいえ彼女も、親戚のいたずらっ子を見るような苦笑を、整った顔に浮かべていた。
「じゃあ私、レッスンまで軽くトレーニングさせていただきます」
「ええ、どうぞ」
「頑張ってね」
さゆりと獅子神にもう一度挨拶してストレッチエリアへ向かった翔子だったが、その途中、耳に飛び込んできた元気のいいかけ声に、ハッとして足を止めた。
「OK、いいですよ! そのフォームであと三回!」
声はバーベルやダンベルが置いてある、フリーウェイト・エリアと呼ばれる区画から聞こえてくる。
「そうです、三……二……はい、ラスト一!……グッド! 終了です!」
「やった! 初めて三セット、クリアできた! 赤星君のおかげだよ!」
「とんでもありません。ご自身の努力の結果ですよ」
かけ声の主である若い男性は、さわやかな笑顔とトークでベンチプレスの補助をしている。
その姿を翔子は複雑な表情で見つめていたが、男性がこちらを振り返った瞬間、わざとらしく目を逸らしてしまった。
何よあいつ、お客さんにはあんなに愛想いいくせに。
何事もなかったかのように歩き出した脳裏には、彼――苦手な「あいつ」こと赤星健との初対面が、ふたたび思い出されていた。