エアロ 3
『エクソダス』の新曲らしいやや場違いなバラードが流れるなか、MCとガブリエラ、オトヤがステージに登場した。
「いや~、今年は例年以上にレベルが高かったですねえ、ガブリエラさん」
「ほんと! これ、お世辞とか営業トークじゃなくてマジですからね! 私も現役復帰したくなっちゃったもの」
「そうですね。ダンサーである僕の目から見ても、明らかにレベルが高かったです。皆さん全員、『エクソダス』のメンバーになって欲しいくらいです」
「なら、私も現役復帰したら『エクソダス』に入れてくれる?」
「えっと……リーダーに相談します」
場内が笑いに包まれるトークを、翔子たち六人の最終審査出場者は背後から見つめていた。
いよいよ最終結果発表だ。やれるだけのことはやった。楽しかった。みんなと一つになって、一緒に笑って、一緒に声を出して、一緒に盛り上がることができた。
正直、入賞とか審査員賞とかはどうでもいい。それよりも、願いが叶うのならば一つだけ。
健君を守ることができますように。
左足に当てた小さな氷嚢を見つめながら、翔子は強く祈っていた。
「では皆さん、お待たせしました! 第二十回『IOI』、いよいよ結果発表です!」
ドラムロールこそ鳴らないものの、BGMがさすがに小さくなった。オトヤが小さなメモを手に一歩前へと進み出る。
「では第三位の先生を、僕の方から発表させていただきます」
翔子は少しだけ緊張を覚えた。自分のキャリアや実力を考えれば、二位や優勝なんてとてもじゃないが考えられない。万に一つの入賞チャンスがあるとすれば、この第三位だろう。それでも可能性は低い。現実的には、四位か五位でとにかく斉藤より上の順位にさえなれれば……。
「本年度の『IOI』第三位は――」
オトヤの声が大きくなる。
「エントリーナンバー五十九番、木村良介先生!」
わっと大きな歓声。続く拍手とともに「木村先生!」「おめでとう!」という声援も客席の一部から聞こえてきた。木村という男性イントラが、呼ばれる前から「ありがとうございます!」と一歩前に出てお辞儀をしている。
「では木村先生、どうぞ前へ……って、もう出てらっしゃいますね」
オトヤの冷静なつっこみに、温かい笑い声が起こる。
自身も拍手を送りつつ、翔子の笑顔は強張っていた。斉藤に勝つチャンスがこれで本当に低くなってしまった。あとは二位と一位だけで、残りのイントラは五人。確率で言えば五分の二だが、自分がそこに食い込めるとはやはり思えない。逆に斉藤が、かなりの実力者だというのは悔しいけれど事実だ。向こうには二位どころか、優勝の可能性だってあるような気がする。
ごめん、健君……。
正面客席の中段、メイク・フィットの人たちが居並ぶ列に目をやると、だがなぜか健の姿がなかった。
あれ?
トイレだろうか。けれども冷静な彼がこんな大事な瞬間にトイレに行くなんて、あまり考えられない。
混乱しているうちに、今度はガブリエラによって第二位が発表されてしまった。
「第二位は……お・め・で・と~! エントリーナンバー四番、志村かおるちゃんよ~!」
三位のときと同じように、会場中が歓声と拍手に包まれる。たしか最終審査のトップバッターだった、翔子と同年代のイントラだ。「ありがとうございます! ありがとうございます!」と、可愛らしい顔に涙を浮かべて何度も頭を下げている。
「なんだ、俺が優勝か。悪いね翔子ちゃん」
隣に立つ斉藤が、またしてもこちらにだけ聞こえるようにささやいてきた。
「そうそう、彼氏にちゃんと約束を守ってもらわないと。ていうか、本人も自覚してるみたいじゃん。近くてスタンバってるくらいだし」
「え!?」
不覚にも動揺した声が出た。だが斉藤の言う通り目線が示す先、ダンスフロア前列の端に、いつの間にか健がいるではないか。しかも厳しい表情でこちらを見守っている。
「健君!」
翔子は思わず口に手を当てた。
嫌だ。そんなの絶対に嫌だ。私のせいで。私に実力がないせいで。関係ない彼が、大好きな人が、こんな奴に……。
「さて、と。どのタイミングで、彼に土下座してもらおうかな」
にやりと笑う斉藤の顔を、ステージ上にもかかわらずきっと睨みつけたとき。
MCの声が響いた。
「というか、皆さん! 気になる優勝者を発表する前に大事なこと、大事な人を忘れていませんか!?」
フロアと客席がざわつく。
「え?」
「なんだっけ?」
翔子も、斉藤でさえも、思わず怪訝な顔になった。大事な人? 私の大事な人はすぐそこにいるけど……などとまったく関係ない、しかも本人には決して言えない台詞が思い浮かんでしまったほどだ。
「困りますねえ。最終審査の前に私が言ったこと、よ~く思い出してみてください。皆様にご紹介する大事な人は、こちらです!」
直後、肩に何かが触れた。優しい温もりが伝わってくる。手だ。それもよく知っている手。頼りがいがあって、ずっと憧れている手。
「よかったわよ、翔子」
自分にだけ聞こえるようにささやかれた声は、同じことをした斉藤とは似ても似つかないものだった。
忘れようがない、聞き間違えようがない、あのときステージで心に届いた声。ピンチを救ってくれた大切な声。
「本日のサプライズ審査員! 皆さんもご存知の、日本を代表するインストラクター・オブ・インストラクター、草薙龍子先生です! どうぞ!」
「龍子先生!?」
とっさに振り返った背後、『IOI』のロゴ入りパネルの陰からステージに歩み出てきたのは、本当に本物の草薙龍子だった。
「わあっ! 草薙龍子さんだ!」
「かっこいい!」
「超スタイルいい!」
翔子とよく似た背中まで届くポニーテール。すらりとした長身を包むパンツルック。いつも以上に颯爽として見える龍子は、美しいお辞儀をしたあと笑顔で会場中に手を振った。
「皆さん、こんにちは! サプライズ審査員の草薙です!」
さらに大きな声援が上がる。フィットネス・フリークが集まっているだけあって、彼女のことを知らない人など誰もいない。なかには「この場でレッスンしてください!」などと、無茶なお願いの声も聞こえるほどである。
「あはは。私も見ててうずうずしちゃったんですけど、今朝日本に着いたばっかりで時差ぼけがひどくて。皆さんのイメージを壊しちゃうと申し訳ないので、今日はこっそり審査員だけやらせていただきました。そのぶんガブが頑張ってくれたし。ね、ガブ?」
「頑張ったわよ~。久しぶりに龍子に会えると思って、いつもの五割増しぐらいで張り切っちゃったんだから! おかげでヘロヘロよ」
絶対にそうは見えないガブリエラも、楽しそうに笑っている。二人は旧知の仲のようだ。
「オトヤさんも、お久しぶりね」
「ご無沙汰してます、草薙先生。去年のツアーで、振付をお願いして以来ですかね」
「そうですね。メンバーの皆さんもお元気?」
「はい。おかげさまで」
もはや驚かないが、龍子は『エクソダス』の振付まで担当したことがあるらしい。たしかに彼女ほどキレのあるダンスエアロなら、エンターテインメントとしてもじゅうぶんに通用するだろう。
「というわけでサプライズ特別審査員の草薙先生には、今大会の感想を伺うとともに、お待ちかねの優勝者発表もしてもらおうと思います! 先生、よろしいでしょうか?」
「はい、もちろん! それにしても本当にハイレベルでびっくりしました。一次審査の時点で、海外でも通用しそうな方が沢山いらっしゃって。一般参加の皆さんだって、自分がクラブのオーナーならイントラにスカウトしたいほどです」
龍子らしい歯切れのいいトーク。心からそう思ってくれているのが伝わる言葉。背中しか見えないけれど、客のハートを鷲づかみにするあの格好いい笑顔で語っているのがわかる。
「最終審査の五人なんて、すぐにでもヨーロッパに連れて帰りたいくらい」
「草薙先生は今、ヨーロッパでお仕事中なんですか?」
「ええ。スペインのエアロビクス協会から依頼を受けて、インストラクター養成コースのプログラムづくりをお手伝いしています。バルセロナが拠点ですけど、いいところですよ。オラ! コモ・エスタス?」
やっぱり龍子先生は凄い。流暢なスペイン語での挨拶を聞きながら、翔子はさっきまでの落ち込んだ気持ちなど忘れて目を輝かせていた。自分がこの人の教え子だというのが、心底誇らしい。
「エアロって、やったことのない人からすれば、ただ単に音楽に合わせて汗をかくだけと思われがちじゃないですか。でも心から楽しんで、心から笑って、イントラと参加者の皆さんと、そして今回みたいなイベントでは客席も一つになって盛り上がれば、これだけのエネルギーを生み出せるんですよね。イントラとしての技術的な上手さは、練習すれば誰でもある程度は身につきます。けど大事なのは技術じゃなくて、こういう風にお客さんの笑顔とか元気とか、心の健康みたいな部分まで引き出すこと。それができる人こそが、本当の意味でのフィットネス・インストラクターだと私は思っています。ですから今日の皆さんは大変素晴らしかったです。優勝者を選ぶのは本当に苦労しました」
「なるほど。そう言ってくださると、一層気になりますねえ。皆さんもお待ちかねなので、では、いよいよ発表していただいてよろしいでしょうか?」
「はい。十番、こちらへ」
さらりとしたひとことに、「よっしゃ!」と斉藤の声だけが響く。
一方で客席、フロア、そして翔子を含むステージ上のほとんどの人間もぽかんとしていた。「え?」という声もいくつか聞こえてくる。
少し遅れて、まずは観客たちがざわつき始めた。
「なんか……あっさり?」
「今のが発表?」
「こんなもん?」
フロアからも声が上がる。
「十番の人が優勝でいいってこと?」
誰が聞いてもわかるほど、龍子の発表はそっけないものだった。まるで優勝者というよりは――。
「いいえ。優勝者ではありません」
その冷たい口調を、翔子は何度か聞いたことがあった。
「彼は失格者です」
ざわめきが大きくなる。
「え!? あ、ええっと、それはどういう……」
ここまで見事な仕切りを見せてきたMCも、とまどいの声を隠せない。失格者の烙印を押された斉藤本人ですら呆然としている。
初めて見せる神妙な顔で口を開いたのは、ガブリエラだった。
「私から説明させてもらいます」
キャラクターに似合わない堅い表情と声のまま、ガブリエラは残念そうに続けた。
「十番の斉藤京四郎さんは、他の出場者への妨害工作が認められたため、私たち審査員の総意として失格とすることにしました」
「な!? なんでだ! 俺が何を――」
「ここで言わせる気ですか?」
氷でできたナイフのような声が、龍子の口から滑り出る。翔子は思わず、ごくりと唾を飲み込んだ。
龍子先生、やっぱり怒ってる!
専門学校時代、特に模擬レッスンの際に気の抜けたリードを見せられると、彼女はこういう声と口調で生徒を叱っていた。「あなた、今自分が楽しくなかったでしょ? 別のこと考えてたでしょ?」などと鋭く、冷たく指摘する声は下手に怒鳴りつけられるよりもよっぽど恐ろしく、翔子たちはひそかに「龍子先生のコールドボイス」と名づけていたほどだ。
「彼の直後に演技した十七番の天野翔子さんが、本番中に二度も足を滑らせたのを見た方もいると思います。通常ならありえないアクシデントです。汗の汚れは毎回、係の人が入念にモップでお掃除してくれますから。現に斉藤さん自身は、まったくそんなことはなかった」
ガブリエラのあとを受け、龍子が続ける。
「しかしながら、天野さんのあとの三名もかならず一度は足を滑らせていました。それもステージ上の、ほぼ同じところで」
「あ!」
翔子は小さく声を上げた。言われてみれば当たり前の話だ。斉藤がワックスか何かをステージ右手に塗り広げたのなら、自分以後の全演技者に影響があるし、たしかに該当する場面があった気がする。ただ、翔子自身は次の演者のときは足の手当てをしていたし、自分が一番大きく滑ったのもあってすぐに忘れてしまっていた。いずれにせよ、大きな怪我人が出なくて本当によかった。
「斉藤さん」
もう一度、龍子のコールドボイスが斉藤に向けられる。
「今ここでシューズを見せろとは言いません。ですが私たちは、ビデオであなたの演技を何度もチェックしました。不自然に舞台下手、つまり右側ばかり使ってシューズの踵をこすりつけるようなリードを。そして私は先ほど言いました。お客さんと一緒に心から楽しんで、心からの笑顔を引き出すのが本物のインストラクターだと」
斉藤は何も言わない。苦々しい表情で、けれども彼女と目を合わせる勇気もないのか、あらぬ方向を見ている。
「よこしまな気持ちでリードを取ってお客さんを騙しただけでなく、ともにパフォーマンスする仲間を、あろうことか危険に晒す行為。そんな人間を我々はイントラとは認めません。ぶっちゃけ、同じ業界にすらいて欲しくないわね」
フィットネス業界で絶大な影響力を誇る草薙龍子からここまで言われるということは、事実上の追放に他ならない。
翔子はあらためて思い出していた。だから龍子は最初のトークで、「最終審査の五人」と言ったのだ。
「反論があれば正式な形で主催者に申し出なさい。まあ誰が見ても、あなたには正義の欠片もないでしょうけど」
「もったいないわね。あんた、なかなかテクニシャンだったのに」
「ジャンルは違えど、ステージに立つ者として僕も非常に残念です」
三人の特別審査員から揃って最後通告を出された斉藤が、衆人環視のなか、うなだれてステージを降りていく。
その動線がステージ右手を通るものだったのは、神様のいたずらだろうか。
「うわっ!?」
悲鳴とともに自身のワックスで足を滑らせた彼が、ぺたんとステージに両膝、両手をついた。
完全に、土下座の姿勢だった。
「さ、龍子。不届き者もいなくなったし、今度こそ真の優勝者を発表しましょ!」
「ええ、そうね」
「僕も非常に楽しみです」
「ほら、MCちゃん! 仕事しなさいよ、し・ご・と!」
「あ! た、大変失礼しました!」
ガブリエラの合図で立ち直ったMCが、「では、あらためて!」といつものテンションで大きな声を出す。
「栄えある第二十回『インストラクター・オブ・インストラクター』優勝者を、サプライズ特別審査員、草薙龍子先生より発表してもらいます! 草薙先生、お願いします!」
「はい。第二十回『IOI』、優勝は――」
くるりと龍子が美しいターンで振り向いた。権利のある三名のイントラを順番に、優しく見つめていく。
いたずらっぽい光を宿す恩師の瞳を、翔子も笑顔で受け止めた。




