エアロ 2
「翔子さん、凄いな」
「あら、惚れ直した?」
「そ、そんなんじゃありませんよ!」
客席でつぶやいた健を、隣の獅子神がにやりとからかう。だがその獅子神も「たしかに見事なものね」とふたたび唸ってしまうほど、翔子のレッスンは盛り上がっていた。単なるステップタッチと手拍子だけで、これだけの熱気を引き出すことができるイントラは、そうそういないだろう。みくなどは同業者というよりも完全に観客と化して、一緒に手を叩いて声援を送り続けている。
「これからは、後輩じゃなくてライバルね」
頼もしそうに獅子神が笑ったところで、ジャイナバが「オー!」と楽しそうに叫んだ。
「キョク、変わったよ! これ〝セカイセン〟ね! 私も好きだよー!」
社会現象にもなった有名アニメ映画の主題歌、『世界線の君へ』。
出場が決まったときから翔子は、ラストをこの曲にしようと決めていた。BPMは少し早めの一四五。エアロ慣れしている人ならじゅうぶんついてこられるし、やはり誰もが知っている曲なので、気持ちよく踊ってくれるはずだ。
「ラストでーす! 『世界線の君へ』で最後まで楽しく出し切りましょう! ポニーステップから、ヒア・ウィー・ゴー!」
汗の玉を光らせた満面の笑顔が、軽やかなステップを、軽やかなリードの声とともにくり出していく。
♪ずっとずっと 見ていたよ♪ ――左のポニーステップからグレープバイン――
♪けどその手をつかむ 勇気がまだ出ないんだ♪――前後のマーチにヒール&トゥタッチ――
♪まだなの? と むくれた声♪ ――右のポニーステップ&グレープバイン――
♪ごめんよ でもこの時間も愛しいんだ♪ ――ふたたびの前後マーチ&タッチからピボット・ターン――
「可愛い!」
「翔子先生、ワカバちゃんみたい!」
「ありがとう! 『私も東京のイケメン男子になりたーい!』」
映画のなかの台詞で返すと、会場中がどっと湧く。
楽しい。私、お客さんと一緒になれてる。一緒の呼吸で、一緒のステップで、一緒の笑顔で踊ってる。
♪気持ちが僕にいたずらさせるんだ♪ ――左右のタッチから、ボックスステップと手振り――
「皆さんはいたずらしないで、しっかりとニーアップ!」
♪その肩 その髪 その温かい笑顔が♪ ――連続ニーアップ、ロンデ&キャリオカ――
♪その腕 その脚 その懐かしい背中が♪ ――同じ動きを逆で――
「はい、グラン・バットマン!」
まさに「その脚」とばかりに、空間を切り払う左脚。フロアと客席からの「おお!」という歓声。
でも、まだまだ。もっともっと楽しいよ! もっともっと踊ろうよ!
「シャッセで移動! キック、アンド、ピルエット!」
♪向こう側の身体と こちら側の心を シンクロさせて ふるわせて♪ ――シャッセからキック&ボールチェンジ、さらにピルエット――
見事な三回転の直後、翔子はぐっと身体を沈めた。
ここだ!
♪世界線の果ての君を♪
「カブリオール!!」
♪弾むこの足で追うよ!♪ ――カブリオール――
歌詞にシンクロするように、空中の足が二度、乾いた音を響かせる。
「うわあ!」
「凄い!」
「かっこいい!」
何人もの参加者が、思わず動きを止めてしまったほどだった。高く、美しく、華やかなカブリオール・ダブル。
「反対側もありますよー!」
♪愉快犯のようないたずら♪ ――ホップを入れてから逆脚のグラン・バットマン――
「もちろんシングルでもOK!」
♪高い授業料だったけど♪ ――シャッセで移動――
大声援に手を振り返しながら、翔子は歌に乗って再度大きくシャッセした。
右側に。
わかっている。でも。
ここはチャレンジしたい。こんなに笑って、こんなに盛り上がって私のエアロを楽しんでくれている人たちと、もっともっと一緒になりたい。
よしっ!
幸いシャッセの着地は滑らなかった。たまたまワックスのない場所を踏めたのか、それとも好調な心と身体が、ここでも的確なランディング・スキルを取ってくれたのか。
いける。やろう。そのために練習してきたんだ。そのためにあの人は、健君はトレーニングを教えてくれたんだ。地味できついエクササイズも、いつもずっとそばで見てくれながら。龍子先生と同じ言葉をかけてくれながら。
♪それでも、きっと♪ ――ボールチェンジ&トリプル・ピルエット――
回転し終わったタイミングで視線が交錯する。二十メートル以上向こうから、彼の目がはっきりと語りかけてくる。
「勝負の神は細部に宿る、だね」
健君!
翔子は、翔んだ。ステージにふたたび二つの音。わっというさらなる歓声。
やった! と思った刹那。
あれ?
急に、すべてがスローモーションになっていった。
あれ? 私、何やってるの?
目にはなぜか天井が映って、しかも少しずつ遠ざかっている。左足がなんだか熱い。「天野さん!」という、如月先生の悲鳴も聞こえるような……。
なんで? 今『IOI』のステージで、お客さんたちと一緒に楽しくエアロしてたよね? あ、足からなんか出てる。ああ、テーピングか。またちょっと剥がれてきちゃったんだ。せっかく健君が巻き直してくれたのに、ごめんね。
思考までもがコマ送りのように流れていくなか、視界の端で青色が揺れ続ける。めくれたテーピングが捻れて、裏側をこちらに向けている。
瞬間。
「あっ!」「翔子さん!」
自分の上げた声と世界一信頼するトレーナーの声とが重なって、翔子は現実世界に戻ってくることができた。
「翔子さん!」
もう一度聞こえた声に、身体が自然に反応する。着地を滑らせて頭から倒れそうになっていた体勢が猫のようにひるがえり、そして――。
「おおーっ!」
すべての人々が目を見開く先で、翔子は腕立て伏せのような体勢で我が身を受けとめた。しかもそれが本来の振付であるかのように、反動を利用して起き上がる動作まで行いながら。
ドロップ・プッシュアップ。いつか健が教えてくれた、体幹の強さを応用した上半身のランディング・スキル。
一緒にこつこつと取り組んできたトレーニングが、基本的なことや地味なエクササイズこそおろそかにしない努力が、土壇場で翔子を救ってくれた。本当に彼が支えてくれたみたいだと想い、ますます顔がほころんでくる。
「ごめんなさい! 大丈夫でーす!」
カブリオール以上の大歓声と、割れんばかりの拍手、拍手、拍手。
「天野先生!」
「ナイスリカバリー!」
「翔子ちゃん!」
「ショーコ! トレ・ビアン!」
「翔子先生!」
「翔子先輩! やばい! 超かっこいい!」
仲間たちの声。そのなかにいる同い年のトレーナー。
優しい瞳を真っ直ぐ見つめて、翔子は最後のステップも鮮やかに決めてみせた。とびきりの笑顔で。はっきりと歌詞を口にして。
「♪手を握りにいくよ!!♪」
ホール全体が、揺れた。
「かっこいい!」
「素敵!」
「翔子先生!」
「うちのクラブにもきて!」
客席全体がスタンディング・オベーションしている。フロアから、会場の外から、「翔子先生!」の声が次から次へと浴びせられる。知らない人が見たら、完全にアイドルのコンサートか何かと勘違いすることだろう。
「ありがとうございました! すっっっごく楽しかったです!」
溢れ出る充実感と、何よりすべての客たちへの感謝の気持ち。笑顔が止まらない。左足が少し熱い気もするが、むしろポジティブなエネルギーのようにすら感じられる。
何度も飛び跳ねながら両手を振って、翔子はステージをあとにした。
《Do the little thing ! 見ているよ、翔子さん!》
めくれた部分にそう記されていた、青いテーピングとともに。




