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エアロ!  作者: 迎ラミン
第四章 サバイバル
13/20

サバイバル 1

 気象庁の発表でも正式に梅雨が明けた、七月の第二日曜日。東京、(あり)(あけ)の空は朝九時の時点で、すでに勢いよく陽光が降り注いでいる。

 JRの最寄り駅を出て右に進むとすぐ、四つのピラミッドを逆さまにしたような特徴的な建物が見えてくる。会議棟になっているそれも含めた周辺施設すべてが、二十五万平方メートルもの敷地を誇る、国内最大の展示場『東京グランドサイト』だ。

 グランドサイトの大ホールにある特設ステージで、今日の十時半からいよいよ『第二十回 IOI』が開催される。毎年この時期、トレーニングマシンやサプリメントを中心としたフィットネス業界の大展示会が開催されるのだが、『IOI』は会期の最終日を飾る目玉イベントとなっているのだった。


「うわあ、暑そう」

「もちろんなかは空調が効いてるけど、動くとマジで暑いわよ。一次が終わった時点で熱中症になっちゃう子もいるくらいだから、水分とエネルギーの補給は絶対に忘れちゃ駄目。健ちゃん、そのへんのサポートも頼むわね」

「はい。翔子先生は、会場入りしたら念のためにテーピングを巻き直させてください。万全な状態でいきましょう」

「うん、ありがとう」


 出場者である翔子とみく、そしてトレーナーとしてつき添う健とともに、なぜか獅子神も「保護者よ」と言って同行し、四人は会場へと向かっていた。




「じゃあ翔子先生、足を」


 先ほどの言葉通り、大ホール入り口のベンチに到着したところで、健はてきぱきとトレーナーバッグを開け始めた。


「はい。お願いします」


 翔子も意識的に敬語を使う。ここからは完全に出場選手とトレーナーだ。浮ついた気持ちなんて出していられない。

 直接テーピングしてもらうのは怪我をした翌日、ジャイナバのサロンで以来だったが、健はもう何度もそうしているような感じで、翔子の左足を優しく手に取った。二十四センチの小さな足を、まるで精密機械でも扱うように慎重に動かして状態を確認してくれる。


「この動きで痛みは出ますか?」  

「ううん、大丈夫です」

「こっちは?」

「あ、それは痛くないけどちょっと不安……かな」


 翔子も彼を心から信頼しているので、ちょっとした気がかりも素直に伝えることができる。


「なんか、恋人どころか夫婦みたい」

「ほら、みくちゃん。邪魔したら馬に蹴られるわよ」


 一足先に場内へ入っていくみくと獅子神の声も、なんだか遠くに聞こえるほど、二人は集中できていた。


「OKです。じゃあ立って、いろいろ動いて確認してください」

「はい!」


 テーピングを終えて過去二回と同じようにそっと手を取られたが、翔子はもうドキドキしなかった。もちろん何も感じないわけじゃない。けれども健の手に触れることで、心拍数は上がるどころか逆にますます落ち着いていく。

 この人に任せておけば大丈夫。この人が、私にとって一番のトレーナーさん。

 自然と笑みがこぼれるまま、様々なステップを踏んでみせる。パ・ド・ブレ、ピボットターン、グレープバイン、シャッセ、ピルエット、ランニングマン、サンバステップ……。

 いける。まったく問題ない。むしろ身体が軽い。まるで足に見えないバネがついているみたいだ。左足を、全身を、健が支えてくれているようにも感じる。

 そして。


「やっ!」


 カブリオール・ダブル。

 パパン! という乾いた二重音とともに、翔子は左足一本でふわりと着地した。軽やかなその動きは、単なる足慣らしにもかかわらず、同じく会場入りし始めたライバルたちが振り返るほどだった。「あの子、誰?」「去年の入賞者とか?」などと言いながら視線を送ってくる人もいる。


「健君、ありがとう! 凄く調子いいよ!」

「こちらこそありがとう。楽なトレーニングじゃなかったのに、しっかりついてきてくれて。頑張っただけあって身体もキレてるね」


 揃って敬語が消えてしまったが、それほどまでに翔子のコンディションはいい状態だった。早く本番が始まって欲しいとさえ思う。

 しかし。


「へえ。本当に出るんだ」


 笑顔を向け合ったタイミングで、こちらを馬鹿にするような声がした。

 昭和のアイドルじみたセンター分けの茶髪と、細マッチョ体型にフィットしたTシャツ。 斉藤が、余裕綽々の表情で歩み寄ってくる。


「しかも彼氏つき? 女の子はいいねえ。ちょっと股を開けばトレーナーも簡単に――」


 もはや隠そうともしない失礼な言葉を遮ったのは、いつもとは違う健の声だった。


「おい、おっさん。大概にしとけよ」

「何?」

「大概にしろって言ったんだ。くだらないドーピングサプリを自分でも飲んで、耳まで悪くなったのか?」

「健君!?」


 意外そうな顔をしている斉藤以上に、翔子が驚いてしまった。乱暴な言葉遣いとむき出しの敵意。まさか健も元ヤンだったりするのだろうか。


「……今、俺のことをおっさんとか言ったか?」


 さすがに目をすがめる斉藤に対し、翔子を守るようにして彼が前に出る。


「ああ、そうだ。なんならもうちょっと詳しく言ってやろうか。斉藤京四郎。自分同様に頭の弱いモデルやタレントにはそれなりに人気らしいけど、事務所の目を盗んで彼女たちに片っ端から手を出してる、まがい物のイントラだって」


 ふんと鼻で笑ってみせながら、健は痛烈な言葉を続けた。


「そうそう、自称二十九歳だけど戸籍上ではなぜか一九八三年生まれになってるんだってな。しかも本名は斉藤波動(おーら)。波動と書いて『おーら』って……手足からなんか出るのかよ。()(きゅ)()ネームのお手本みたいな名前だな」

「なっ!?」

「今回は何歳で、どんな名前でエントリーしてるんだ? おっさんイントラはいいなあ。ちょっと書類を開けば、歳も名前も簡単に変えることができて」

「このガキ……!」


 完全にやり返された斉藤は、当初の余裕をかなぐり捨てて、殺意すら感じさせる視線になっている。

 だが、健はちっともひるまない。


「トレーナーの世界が狭いことぐらい、頭の軽いおっさんでも知ってるだろ。学生の俺だって、いや、学生だからこそ業界の先輩たちがいろんな情報を教えてくれるんだよ。まあでも、安心していいよ。お前が本当は四十過ぎてようが、オーラだろうがコロナだろうが、大会本部に告げ口するつもりもない。けど――」


 一息ついたその瞳が燃えるような光を放った。もともと目力のある彼だが、本当にビームか何かが出て斉藤を射抜きそうなほどだ。


「翔子先生を、真面目に頑張ってるイントラさんやトレーナーを馬鹿にするな。汚い手を使うのも大概にしろ。少なくとも今日お前が負けたら、二度とそんな真似はさせない。そんな口も聞かせない。他の誰が許しても俺は絶対に許さない。わかったか、おっさん」

「言うじゃねえか、ガキが」

「ガキで悪かったな、オーラおじさん」


 二人の間ではっきりと、眼に見えない火花が散っている。


 健君、なんか怖い……。


 翔子が思ったところで、先に斉藤が表情を崩した。不敵な笑みは、なんとか得意のホストキャラを取り戻した証だろうか。


「ふん、どうもメイク・フィットの坊ちゃん嬢ちゃんは、生意気なのが多くていけないな。名誉毀損もいいところだけど本番前だし大目に見てやろう。かわりに一つ、君とも勝負をしようじゃないか」

「何?」


 訝る健の返事とともに、斉藤の目がこちらに向けられる。全身を撫で回すような不快極まりない視線。しかし拳を握りしめた翔子は、堂々とそれを跳ね返した。大丈夫。今は健君がそばにいる。守ってくれている。


「おーおー、二人そろって気が強いねえ。で、(あか)(ふく)君だったっけ?」

「赤星だ」

「ああ、失礼。(あか)(おに)タケシ君。そこにいる自慢の彼女が俺に負けたら、さ」


 明らかにわざと間違えながら斉藤が口にしたのは、さらに不快な台詞だった。


「君、俺に土下座してよ。表彰式のステージで」

「はあ!?」


 翔子は思わず声を上げた。彼は関係ないではないか。


「健君、そんなくだらない勝負、受けなくても――」


 いいからね! と続けようとした瞬間。


「いいだろう。けどやるからには、お前の方も負けたら同じことをしてもらう。もちろん俺に対してじゃない。翔子先生に対してだ」


 なんと健はあっさりと、負けないくらいふてぶてしい態度で答えてしまった。


「え?」


 目を丸くする翔子と、「いいねえ」と満足げに頷く斉藤。


「赤ベコ君は、よっぽど自分の彼女を信用してるんだな。オーケーオーケー、なんならジャンピング土下座でもなんでもしてやるさ。ま、万に一つも俺が負けることなんてありえないけど。数時間後、君の土下座が原因で別れ話にならないよう祈ってるよ」


 下卑た笑みとともに、もう一度翔子のことも一瞥した斉藤は「じゃ、本番を楽しみにしてるよ。赤ナントカ君」と捨て台詞を残して悠々と去っていった。


「健君!」


 すぐに声をかけた翔子だったが、じつは少し緊張もしていた。怒った健は何度か見たことがあるけど、ここまで感情をあらわにした姿は初めてだ。それに、何から話せばいいものか……。

 だが幸い、こちらを振り返った健は穏やかな表情に戻っていた。


「すみません、翔子先生。驚かせちゃって」

「ううん、私は大丈夫。けど、あの、まさか健君まで元ヤンとかじゃないよね?」

「はは、まさか。でも無意識のうちに、神さんの真似するくせがついちゃってるみたいですね。さっきみたいな受け答えは、さすがに直接教わったことはありませんけど。なんにせよ売り言葉に買い言葉でやっちゃいました。びっくりさせて本当にすみません」


 優しげな声もいつも通りで、ホッとする。すると彼の表情が、急に恥ずかしそうなものになった


「それよりも、翔子先生」

「何?」

「もう一つ、すみません」

「ああ、ううん。気にしないで」


 翔子は微笑んで首を振ってみせた。


「私も斉藤にだけは勝つつもりで練習してきたし、頑張るから!」


 口に出したことで決意が新たになる。いずれにせよ斉藤などに負けるわけにはいかない。メイク・フィットの看板を背負っているからというだけじゃない。キャリアも実力もまだまだ足りないけれど、健が言うように少なくとも真面目に頑張るイントラの一人として、斉藤みたいな奴にだけは負けたくない。月並みな台詞かもしれないが、自分と、自分の大切な人たちのなかでくらいは「正義は勝つ」と信じたいし、結果として示したい。

 それに――。


 また、守ってもらっちゃったから。


 いつもそうだ。翔子に何かあると、何かされそうになると、健はこうして前に立ちはだかってくれる。

 Tシャツの胸元を覗かれそうになったとき。駐車場で汚い言葉を投げつけられたとき。足を痛めてしまったとき。

 いつも彼は素早く駆けつけて、自分を守ってくれる。助けてくれる。元気づけてくれる。

 この人にいいところを見せたい。大好きなこの人に、大好きなエアロを楽しく踊っているところを、参加者と一緒にとびきりの笑顔でパフォーマンスする姿を見て欲しい。

 心からの想いとともに、翔子は笑みを深くした。

 けれども健の方は、なぜか恥ずかしそうなままでいる。ばつが悪そうに視線を逸らしながら、ようやく彼は理由を口にした。


「もちろん斉藤との勝負を勝手に受けちゃったこともですけど、謝りたいのはむしろ別の話で……」

「え?」


 小首を傾げる翔子の視線を、だが健はなかなか捉えてくれない。


「勝負に関しては正直、あんまり心配してません。翔子さんが負けるわけないって信じてるから。そこじゃなくて、ですね」

「はあ」

「だから、ええっと、さっき斉藤が」

「斉藤が?」

「じ……」

「じ?」

「自慢の、その」

「自慢の? ……あっ!」


 翔子もやっと理解した。


「か、彼女なんて言い出したのに、否定しなくてすみませんでした! 俺、斉藤と喧嘩するのに夢中になっちゃってて、それで……」

「だだだ、大丈夫! 私こそ全然、全然大丈夫! 健君こそ嫌だったらごめんなさい!」

「すみません!」

「ごめんなさい!」


 同時に頭を下げた二人だが、逆にそれがおかしくてやはり同時に笑ってしまった。あたふたしていた気持ちが揃って落ち着いていく。


「はは、なんか変ですね。俺たち」

「うん。まあ、おたがい様ってことで」


 頷き合ったところで、ベンチ上に置きっぱなしだったトレーナーバッグを健が手に取った。


「もう出場者受付は始まってるかな。翔子先生、水分やエネルギーの補給も大丈夫ですよね」


 口調も表情もきりっとしたものに戻っているので、翔子も「あ、はい」と慌てて口調を直す。


「ドリンクもゼリーも、ちゃんと持ちました」

「ここからは一緒に行けませんけど、開会式が始まる十時半には坪根チーフたちと合流して、僕も客席にいると思います。一次審査が終わったあとの休憩時間にはまた会えるから、テーピングの巻き直しとかが必要ならすぐ言ってください」

「はい」


 翔子とみくの出場が決まった時点でメイク・フィットは、スタッフはもちろん会員たちも応援に来られるようにと、なんとこの日を臨時休館日にしてしまったのである。

 さゆりいわく「あちこちに店舗があるような大手だと簡単じゃないでしょうけど、うちはローカルクラブだから。ていうか、そもそも会員さんたちからのご提案なのよ。だから気にしないで」とのことだが、話を聞いた二人は感激するしかなかった。

 バッグを肩にかけた健が、もう一度力強く頷きかけてくる。


「じゃあ、頑張って」

「はい。頑張ります!」


 そうして、いよいよ別れようとする間際。


「あの!」


 翔子は彼を呼び止めた。ちょっぴり勇気を出して、目力の強い、でも本当は優しい瞳を真っ直ぐに見つめる。


「健君」

「はい?」

「えっと……上手く言えないけど、いろいろ本当にありがとう。私、頑張って踊ってきます。頑張って楽しいエアロしてきます。参加してくれる人も見てる人も、お客さんみんなが笑顔になるような、なんて言うか自分らしいレッスンしてきます。だから最後まで応援してください」


 自分の大きな瞳にも、精一杯の想いと力を込める。


「私を、私のこと、見ててください!」

「もちろん」と彼はすぐに答えてくれた。

「翔子さんは本当に、エアロが好きなんですね」

「うん!」

「うらやましい、かな」

「え?」


 あなただって、トレーナーの仕事が大好きでしょう? 


 素朴な疑問が顔に出ていたらしい。おかしそうに健が笑う。


「ああ、そっか。そう思われちゃうのか」

「はい?」


 ますますきょとんとする翔子だったが、「俺もそろそろ客席に向かいます」という健の言葉ですぐに気持ちを切り替えた。周囲には同じく受付に向かうのであろう、ライバルたちの姿が増えてきている。皆、緊張感と高揚感を併せ持ったいい表情だ。


「しっかり見てるから、まずは一次、頑張って」

「はい! 行ってきます!」


 翔子先生ではなく「翔子さん」と呼ばれたことに気づいたのは、彼と離れ、足首に巻かれた青いテープを見つめ直したときだった。

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