トレーナー 4
「なるほど。たしかにⅠ度の捻挫っぽいですね。赤星」
「はい」
「如月先生ならさらに細かく説明してくれたと思うが、なんと仰っていた?」
「おそらく損傷しているのは、前距腓靭帯だけだろうとのことです。周辺組織の二次損傷の心配もないそうです」
「それはよかった。さすが先生だ」
「テーピング等の現場対応は、我々に任せるとのことでした」
「了解だ。けど、我々といっても先生のご指名は赤星だろう?」
「はい。たまたま電話に出たのが、僕だったからだとは思いますが」
自分の左足について交わされる堅苦しい会話を、ベッドに腰掛けた翔子はぼけっと聞いていた。いつもながらの自衛隊みたいなやり取り。ここがジャイナバのサロンではなく、野戦病院のテントか何かでも違和感はない気がする。
「翔子先生」
「は、はい!」
その自衛隊風トレーナーの片割れに呼ばれて、翔子はすぐ反応した。
「左足、触ってもかまいませんか?」
「あ、はい。大丈夫……です」
あくまでも捻挫の状態を確認するためだし、見られているのは足だけだが、健に素肌をさらしていると思うとそれだけでドキドキしてしまう。申し訳ないが、隣で様子を見守る神に見られてもなんとも思わないのに。
「あら翔子ちゃん、顔、真っ赤よ?」
「ほんとだ。翔子先輩、耳まで赤いですよ?」
「ウイウイ。ショーコは足がビンカンなの?」
「でもたしかに、昔の中国では素足をさらすのは裸を見られるのと同様に、恥ずかしい行為だったとも言うわね」
「ちょ……みんな何言ってるんですか! 坪根チーフまで、やめてください!」
今は午後のアイドリングタイム、すなわち客が少ない時間帯だ。それもあってか、健に連れられた翔子が「ご心配をおかけしてすみません」と顔を出すと、いつかのようにジャイナバのサロンに幹部三人組が、さらには「翔子先輩、怪我したんですか!?」とみくまでもが集まってきてしまった。
名目上は「天野先生の足を確認して『IOI』の対策をあらためて練るため」とのことだが、堅物なはずの神も含めて、皆が自分をいじって楽しんでいるように思えてならない。
そんな周囲の空気などは気にしない様子で、健がふたたび顔を覗き込んでくる。
「レッスンや『IOI』本番でなんとか動けるよう、これからテーピングを巻いてみます。痛かったりきつかったりしたら遠慮なく言ってください」
「はい。ふ、ふつつか者ですが、よろしくお願いしますです」
「え?」
心拍数が上がったままの翔子は、またしてもおかしな日本語を口走ってしまった。獅子神とジャイナバが楽しそうな、みくはきょとんとした、さゆりと神は苦笑気味の表情をそれぞれに浮かべている。
「翔子ちゃん、健ちゃんと結婚する気?」
「ショーコ、それはオヨメサンの言葉だね! 私、初めて聞いたよ!」
「翔子先輩、やっぱり熱があるんですか?」
「まあ、天野先生ったら」
「赤星。天野先生がこれ以上失言されないよう、ひと思いに終わらせて差し上げろ」
それって、とどめを差すみたいじゃないですか! と最後の神に思わずつっこみそうになった瞬間、ベッドからぶら下げていた左足が持ち上げられた。
「じゃあ失礼します」
「あ……」
壊れ物でも扱うように、そっと健が触れてくれている。踵を包む掌の感触が温かい。
「痛くないですか?」
「大丈夫。ありがとう」
優しく運ばれた左足は、膝を伸ばした形で丁寧に降ろされた。ちょうど足首から先だけが、ベッドの外に浮いている状態になる。
「これからテーピングしていきます。説明しながら巻くので、自分でもできるだけ覚えるようにしてください」
「う、うん。わかりました」
足、臭くないかしら。こんなことならペディキュアの一つもしておくんだったな。ふくらはぎが太いのもバレちゃうし。ああ、もう、恥ずかしい。
神が持ち込んだトレーナーバッグからテープを取り出す姿を見ながら、翔子はまったく関係ない心配をしていた。だが真面目な健は、そんな表情を勘違いしてくれたらしい。
「痛みますか?」
「ううん、違うの! ごめん!」
目ざとい獅子神だけは、翔子の本心に気づいたのかこっそり笑っている。
「まずはこの『アンダーラップ』から巻いていきますね」
微笑んだ健は、最初に薄いスポンジのようなテープを翔子の足首に巻きつけていった。
「アンダーラップはテープによるかぶれを防いだり、剥がすときに体毛が抜けないようにして皮膚を保護するためのものです」
「へえ」
説明しながら、あえてゆっくりやってくれているとわかるスピードで、健の手が動き続ける。一つ一つの言葉に頷きながら、翔子も言われた通り必死に覚えるようにした。
アンダーラップを巻いたあとが、お馴染みの白いテーピングだった。こちらも健はゆっくりとわかりやすく、けれども正確な手つきで翔子の足に巻いていく。
「よし……っと。これで完成です。きつくないですか?」
「うん、全然大丈夫。ありがとう!」
この時点ですでに、左足首がしっかりと固定されているのがわかる。
健君が支えてくれてるみたい。
などと翔子がまた勝手に心拍数を上げていると、カフェのときと同じく目の前に右手が差し出された。
「じゃあ、気をつけてゆっくり立ってみてください」
彼の方はあくまでも冷静なままだ。
他の女子選手にも、こんな風にしてるのかな……。
ちらりとうらめしそうな視線を向けたところで、背後から自分以上にわかりやすい声が聞こえてきた。
「あーっ! 翔子先輩、ずるいです!」
「え?」
「そうやって、さり気なく手ぇ繋ごうとして! 全国の赤星さんファンから刺されますよ! ずるい! 私も捻挫したいです!」
みくの意味不明な抗議は無視することにした。ほんの一時間前にも、それもクラブ外で手を繋いだなどと知られたら、この程度のブーイングでは済まない気がする。
若干優越感にひたりながら彼の手を取って立ち上がった翔子は、すぐに「わあ!」と顔を輝かせることになった。
「痛くない!」
健のテーピングは完璧だった。きつすぎず、ゆるすぎず、それでいて左足をしっかり固定してくれていて、さっきまで不安だった体重をかける動作も難なくこなすことができる。痛みもないし、今すぐステップまで踏みたくなるほどだ。
「凄い! 健君、ありがとう!」
「いえ」
自身も嬉しそうに様子を見ていた健だが、なぜか頬のあたりが少し赤くなっている。
「あらあら、名前で呼び合っちゃって。すっかり二人は仲良しさんね」
「じつは二人、つき合ってるとかですか!? ますますずるいです!」
「トレ・ビアン! プティ・タミになったのね! フェリシタシオン!」
この手の話題が大好きな三人、獅子神、みく、ジャイナバがここぞとばかりに盛り上がるが、神までも、
「なんだ、そうだったのか? 赤星も言ってくれればいいのに。うちは社内恋愛禁止じゃないから、節度を守って交際するなら全然OKだぞ」
などと言い出したものだから、始末が悪い。直後にさゆりだけは視線を泳がせたが、当の翔子たちはそれどころではなかった。
「ち、違います! 何言ってるんですか!」
「でも、名前で呼び合ってるのはたしかでしょう?」
にやにやと指摘する獅子神に、「今のは私がつい勝手に――」と言い訳しようとした翔子だったが、被せるようにして健が答えてしまった。
「まあ、そうですけど」
「え?」
思わず彼の顔を見つめた。そうなの? そうだっけ? だって私、いつもは「赤星君」て呼んでる……よね? あれ?
視線に気づいた健が、頬の赤みを残しながらも目だけで笑いかけてくる。よくわからないが、つまりは本人も公認ということらしい。よかった。
「そんなことより神さん、一応テーピングのチェックをお願いします。翔子先生、すみませんがもう一度座ってくれますか?」
「あ、はい」
気を取り直した様子の彼が言うままに、翔子はもう一度ベッドに腰掛けた。完璧なテーピングだとは思うが、学生トレーナーということもあってか、健は上司に最終チェックをして欲しいようだ。すかさず神が近寄ってくる。
「では天野先生、赤星のテーピングが問題ないか、私にもチェックさせてください」
「はい。お願いします」
テーピングを一通りチェックした神は、「うん、まったく問題ありません。そもそも天野先生ご自身も、そう仰ってくれましたし。ですよね?」と確認してきた。
「はい! 完璧です! 痛みも出ないし、すっごく安心できます!」
まるで自分が褒められたかのように答える翔子の背後では、「愛のテーピングね」「やっぱり怪しいです」「二人にはシアワセになってほしいね」などと、またしても獅子神、みく、ジャイナバのトリオが囁き合っている。
「それは何よりです」と頷いたところで、だが神は表情を引き締めた。
「赤星」
「はい」
「天野先生に、本番用の衣装は確認したか?」
「は?」
唐突な質問に、翔子の方が間抜けな声を出してしまった。本番用の衣装?
一応、一次予選ではお気に入りのピンクのTシャツ、二次、三次ではさゆりが支給してくれた、メイク・フィットのロゴが入った鮮やかな水色Tシャツを着るつもりではいる。パンツはエアロのイントラらしく、それらに合わせたブルーの七分丈フィットネスパンツを――。
「あっ!」「そうか!」
翔子と健の目が、同時に見開かれる。
「ええ。このままでも機能的な問題はありませんが、足首の部分が白い衣装でない限り、ちょっと痛々しく見えてしまうかもしれません。ハーフパンツや七分丈をご着用されるのでしたらなおさらです。コンテストですから、可能であればそのあたりも気を配った方がいいかと」
「なるほど、たしかに」
相棒の的確な指摘に、さゆりも大きく頷いている。
「もちろん、赤星のテーピングそのものはパーフェクトです。ですから本番では、衣装に合わせたカラーテープで同じようにするといいでしょう」
「わかりました! ありがとうございます!」
「すみません、翔子先生。そこまで気が回らなくて」
「ううん、全然! ほんとに気にしないで! 本人の私が忘れてたくらいだもん」
申し訳なさそうに健が謝るので、翔子は慌てて両手を振ってみせた。実際、テーピング自体はなんの問題もない。
「でもさすがは神さんね。そんなところにまで気がつくなんて」
「あら、さゆり。なんだか嬉しそうね」
「え? べ、別にそんなことは」
「さゆりと神さんも、プティ・タミなの?」
「ジャイナバまで変なこと言わないの!」
突然いじられて動揺するさゆりに対し、神はと言えばいつもの執事めいた微笑を保ったままだ。さすがにこの人だけは、何を考えているのか読みづらい。
それでも、と翔子は思った。
やっぱりお似合いだなあ。
見ると健も同じような表情をしている。どうやら彼も、チーフの秘めた想いについては察しているようだ。
だよね。
にっこり頷き合ったタイミングで、「ほら、やっぱり怪しいです!」「こっちはほんとにプティ・タミにしか見えないね」という声がまた背後から聞こえてきた。




