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エアロ!  作者: 迎ラミン
第三章 トレーナー
11/20

トレーナー 3

《ごめん。今日は学校の方でトレーナー実習があるから、メイク・フィットには寄れないんだ》

《ううん、大丈夫。実習、頑張ってね》

《ありがとう。何か気になることがあったら、いつでもキズナして》

《うん! いつも本当にありがとう。赤星君のおかげでダブルの成功率も上がってきたし》

《翔子先生の努力の結果だよ。本番も近いし、怪我だけはしないよう気をつけて》

《わかった。また明日、だよね?》

《そうだね。明日は仕事が終わったら、できるだけ早くスタジオに行くようにするから》

《ううん、無理しないで》

《無理はしてないよ! 俺も勉強になるし》

《そう言ってくれると嬉しい。じゃあ、また明日》

《うん。また》


 たがいに間をあけず返信しているやり取りを、翔子は微笑みながら見返した。

 スマートフォンに表示されているのは、無料でチャットや通話ができる定番アプリ『キズナ』の画面である。相手のIDは名前そのままの《Takeru_A》。

 あの夜以来、健は時間が合う限り、快くパーソナルトレーニングを指導してくれるようになった。相変わらずスイッチが入らない限りは中途半端な敬語のままだが、ごく自然にIDを交換したキズナのなかでは、リクエスト通り同い年の友人のような言葉で接してくれる。


「リアルでも、こうなってくれたらいいのに」


 唇をとがらせつつも、翔子の顔はほころんだままだ。

『IOI』本番まであと一週間。この日も翔子は、営業終了後のメイク・フィットのスタジオで練習させてもらっていた。

 健のトレーニング指導のおかげで、カブリオール・ダブルも三回に二回は成功するようになってきたし、他のステップや振りも安定感やキレが増してきているのが、自分でも実感できる。


「やっぱり、トレーナーさんって凄いんだ」


 自身が担当するピラティスクラスで、初めて彼の動きを見たときと同じ感想を翔子はつぶやいた。合わせて最悪の第一印象も思い出し、ふたたび笑ってしまう。

 クールで無愛想で、でも黙っていれば格好いいトレーナーさん。学生だけどこの仕事に誇りを持っていて、トレーニング指導が大好きで、クラブや会員をとても大切にする同い年の男性


()()なら、お姫様抱っこも余裕でできちゃうんだろうな」


 いつかはそう呼んでみたいとひそかに想い始めた言葉とともに、関係ないことまで口走ってしまった。

 思わず周囲を見回すと、鏡のなかの自分が耳まで赤くなっていた。




 好事魔多し、とはよく言ったものである。

 健とのチャットを見直して、ますますモチベーションを上げた翔子だったが、この日最後と決めたカブリオール・ダブルでそれは起こった。


「あっ!」


 普段の翔子は、一度目のカブリオールは小さめにして、すぐさま二度目へと移れるようにしている。けれども今は調子のよさに浮かれていたからか、つい一度目から大きく足を開いてしまった。

 二度目のカブリオールが若干遅れる。ほんの数センチ、わずか一秒にも満たないタイミングのずれ。だがそれによって、健直伝のランディング・スキルを発揮するには、時間と空間がいつもより足りなくなった。


「痛っ!」 


 嫌な感触の着地とともに、左足が内側に捻れる。


 やっちゃった……。 


 激痛とともになぜか、謝罪の言葉が浮かんだ。


 ……ごめんね。


 いつも夜中までトレーニングにつき合ってくれたのに。キズナでも沢山アドバイスをくれて、怪我に気をつけるよう言ってくれたばかりなのに。「翔子先生」って名前で呼んでくれるようになったのに。笑ってくれるようになったのに。

 せっかく仲良くなれて、毎日彼のことを考えるようになったのに。

 せっかく――好きになったのに。


「ごめん、健君」


 左足を抱えたまま、翔子はしばらくスタジオにうずくまっていた。

 痛い。悔しい。悲しい。そしてそれ以上に、申し訳ないという気持ちが大きな瞳からあふれてくる。

 すると見ていたかのようなタイミングで、スマートフォンが震える音が聞こえてきた。

 左足を引きずりながら確認した画面では、キズナが新着メッセージを表示している。


《そろそろ今日の練習は終わり? お疲れ様。引き続きコンディションに気をつけてゆっくり休んでください。明日、また会えるのを楽しみにしてます》


 ぽたりとスクリーンに雫が落ちる。

 返信することが、できなかった。




 翌日はレッスンのないオフ日だったのが、不幸中の幸いだった。

 なんとか気を取り直した翔子は、一晩中冷やした足首を、隣町にある大きな病院ですぐ診てもらうことにした。


「あらら、やっちゃったわね。こうすると痛いでしょ。あと、この動きもじゃない?」

「いたたたた! せ、先生、ちょっと!」

「ごめんごめん。うん、(そく)関節の靭帯損傷、つまり足首の捻挫ね」


 軽く笑った目の前の女医が、予想通りの診断を下す。


「日常生活はできるみたいだし、Ⅰ度ってとこかな。一応骨も診ておくわね。隣のレントゲン室へどうぞ」

「はい。ありがとうございます」


 頷いた翔子は、タブレット型の電子カルテを操作し始めた女医の横顔を、こっそり見つめ直した。小柄なうえ、茶髪をみくと同様のツインテールにまとめたこの女医は、下手をすれば女子高生と言っても通用しそうなルックスをしているのだった。

 ともあれ腕はたしかなようなので、指示に従いレントゲン室へと向かう。

 無事に撮影を終えて診察室に戻ると、卓上に置かれた電子カルテのスクリーンに、早くも自身のものらしい画像が大写しになっていた。ただし女子高生っぽいドクターは、そちらを説明するより先に、またもや翔子に笑いかけてきた。

 これまた特徴的な大きな眼鏡の向こう側で、瞳に好奇心が宿っているのがわかる。


「天野さん、失礼だけどダンサーさんか何か? それともエアロのイントラさんとかかしら」

「あ、はい。イントラです。わかるんですか?」

「ふふ、これでもスポーツドクターよ。足を痛めてるとはいえ、それだけ綺麗な姿勢で歩けるんだもの。人に見られる商売をやってるっていうのは、すぐにわかったわ」

「はあ」

「それにレッスン以外にも、しっかりトレーニングしてるみたいね。体幹も強そうだし」


 そんなことまで?


 まるで医師には見えないルックスを、翔子はさっき以上にまじまじと見つめてしまった。白衣の胸にあるネームプレートには、《スポーツ整形外科:如月(きさらぎ)(まこと)》と書いてある。


「ああ、ごめんね。座って座って」


 うながされるまま椅子に腰かけたところで、如月という女医はようやく電子カルテをこちらに示してくれた。


「というわけで、これが天野さんの左足首。うん、骨も無事だし綺麗なものね。()(こつ)も長すぎないし、(きょ)(たい)関節もちょうどいい感じの幅で収まってる」

「ありがとうございます」


 久しぶりの解剖学用語を思い出しながら、スタイラスペンで示される先を見ていた翔子だったが、骨は無事というのを聞いて少しだけ安心することができた。

 けれども、すぐに釘を刺されてしまう。


「だからって、怪我人ていうのには変わりないんだからね。足関節の捻挫っていうのは要するに、足首の骨と骨を繋ぐ靭帯の損傷ってことは知ってるでしょ」

「はい」

「ただでさえ再生しにくい靱帯の、それも複数の箇所にまたがる場合が多い損傷だから、なめてかかるとじつは大変なの」


 いつしか真剣な表情になった如月は、レントゲン写真における外くるぶしのあたり、まさに翔子が痛めている部分を指しながら続ける。


「湿布貼るだけで部活を続けちゃう学生さんとかも多いんだけど、そうやって無理すると痛めた靭帯そのものがどんどん緩くなっていって、グラグラの足首、つまり捻挫ぐせのある足になっちゃったりするんだから」

「こ、怖いですね」

「そう。マジで怖いのよ。ちなみに私たちは、損傷の度合いによって足関節捻挫をⅠ度からⅢ度に分けて考えるの。ちょっと靭帯が伸びたりした程度で、日常生活ぐらいなら問題なければⅠ度。靭帯が部分断裂して、体重をかけられないほど痛みも激しければⅡ度。松葉杖を出すのもこのぐらいからね。でもって完全に靱帯が切れて足首もブラブラ、くっついてる骨まで剥がれちゃう、いわゆる剥離骨折まで起きることもある超重症がⅢ度。ここまでいくと場合によってはオペ対応」

「オペ、ですか」


 如月の言う通り、捻挫と一口に言っても手術までするケースがあるとは知らなかった。軽く済んでよかったと、あらためて思う。

 一方で翔子は、彼女のわかりやすい解説に、どこかで聞いたような……とまったく関係ない感想も抱いていた。


「さっきも言ったけど、天野さんは幸いⅠ度の捻挫だから、早ければ十日、まあ二週間も見ておけば痛みは消えると思う。でも、そのあともしっかりケアしてね。痛みが消えても、組織が完全に回復するまではタイムラグがあるし」

「早くて十日、ですか……」


 一瞬顔が曇ったのを、如月は見逃さなかったようだ。「うん。といっても、レッスンはそんなに休めないわよね」とフォローしてくれる。


「……はい」


 本当はレッスンどころか、コンテストに出るつもりなのだが。


「激しい動きのないヨガやピラティスなら、気をつけてやれば多分大丈夫。ステップやエアロ、筋トレ系は、う~ん……医者としては休んで欲しいのが正直なところかな。どうしてもっていうならサポーターやテーピングでしっかり固めて、レッスン終わったら必ずアイシング。ステップやコリオも、足首に負担のかかるものは極力避けて構成すること。フィットネスクラブでのお仕事ならトレーナーさんもいるだろうから、自分で無理だったらテーピングとかはやってもらって。あ、でも最近のクラブは使えないバイトの子ばっかりか。まあそのあたりは、人を選んでとしか言い様がないわね」

「あの、先生」


 どこか楽しそうな顔でアドバイスを続ける如月を見て、翔子は心を決めた。


「じつは週末、イントラのコンテストがあるんですけど」

「週末? ああ、『IOI』? まさかあれ、出るの?」

「はい」


 神妙に頷きながら、やっぱりと思った。理由こそわからないが、如月はフィットネスクラブやイントラについてもやたらと詳しい。レッスン用語もすらすら出てくるし、そもそも振付のことを、コリオグラフィーを略した「コリオ」などと呼ぶのは業界関係者か、よっぽどのフィットネス・フリークだけだ。『IOI』について知っていたのも、案の定という感じである。

 そんな思いを察したように、眼鏡のテンプルを持ち上げた如月がにっと笑いかけてくる。


「私自身フィットネスクラブの会員だし、商売柄イントラさんもよく診るの。だからそんじょそこらのドクターよりは、天野さんたちのお仕事のことわかってるつもりよ。クラブ関係者に知り合いも多いしね」

「そうなんですか?」

「うん。こう見えて、イントラやりませんかってスカウトされたこともあるんだから」


 なぜか翔子の頭に、レッサーパンダ柄のTシャツを着て元気にリードを取る彼女の姿がイメージされた。


「『IOI』かあ。前はよく二次、三次の模擬レッスンに一般参加してたなー」

「え!? 本当ですか?」

「うん。私、エアロ大好きなんだ。もともとはバスケ出身だけど」


 それを聞いて翔子は、この一風変わったスポーツドクターを、ますます信用することができた。考えるより先にぺこりと頭が下がる。


「先生、私、今年の『IOI』にどうしても出たいんです! クラブの代表っていうことにしてもらってるし、絶対負けたくない相手もいるから……」

「そっかそっか。う~ん、でもさっきも言ったように、医者としては本当はお勧めしないのよ」


 そこをなんとか、と大きな瞳でじっと見つめると、如月は笑みを苦笑に変えて「ま、しょうがないか。天野さん、可愛いし」とよくわからないコメントを寄越してきた。


「ちなみにどこの代表で出るの? 近所のフィットネスクラブ?」

「はい。メイク・フィット・スポーツクラブです」

「ああ、メイク・フィットさんだったのね。よかった、それなら安心だわ」

「え?」


 きょとんとするこちらの反応を面白がるように、眼鏡の上で細い眉が持ち上がる。


「言ったでしょ。関係者に知り合いも多いって」




 診察を終えた足でメイク・フィットに顔を出そうかとも思った翔子だが、迷った末、やめておくことにした。レッスンはないし、さすがに今日は夜の練習もできないので、さゆりたちに余計な心配をかけたくない。何より、これだけ応援してくれているのに怪我をしてしまったことが、本当に申し訳なかった。

 それに――。


「健君……」


 彼の名前が、また口からこぼれ出る。


「……ごめんね」


 昨夜よりは落ち着いているものの、油断するとすぐに気持ちが落ち込みそうになる。一人暮らしのアパートに帰ったところでますますそうなる予感がした翔子は、最寄り駅に着いても真っ直ぐ帰宅せず、近くのカフェへ立ち寄ることにした。

 カウンターでドリンクを購入し、通りに面したカウンター席でスマートフォンを取り出す。昨夜から返信していないままのキズナを開くと、一番最後の文章が目に飛び込んできた。


《明日、また会えるのを楽しみにしてます》


 ごめんね。


 もう一度胸の内側でつぶやいて、溜息をついたとき。

 目の前のガラスが、コンコンと鳴った。

 最初、風かなと思った。だが、風の音にしてはいやにはっきり聞こえるし、そもそも窓ガラスに当たるようなものは周囲に何もない。


 コンコン。二度目の音。

 顔を上げた瞬間、翔子は手に持っていたアイスティーのグラスを落としそうになった。


「健君!?」


 ガラス越しに息を弾ませているのは、たしかに健だった。Tシャツにハーフのチノパンツ、スニーカーというラフな格好をしている。

 ホッとしたような顔で「隣の席、取っておいてください」と手振りで示した彼は、一分後、アイスコーヒーのグラスを持って本当に右隣の席に現れた。


「本物だ……」


 ぽかんとして意味不明なことを口走っていると、彼が厳しい表情でこちらを見つめてくる。


「翔子先生」

「は、はい」


 うん、本当に本物だ。それにこの生真面目な顔、久しぶりな気がする。最近は優しく笑ってくれるばっかりだったし。ていうかなんで私たち、並んでカフェに座ってるんだろ。おたがい私服だし、外で会うのなんて初めてだよね。なんかデートみたい。あ、ちょうどランチタイム――。

 混乱しきっている翔子を現実に引き戻すように、顔を近づけた健は強い口調でくり返した。


「翔子先生!」

「ひゃい!? な、何、健君?」

「え?」

「あ! いえ、赤星君、なんでございますでしょう?」

「大丈夫ですか?」

「は、はい。ごめんなさい」


 何について「大丈夫」なのかよくわからなかったし、日本語が若干おかしくなっている自覚もなかったが、翔子はなんとなく謝っておいた。


「まったく。こういうときこそ、しっかり教えてくださいよ」

「へ?」

「いつもはすぐ返信くれるのに、おかしいなって思ったんです」

「はい?」

「そんなに俺、信用ないですか?」

「いえ、とんでもありません!」


 どうやらお説教されているらしいと、ようやく理解する。


「それで如月先生は、なんて仰ってました?」

「ええっと、Ⅰ度の捻挫だから早ければ十日で痛みも消えるだろうって……え!? 如月先生? なんで?」


 素直に答えてしまったあとで、彼の口からその名前が出たことの違和感に気づいた。けれども健の方は、変わらず厳しい顔のままだ。


「怪我の程度については俺も聞いてます。松葉杖もないみたいだし、本当にホッとしました」

「あ、はい」

「むしろ聞きたいのは『IOI』のことです。出場のOKは出ましたか? 文字通りのドクターストップはかかっていませんよね?」

「えっと……ま、しょうがないかっていうのと、あとはメイク・フィットさんなら安心って」

「は? なんですか、それ?」

「し、知らないわよ! 先生がそう言ったんだもの」


 今度は呆れ顔をされてしまい、むっとした翔子は思わず言い返していた。なんでせっかくデート……ではないが、外で会えたのにいきなり説教されなければならないのだ。


「まあ如月先生らしいっちゃ、らしいけど。突然クラブに電話かけてくるし」

「あの、一体どういうこと? たけ……じゃなかった、赤星君、如月先生のこと知ってるの?」


 逆ギレしたことでようやく落ち着いた翔子が聞くと、彼はこくりと頷いた。


「ええ。如月先生は、俺の先生でもあるんです」

「え!? 赤星君もどこか怪我してるの?」

「いえ。そうじゃなくて、如月先生はうちの大学で解剖学やアスリハ――スポーツ選手用のアスレティック・リハビリテーションとかの講義を、担当してくれてるんですよ。俺も先生のゼミ生です」

「ええっ!?」

「先生は日本オリンピック協会の医学委員も務めてるスポーツドクターで、神さんとも知り合いなんです」


 そういえば神は、かつてはアスリートを専門に指導していたと言っていた。合わせて翔子は、フィットネスクラブ関係者に知り合いも多いという如月の台詞も思い出した。それにしても、あの女子高生みたいな医師が国を代表するレベルの人だったとは。


「じつは一時間ほど前に、先生からクラブに電話があったんです」

「私のことで?」

「ええ。ちょうど俺が電話を取ったんですけど、おたくの天野翔子先生がⅠ度の左足関節の捻挫でうちに来られたわよ、って。しかも〝週末の『IOI』に出たいって言ってるから健君よろしくね〟だそうです。何がよろしくなのか、つっこむ暇もありませんでした。先生、いっつもあんな感じでマイペースなんだ。この前だってJリーグに内定してるサッカー部員のアスリハを、健君なら全然オッケーだからよろしく、なんて俺に丸投げして。信頼してくれるのは嬉しいけど、将来あるプロの卵を俺なんかに任せて――」


 例によってトレーナースイッチが入ってしまったらしいが、いつも通りの姿に、翔子はむしろホッとした。「赤星君?」と苦笑したところで、健も我に返ってくれる。


「あ、すいません! いつも先生に無茶振りされてるから、つい」

「ううん、大丈夫」

「というわけで坪根チーフと神さんから、翔子先生に会って状態を確認する許可をいただいたんです。むしろ、すぐそうするようにとも言ってくれて」


 だからここに現れたのか。キズナでやり取りするなかで、たがいの最寄り駅も教え合っていたし、すぐさま飛んできてくれたのだろう。


「あと、『IOI』本番は俺もトレーナーとして同行します」

「本当!? ありがとう!」


 もとより翔子自身、この足でも本番は出場するつもりだが、彼が近くにいてくれるのはとても心強いし、嬉しい。

 そして嬉しく思う理由は、もう一つ。


「坪根チーフと神さんから許可をもらったってことは、あの……」


 つまりは彼が自分から言い出して、翔子に会いにきてくれたということだ。

 だが、こちらのささやかな喜びには気づかない様子で、健はまたもや厳しい顔を向けてきた。


「なんにせよ捻挫したなんてひとことも聞いてなかったから、電話を受けてめちゃくちゃ心配しました。痛かったでしょうし、怪我したばっかりで大変のはわかります。けど俺だってトレーナーなんですから、キズナの返事ぐらい遠慮なくしてください」

「あ、はい。ごめんなさい」


 怒られて恥ずかしい気持ちと、心配をかけて申し訳ない気持ち。そして本人には絶対に言えないものの、それでも嬉しい気持ちが混ざり合って、翔子は頬を染めながら俯くしかなかった。


「翔子先生、時間があればこれからクラブに行きませんか? みんなも心配してますし」


 顔を上げると、もう健は厳しい顔をしていなかった。言葉通り、心から心配してくれているのがわかる優しげな表情になっている。


「うん、そうだね。坪根チーフや神さんたちにも謝らなくちゃ」


「謝る必要はないですけど、状態を確認して本番の対策を考えましょう」


「ありがとう」


 素直に頷いた翔子の顔が、ふたたび赤くなった。

 いつの間にか、目の前に健の右手がある。カウンター席は少々高いスツール椅子のため、気を遣ってくれたらしい。


「大丈夫ですか? 降りるとき、気をつけて」

「あ、ありがとう」


 ここの席にしてよかったと思いながら、翔子は差し出された手をそっと握った。

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