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エアロ!  作者: 迎ラミン
第三章 トレーナー
10/20

トレーナー 2

「うん、いいですよ。あと十五秒!」

「まだ十五秒もあるの!?」

「大丈夫。フォームは保ててますから……よし、あと十秒!」


 九、八、七……とそのままカウントダウンする健の声を聞きながら、翔子の左腕とお腹はプルプルと震えていた。一見すると腕立ての姿勢だが、右腕と左脚が宙に真っ直ぐ伸ばされて、わざと不安定な体勢になっている。


「三、二、一……OK! グッドです、翔子先生!」

「きっつーい! 私、こんなに身体弱かったんだ……」

「そんなことないですよ。三十秒間しっかりキープできていたし、さすがです。じゃあ次は、サイドプランクにいきましょう」

「え? すぐやるの!?」

「もちろん。ピラティスでお馴染みのエクササイズだし、これも得意でしょう?」

「……ドS」

「はい?」

「ううん、なんでもない!」


 耳に入ったら、このやたらと爽やかな笑顔のまま、「倍の六十秒にしましょうか」などと言い出しかねない気がする。マットの上で、そそくさと翔子は横向きになった。




 苦手な動き、すなわちカブリオール・ダブルがどうしてもできなくて困っていることを伝えると、冷静さを取り戻した健は「なるほど。じゃあストレッチが終わったら、そのカブリオールっていう動きを、見せてもらってもいいですか」と快く相談に乗ってくれた。

 スタジオに二人で入り「これなんですけど……」と、翔子が見事な跳躍を何回かしてみせると、彼は何度も頷いたあとで感嘆の声を上げた。


「それにしても翔子先生、凄いですね」

「え? 何がです?」

「凄く綺麗なジャンプだなと思って。体幹がしっかりしてるし、関節の可動域も広くて、機能的な動作がスムーズです。普通の女性はこんなジャンプ、そうそうできないですよ。もちろんエアロの技術的なことはよくわかりませんけど、とにかく綺麗で素敵です」

「ど、どーも」


 ジャンプのことを言っているのだとはわかるが、思わず頬に手を当ててしまう。赤くなっていないだろうか。


「で、今の足を打つ動作を二回にしたい、ということですね」

「うん……じゃなかった! は、はい」


 頬に手を当てたままだったからか、つい馴れ馴れしい返事になってしまった。だが。


「タメ口でいいですよ。同い年ですし」


 さっきのお返しです、と言わんばかりに微笑まれて翔子も思わず笑顔になっていた。


「じゃあ赤星さん――ううん、赤星君もそうしてください。じゃなかった、そうしてくれる?」

「う~ん、でも翔子先生はイントラで俺はバイトですから。それにこの喋り方は、クラブでは半分くせみたいになっちゃってるし」


 こんなときだけ、自分がアルバイトということを持ち出すのはずるい。それに「くせみたいになっている」と言ったくせに、一旦スイッチが入るとじつは少々くだけた口調になるのを、さっきも翔子は実感させられたばかりだ。

 だからだろうか、自然に口が動いていた。


「じゃあ、二人っきりのときだけでも」

「え?」


 ぽかんとした顔を見て、自分が発した言葉を時間差で自覚した。けれども今さらあとには引けない。


「あ! い、嫌ならいいの! でも差し支えなければというか、できればというか、他の人が見てないときぐらいは、その、同い年っぽく話したいな……って」 

「はい、頑張ります。あ、いや、頑張る。あれ? 頑張るよ? 頑張るぜ?」


 言語回路がショートしそうになっている姿を見て、翔子はまた笑ってしまった。


「無理しないでいいってば。そのうち慣れてきたら、ね?」

「はい、すいません……」


 そんなやり取りのあと、あらためて健が分析してくれたところによると、翔子がカブリオール・ダブルのために改善すべきと思われるのは次の部分だった


「多分、着地能力ですね」

「え?」


 聞き間違えたのかと思った。ジャンプじゃなくて、着地? 


「英語で言うと、ランディング・スキル。身体の負担が少なくてすぐに次の動作へ移れる着地の仕方と、それを可能にするだけの筋力です」

「ジャンプはいいの?」

「ええ。見たところジャンプの高さは、じゅうぶんじゃないでしょうか。高さよりも――」


 言いながら健は、おもむろに片脚立ちになった。


「翔子先生。これ、できますか?」


 直後に、引き締まった身体が軽々と浮き上がる。こちらの跳躍を散々褒めてくれたが、その自分が目を丸くするほどのジャンプだった。しかも踏み切ったのは左脚一本である。


「凄い!」


 翔子の驚きの声とともに、さっきとまったく同じ位置に健は着地した。まるで磁石か何かで吸いつけられたように。音もほとんど立たないうえ、身体全体が片脚での美しいスクワット姿勢にもなっている。


「これが正確なランディング・スキルです。安定した体幹とバランス能力で、足首、膝、股関節の三つをスムーズに使って衝撃を吸収し、すぐに次の動作へと移れる姿勢。要するに、正確なスクワットポジションで着地する身体の使い方です。もちろんエアロやダンスは、必ずしもこの姿勢で着地するとは限りませんけど、こういう基本動作ができたうえでそれを崩すのとそうじゃないのとでは、動きの精度や、何よりも怪我の発生率がまるで違います」

「怪我の発生率……」


 ならば、自分は怪我の可能性があるということだろうか。

 翔子が一瞬だけ見せた不安そうな表情に、健はすぐ気づいてくれた。


「大丈夫。翔子先生が今すぐ怪我をするとかってわけじゃありません。ただ、怪我を今以上に防ぐ動作、つまりヒトの身体として理に適った動きでいつでも着地できれば、空中での時間も目一杯使えるでしょう?」

「あ、そういうことか!」

「ええ。ちなみに上半身も同じです。安定した体幹と正確なランディング・スキルがあれば、こんな動作もできます」


 言うやいなや、彼の身体がいきなり前に倒れた。木が倒れるかのごとく、真っ直ぐになった全身が床に向かって傾いていく。

 あぶない! と思った翔子だが、次の瞬間、かわりにさっきと同じ台詞を発していた。


「凄い!」


 床に激突すると思われた刹那、健は全身を腕立て伏せの姿勢で受けとめると、「よっ」とすぐさま起き上がってみせたのだ。まるでそういう振付のダンスみたいに。


「プッシュアップ、つまり腕立て伏せのバリエーションで、ドロップ・プッシュアップと言います。女性は上半身の筋力が弱いので、さすがにすぐには難しいでしょうけど、しっかりトレーニングすればできるようになりますよ」


 軽やかなお手本にもびっくりしたが、こんな動きをできる女性がいるのにも驚きである。


「まあ翔子先生の場合は、カブリオールで足を二回打つというのが目標ですから、まずは下半身です。というわけで、試しに片脚でジャンプしてみてください。ただし意識するのはあくまでも着地です。ジャンプ自体は軽くでもいいので、とにかく今と同じ場所にふわっと足を降ろして、身体もぶれないように」

「わかりました」


 自身も思わず敬語に戻ってしまいつつ、翔子は頷いた。とにもかくにも、言われた通りやってみよう。

 一度だけ深呼吸してから、健がやったのを真似て片脚で跳び上がる。


「えいっ!」


 そのまま柔らかく着地……したと思ったが、できなかった。バランスを崩してトントンと足を踏み直してしまう。上半身も、両手を広げないと倒れてしまいそうだ。


「あ、あれ?」


 もとの場所から二十センチほどずれてやっと止まってくれた左足を、翔子は不思議そうに見つめるしかなかった。


「これ、意外に――」

「うん。難しいでしょう?」


「はい」ではなく「うん」という返事に嬉しさを感じたが、すぐに集中し直して「もう一回やっていい?」と申し出る。動作そのものに関しては、じつはかなり悔しかった。

「もちろん」という返事の声が終わらないうち、今度こそとばかりに二度目の跳躍。しかし、結果はまたしても同じ。降りてくる自分自身を左脚一本で支えきれず、どうしても二、三度足を踏み直してしまう。


「翔子先生はジャンプも高いし、動作もとてもキレがある。お世辞抜きに本当に綺麗だけど、片脚のランディング・スキルだけ、ちょっと惜しいなって思ったんだ」

「なるほど」


 それにしても、と翔子は思った。


 赤星君の説明って本当にわかりやすい。


 何回か動作を見ただけで苦手な部分を見抜いてくれただけでなく、どうしてその能力が必要なのか、重要なのかといったことも噛み砕いて話し、おまけに見本まで示してくれる。アシスタントにもかかわらず、さゆりや神から信頼され、何よりも会員たちから人気があるわけが大いに納得できた。


「さすがだなあ」


 翔子のつぶやきには気づかず、ふたたびスイッチが入った様子の健が笑顔で続ける。


「特に女子は男子と比べて、膝の怪我もしやすいからね。そういった意味でもぜひ鍛え直すといいよ。俺も翔子先生には怪我して欲しくないから」


 またしても天然イケメン台詞をしれっと発しているが、さすがに少し慣れてきたので、翔子も笑って指摘してやることにした。


「ありがとう。ていうか、やっと変わってくれて嬉しい」

「変わった?」

「うん。完全にタメ口で話してくれてるよ、今」

「ご、ごめん! じゃなかった、すいません!」

「あ、言わなきゃよかった」


 ぺろりと舌を出すと、なぜか彼はまぶしいものを見るような目をしていた。




 こうして言わば「座学」での解説を受けたあと、必要なトレーニングもしてみようということで健が指導してくれているのが、件の三十秒ずつのエクササイズ、俗に「スタビライゼーション・エクササイズ」と呼ばれるものだった。

 安定した着地のためには脚だけでなくその付け根である体幹、つまり胴体部分の安定性も重要なため、わざと不安定な状態での腕立て姿勢を取ったりして、そこを狙って鍛えるのだという。じつはピラティスでも同じようなエクササイズをするので、翔子は多少経験があったのだが、健の指導の下でやると、いかに自分が楽にやってしまっていたかを思い知らされた。


「うう……。いつもやってるはずなのに、こんなにキツいとは思わなかった」

「まあ俺たちトレーナーは、つっこむのが仕事ですから」


 一人称こそ「俺」のままなものの、いつもの口調に戻った健は楽しそうに笑っている。


「赤星君、ほんとはドSでしょう。私が知ってるピラティスのエクササイズにしてくれたから、最初は優しいなあって思ったのに」


 軽く頬をふくらませると、ますます楽しそうな笑顔が返ってくる。


「勝負の神は細部に宿る、ですよ」

「え? それって……」

「俺が好きなスポーツの(ことわざ)です。地味で退屈そうな動きや、ついサボりがちな部分こそ丁寧に、大切にやっていくことが結果に繋がるっていう意味です。たとえば五十メートルのダッシュでも、四十九メートルまで全力なのに最後の一メートルを流しちゃう選手って多いけど、そうじゃなくて五十メートルをしっかりダッシュしきる。トレーニングでも、こういう慣れた基礎エクササイズこそ、常に細かい部分までこだわってやっていく。英語にすると――」

「Do the little thing ! でしょ?」


 嬉しくて、翔子はつい大声になってしまった。健が語ったことは大好きな恩師、草薙龍子の教えとまったく同じだったからだ。


「私の師匠も同じこと言ってたの! Do the little thing. 細かい部分、基本の動きこそ大切にして、こだわって練習しなさいって!」

「その通り。じゃあその方も、翔子先生と同じように素敵な方なんでしょうね」

「私なんか足下にも及ばないけど、でもずっと目標にしてるんだ。専門学校でも凄く可愛がってくれたから」

「へえ。なら、ますます師匠の教えに背くわけにはいきませんね」

「へ?」

「というわけで二セット目、いきましょう。さっき以上にディテールにこだわってやっていきますよ!」

「ちょ……やっぱりドSじゃない!」

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