メイク・フィット・スポーツクラブ 1
フィットネス・インストラクターの女性が奮闘するお仕事小説です。
©Lamine Mukae
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穏やかなメロディーが、ちょうどいいタイミングで終わる。
天野翔子は、大きく伸ばしていた両腕を下ろし笑顔で頭を下げた。
「はい、皆さんお疲れ様でした! ありがとうございましたー!」
「ありがとうございましたー!」
最後のストレッチを終えた計二十人の参加者も、温かい拍手とともにお辞儀を返してくれる。
「今月はこんな感じで、グレープバインのステップなんかも少しずつ入れていきますから、一緒に頑張りましょう。来週もよろしくお願いしまーす!」
汗を拭いながら挨拶する翔子の正面、最前列の真ん中では、佐々木という常連会員が、「あらやだ、来週もこれやるの? 脚がこんがらがっちゃうわ」とおどけている。それでも笑顔でステップを復習し始める姿に、彼女と仲の良い、同じく常連会員の平沼からすかさず茶々が入った。
「大丈夫よ。私らの太い脚じゃ、こんがらがったりなんてしないから」
「じゃ、なんで先生はこんがらがんないのよ? こんなに細い脚してんのに」
「当たり前でしょ。これでご飯食べてんだから」
「あ、そっか。別のこと考えながらでも、私がイワシおろせるのとおんなじね」
おばさんコンビの漫才のような会話に、他の参加者につられて翔子も吹き出してしまった。妙なたとえだが実際その通りだし、細い脚と言ってくれたのも素直に嬉しい。
「私の脚が細いかどうかはともかく、グレープバイン自体は基本的なステップですから、皆さん慣れればすぐ上手になりますよ」
「ホントかねえ。イワシをおろすみたく、できるようになるかしら?」
首を捻りつつも、佐々木はちょこまかと足を動かし続けている。
「あんた、今日はやけにイワシイワシ言うわね。売れ残ってんの?」
「あ、ばれた? 旦那が仕入れすぎちゃってさ。安くしとくよ」
おかしな掛け合いを続けて周囲を笑わせる二人はそれぞれ、近所の商店街にある鮮魚店とクリーニング店のおかみさんだ。
「ちなみにグレープバインっていうのは、葡萄の蔓って意味です。蔓が絡まるみたいに脚を交差させるから、この名前がついたらしいですよ」
スタジオの後方へと回り込みながら、翔子は引き続き皆に聞こえるよう声を張った。クラスのなかでは、必ず参加者全員に向けて話すのがくせになっている。
出入り口のガラス扉を大きく開くと、参加者たちは居残ることもなく、すぐさま退室を始めてくれた。いつもながら、本当にマナーがよくてありがたい。
「それじゃ翔子先生、また来週……じゃなかった、私ピラティスも出るから、また明日か」
「ありがとうございます! じゃあ、明日もよろしくお願いしますね」
しかもこうして、佐々木や平沼以外の常連も明るく声をかけてくれる。
「あら? 先生、ピラティスもやってたの?」
「へえ。知らなかったわ」
「じつはそうなんです。あんまりお客さん入ってないんで、知られてませんけど」
飛んできた問いに苦笑混じりで白状すると、優しいフォローが次々と返ってきた。
「朝のクラスだからじゃない?」
「ああ、ならしょうがないわよ。夜とかだったらきっと、先生目当てにイケメンが一杯くるはずだし」
「そうよねえ。私がイケメンだったら、お友達誘って毎週通っちゃうわ」
「あはは、ありがとうございます。イケメンだらけの逆ハーレムクラス、一度でいいから担当してみたいです」
チャーミングな笑顔で礼を述べた翔子は、最後の一人を見送ってから、軽やかな足取りでスタジオの奥へと戻っていった。
二十一歳の翔子は、フィットネスクラブや公共施設などでグループレッスンを指導するイントラ、いわゆるフィットネス・インストラクターを生業にしている。
専門の養成学校を出て、都内にあるここ『メイク・フィット・スポーツクラブ』をはじめとする、いくつかの施設でレッスンを担当させてもらうようになり一年ちょっと。上背こそないものの、大きな瞳を輝かせ、トレードマークのポニーテールを揺らしながら元気にレッスンする姿は、典型的な「イントラのお姉さん」だ。参加者からの評判もよく、得意のエアロビクスだけでなく、今日のようなステップのみに特化したクラスなども、駆け出しながらなかなかの人気を誇っている。
だが一方で、もう一つ資格を持っているピラティスのレッスンは、持ち味の溌剌としたキャラクターを活かしきれていないからか、集客に苦戦中なのだった。
「クラス、減らされないようにしなくちゃ」
汗の飛んだ床にモップをかけながら、素直な本音がこぼれ落ちる。
フィットネス・インストラクターというのは、文字通りの人気商売である。エアロビクスやヨガ、ピラティスはもちろん、筋力トレーニングやストレッチ、さらに最近では専用の室内自転車を使ったグループ・サイクリングなどもあって、その内容は多様化しているが、当然ながらいずれも参加者がいなければ成り立たない。
人気がある=参加者が多いインストラクターは、施設利用者が参加しやすい時間帯にレッスンを割り振られることが多くなるし、担当するコマ数も増えて収入も上がるという好循環のなかに身を置くことができる。また、そうやって実績を積み重ねればレッスンフィー、つまりギャラの単価も上がる。不景気の昨今では、一レッスンで一万円を超えるフィーを取れるようなイントラはまれだが、それでも一本あたり八千円とか九千円などという金額は、その半額程度が自身の相場である二年目の翔子にとっては、憧れの数字だった。
「いつか私もなれるのかな……じゃなかった、なる!」
鏡に映る自分を見た翔子は、意識的に口角を上げて笑顔をつくった。
「身内に不幸があろうが彼氏と別れようが、お客さんの前では絶対に笑顔でいなさい。私たちフィットネス指導者は、身体だけじゃなくて心の健康も提供する存在なんだから」
専門学校時代、尊敬する恩師に言われた言葉が甦る。
うん、大丈夫。「いつも元気な翔子先生」の顔だ。おろしたばかりのウェアも、まずまず似合っている。
ただ、笑顔の下にある胸が少し――いや、かなり小さく見えるのは、スポーツブラで押さえているからという理由だけでないのが悲しい。
こればっかりは、もとがないんだから仕方ないよね……。
その部分に手を添えた直後、思わず頬が赤くなった。自慢にもならないが、自分と親、あとは生まれたときの病院関係者以外に触れられたことなど一度もない。
……っと、いけない、いけない。
我に返った翔子はドリンクやタオル、CDケースといった小物が入ったバッグを肩にかけ、早歩きでスタジオを出た。今日は別のクラブでもレッスンが入っている。時間にじゅうぶん余裕はあるが、どこの施設でも早めに行って、自身も身体を動かしておくのがルーティンだ。
ロッカールームへと向かう階段に差しかかったところで、だが翔子は、一瞬だけ複雑な表情を浮かべてしまった。
明日はあいつ、いるのかな。
この日は見かけなかったが、じつはメイク・フィットには一人だけ、どうにも苦手なスタッフが存在する。自分と同い年の若いアルバイトスタッフで、会員の受けはいいしルックスも悪くない。
けれど。
苦手な「あいつ」、赤星健の第一印象は、翔子にとって最悪なものだった。