9.満身創痍
天蓋上部には“まほうつかい”が降りてきた位置にのみ扉がついており、ティーアはそれを開ける事で難なく侵入出来た。
「どうやって天井とか壁にしがみついてるんだ? 」
「自分の指を炎の魔法で溶かして水によって冷却し、固まる時間を調節して上手い具合に溶接してるのです。溶接してる訳ですね」
入り口となる扉の周りは、足場やぶら下がる為の取手のようなものが無い平面である。
扉の先も凹凸の無い垂直に伸びた縦穴だ。
人が通る事を想定していない場所を、しかしティーアは魔法によって壁を蜘蛛のような格好で登攀する事で無理やりに乗り越えていった。
「(早く……早くしなければ……)」
表面上はいつも通り接しつつも、ティーアは焦っていた。
背負っている人間は未だに軽口を叩いており、いつも通りの何でも無いような雰囲気を放っているが、呼吸は浅くなっており、体からは温度が今にも失われていっている。
デッドラインは、明らかに遠くない位置にあった。
「思ったよりも光が見えてこないな。
天蓋って、かなり分厚いものだったのか」
「そうですね。結構登ってるはず……登攀を始めてから結構な時間が経ってる筈なのですが」
焦りの理由は、シアンの体が危険な状況に陥っていただけに留まらない。
1度目の逃走、2度目の天蓋上部まで届く大跳躍、そして現在の登攀と、ティーアは自身の体内のタンクに貯蔵された水を相当量使用していた。
彼女が爆発的な膂力を引き出すには大量の水分が必要である。
しかし、一度に大量の水分を補給する手立てが無い現状では、この登攀が終われば貯水タンク内の残量はほぼ0になって回復しない事をティーアは理解していた。
「(ここを登り切って天蓋の外へ出たとしても、私は同じように逃げる事は出来ない。マスターも満身創痍。
であれば……であれば……)」
とぐろを巻いた蛇のような濃密な死の気配が、縦穴の下から追ってきているようだった。
何とか追いつかれまいと、悪寒に身を蝕まればまいと手の動きが早くなる。
しかしそれは、先行きの見えない絶望的な逃避行に他ならない。
「久しぶりに眠くなってきたな……。
ちょっと眠っててもいいか?」
「駄目です、起きてください。絶対に起きてくださいね」
それから何度壁に手を掛けただろうか。
永遠にも思える登攀は、体内の貯水タンクの残量が完全に無くなった所で終わりを告げる。
伸ばした手が、途切れた壁と地続きになっている床を掴んだのだ。
「暗い……暗いですね」
「そう、なのか?
……すまん、少し無理をしたせいか上手く頭が回らなくて、瞼が重いんだ」
シアンの頭が大きく船を漕いでいるのは、背負われたまま移動しているという理由だけでは無い。
登りきった先にあった、間取りもよく分からない暗い部屋にシアンを寝かせると、ティーアは自分の服の袖部分をシアンに噛ませた。
「この服をよく噛んでいてください。
痛みが減りますから、よく噛んでいてくださいね」
「よく分からないが……分かった」
シアンは力無く布を頬張るが、すぐにそれが自分の歯を噛み砕かんとするほどの苦悶の表情へと変わる。
その理由は、ティーアが魔法によって、無くなった左腕の断面に炎を押し当てたからだ。
「清潔な布が無い為、こうするしか止血する方法がありません……!
申し訳ありません……申し訳ありません!」
「がっ、ぎっ……!?あ"ァァァァァァッ!?」
鼻の奥に纏わりつくような、人間の焼ける刺激臭が二人を襲った。
内臓を泥で煮詰めたような、胃液よりも酸味の強い臭いは、味も臭いも知らないシアンには強すぎる。
痛みと悪臭が、どうしようもない程に彼の脳を侵し尽くす。
この場にあるのは、廃墟街で拾ったボロ切れのような布と、地下の奥で埃被った服だけで、これで圧迫などすれば間違いなく感染症を引き起こすだろう。
結果的にそれが、地獄の責苦をシアンに味合わせている。
「カッ……!?ケッ……、オエッ……エェ……! 」
痛みに慣れているシアンでも、これにはひとたまりも無かった。
血走った眼球は瞼が千切れる程に見開かれており、残された右手は何度もティーアの体や床を殴りつけて骨と肌を摩耗させ、噛みついた布の隙間からは赤が混じった唾液が零れ落ちる。
その金切り声は、本来の人の声域を軽く越した。
血管に直接酸を流し込んでいるかのような、永遠にも思える拷問は、しかし現実時間ではたった数秒で終わっている。
「終わりました。終わりましたよ……お疲れ様でした」
「……」
シアンは、しばらく息を荒げて一言も話せないまま布を噛み締めて虚に闇を見つめていた。
そんなシアンの頭をティーアは膝に乗せ、しばらく頭を優しく撫で続ける。
「も……う、大丈夫……だ。
眠気も、あぁ、良く醒めたし……な」
「そうですか……そうですね」
険しく顰められた眉を見て、『この人でも強がりぐらいは言うんだな』と心の中だけでティーアは呟く。
それでも立ちあがろうとするシアンを、彼女は止めようとはしない。
「……と、と。」
立ちあがろうとした瞬間、シアンは唐突にバランスを崩して転んでその場に崩れ落ちる。
どうやら当人もその理由が良く分かっていないようで、封天街以上の暗闇の空間のせいでは無いかと推測していたが
「くそっ、上手く……立てないな」
シアンは何度立ちあがろうとしても失敗を繰り返す。
「……腕を欠損した人は、しばらく平衡感覚が狂って上手く立てなくなると聞きます。
私に掴まっていてください。ゆっくり掴まっていてくださいね」
ティーアは肩を貸すと、いちにの掛け声を合図に、お互いにゆっくりと立ち上がる。
右腕しかないシアンは当然ティーアの左肩を借りる形となるので、ティーアは暗闇を照らすべく空いた右手に魔法による炎を灯した。
まず最初に照らされるのはコバルトブルーの長い髪、次に黄金色の瞳。
その煌めく光に映し出されたのは、2人が想像もしていないものだった。
「部屋、だよな」
「そうみたいです。
埃被ってる箇所も少なくて、手入れも細部にまで行き届いております。おりますね」
その部屋は一言で言えば書斎だ。
部屋の広さは封天街にある通常サイズの廃墟の一室……大人の人間5人が大の字になれる程度の広さはあるだろうと推察出来る。
しかし、机や椅子に調度品、特に目立つのが壁の1面を埋める程に並べられたガラス扉の本棚が、実際よりも部屋の広さを狭く見せていた。
シアンはティーアの肩と手を借りながらも、ガラス扉を開けて本を数冊手に取る。
頭の中は朦朧としていても、滾る好奇心は止められなかったのだ。
「……全く読めない」
「これ、どれも中々に専門的な内容ですね。
例え文字だけを読めたとしても、理解に相当な時間がかかる……かかる筈です」
全体的に学の無い封天街の中では、ある程度の本を読めるシアンは頭の良い方の人間という括りではあった。
しかし、そんなシアンでも全く読み取れない本というのは、ここ最近では初めての事だ。
ティーアと出会った時に手に入れた本も、読めないのはあくまで筆跡の問題でありある程度は読めていたのだから。
「“まほうつかい”さんは、ここから出てきたんだよな?」
「縦穴は恐らくここにしか繋がっていない筈ですので……そうだと思います。その筈ですね」
「もしかして、“まほうつかい”さんも本が好きなのかな」
「……」
シアンの子供じみた感想に、ティーアは肩透かしを食らってしまう。
自分を命を脅かしている相手に、何を好意的な印象を持っているのだと問いたい気持ちもあった。
しかし、とりあえずは仄かな灯りに照らされた室内を見まわして必要なモノを探し当てる。
「ここが魔法使いの棲家だとすると、いつ戻ってくるかも分かりません。
そこの扉から外に出ます。外に出ますよ」
「……あぁ、うん。分かった」
その声に覇気がないのは、果たして血が足りないだけなのか。
ティーアに背負われて部屋を後にするシアンの目は、名残惜しそうな哀愁を纏っていた。
○●
封天街という街がある。
“天蓋”と呼ばれる街を空まで完全に覆う、ドーム状の壁に囲まれた太陽の無い廃墟の街だ。
その街に暮らしている人間は、おしなべて太陽という存在すら知らない。
しかし、一人の少年は違った。
文字を学び、本から外を学び、黒と灰色しか無い街で、初めて自分の色を持って育っていく。
その少年は運命的な出会いをし、果たして天蓋の外へ出る事が出来たのだ。
「あぁ……」
何度も憧れた、物語の中にしか出てこない温かな日差しを、目が醒めるような緑を、囲われた街の中では得られない自由を、彼は常に求めていた。
最後の扉を開けた今、彼の目の前に障害は何一つとして無い。
扉を開けるたびに流れ込んでる、初めての空気の流れを肺いっぱいに取り込んで、初めて外の世界を観測し続けた彼の双眸は
「……こんな気持ちになるなら、外になんて出なければ良かった」
全ての興味を失ったように濁りきっていた。