1
俺は朝起きると必ずと言って良い程、やる事がある。ルーティンとかそういうレベルじゃなく、洗脳に近いものだ。自分自身の心を殺すために、仮面を被る準備をする。全身に巡る倦怠感を無視して、洗面所に入ると扉に鍵を掛けシンクに少量の水を張る。俺の決して整っているとは言えない顔を写し出した水面が揺れてさらに醜く歪んでいた。
「大丈夫だ、お前は大丈夫」
譫言の様に、その呟きは近くに誰かいても聞こえないぐらい小さな声で呪いを吐いた。水面に映る俺の目はどこを見ているのだろうか、ただ何かを探す様に虚を彷徨っていた。
「お前はただみんなの期待に応えていればいいんだ。お前が自分の意志を示して何になる? 誰かがそれを望んだのか? 望んでいないだろう、誰もお前の事を望んでないんだ。だからみんなが求めるお前を演じろ。佐々木涼介は常に好成績でなくてはならない。両親が悲しむからだ、期待に応えろ。バスケ部ではシュート成功確率を七十パーセント以上を維持しろ、お前はスコアラーだ。仲間のために点を取れ。春香の行きたい場所に行くんだ。ちょっとくらい人込みが苦手だからなんだ、そのくらい我慢しろ。春香が喜んでくれるならいいじゃないか。吉見屋は今、人手が足りないんだからシフトが最初の契約の時よりも多いからってなんだ。自分の時間なんていらない。そうだ、自分なんて必要ないんだ……」
自分で言っていて動悸が激しくなるのを感じながら、口先から漏れそうな弱音を押さえ込み、最後の一言を吐き出す。
「お前はみんなが望む、佐々木涼介の仮面を被れ」
仕上げとばかりに大きく息を吸い、両目を閉じて十秒間息を止めた。
それは激烈な自己否定だった。自己を否定し、自身を殺し、心の奥底にある本当の願いに蓋をして誰にも見つからない様に仮面を被る。その仮面は今まで、誰にも見破られた事は無い。
「よしっ、行くか!」
次に目を開けた時には仮面は出来上がっていた。作ったばかりの爽やかな笑顔を張り付けて、俺は洗面所から出る。リビングに行けばすでに両親が食卓に着いていた。朝食を食べない俺は鞄を持って、登校する準備を済ませてしまう。
「おはよう」
「ああ、おはよう」
父さんは新聞を開いてぴくりとも視線を上げず挨拶を返した。
「おはよう、涼介。あら。今日も朝ごはん食べないの?」
母さんが心配そうに言う。
「大丈夫だよ、朝はお腹の調子が悪いから」
「それは知っているけれど……、食べ盛りなんだから……」
それでも母さんは心配そうに言うが、父さんは視線を上げる事もせずに新聞を捲りながら「最近の子はそんなものだろう」と言った。
「食べたくなったら購買で何か買えばいいんだ」
「それはそうだけど……」
父さんがそう言っても母さんの心配は薄れずにいる。昔から母さんは心配性だったが、最近はそれがさらに酷くなっている気がする。昔はテストの点数が少し悪かっただけで発狂された事もあった。まあ、だからこそ成績を落としてしまわない様に勉強しているわけだが。
「まあ、いつか朝ご飯も食べられる様にするからさ」
「そうねえ……、でもお昼はちゃんと食べるのよ? はい、お弁当」
「うん。ありがとう、母さん」
少し大きめのタッパーを渡された。ここには母さんが朝から作ってくれた栄養バランスの取れた食事が詰められている。正直、これだけの量を食べるのもきついが母さんが作ってくれたものに文句は言えず、昼休みには少し無理して何とか完食していた。
「それじゃあ行ってきます」
「車には気を付けてね」
「いってらっしゃい」
両親に見送られながら、俺は家を出た。
朝から疲労感を覚えながら、学校に向かう。普段から朝早くに登校しているので、通学路には他の生徒が見られない。犬の散歩をする子供と、朝からランニングをする中年女性、健康のためにウォーキングしている数人の老人だけで、誰も俺の事を知らない人物ばかりだ。当たり前の事だが、誰の視線も向けられない事がこんなに心地良いとは思っていなかった。
作者の励みになるので「面白かった」「続きが読みたい」などと思ってくれた方は高評価やブックマーク、感想などを是非よろしくお願いします。




