別れ
空を見上げると青空を覆うように流れていた雲が風に揺られて消えていく。
(……いいなぁ)
雲は自由だ。風に流されるままに自由に世界を行き来できる。願わくば、この空に流れる雲のように変わりゆくままに生きたいと、何人の人が思った事があるだろうか。私もそのうちの1人だなと小さく息を吐いた。
2週間前、悠介のアパートに呼ばれた。仕事帰りだったが「話したい事がある」と言われたので急いで向かった。アパートのチャイムを鳴らすと、仕事帰りの格好のまま悠介が出迎えてくれた。促されるままに部屋に入り、テーブルを挟んで向かい合わせに座る。
「ごめんな、真樹。急に呼び出して」
「ううん、大丈夫。それよりどうしたの??」
用件を訊ねると、言いにくそうに悠介は口を閉ざす。目を左右に泳がせながら、その重い口を開いた。
「……仕事で、転勤が決まったんだ」
「えっ……」
転勤がある会社だとは知らされていなかった。なので、突然の転勤話に私も戸惑う。
「どうして急に??今までそんな話出なかったじゃない」
「いや、実は前から出てたんだよ」
「嘘……」
「嘘じゃない。既婚者じゃないから転勤も問題ないだろうって上からも何度も言われてたんだ。けど、真樹がいたから断ってた。それに転勤じゃない代わりに出張が多かったんだ」
まるで私が原因のように言う悠介が理解出来なかった。確かに出張だと言って数日いなかった事もあった。だが、それは会社都合であって私が原因ではない。悠介が続けようとしている言葉を聞きたいような聞きたくない気持ちで待つ。
「今回の転勤を断ったら、会社を辞めなきゃいけないんだ」
「転勤を断るだけでクビなの??」
「違う。今後昇給も昇進も難しいだろうと言われた。でも、実際は会社を辞めろと同義語だろ??だから、受けざるを得ないんだ」
分かってくれと懇願してくる悠介に、私は疑問が生まれる。
「………転勤は悪い話じゃないんでしょ??私達が遠距離になるだけで。それだったらお互い休み合わせて会えばいいじゃない」
私は何とか明るく未来の話をするが、悠介の表情は暗いままだ。
「………真樹、別れてくれないか??」
「えっ……」
今、最も悠介の口から聞きたくない言葉だった。私は耳を塞ぎたかったが、膝の上で手を握りしめ耐える。
「どうして、別れなきゃいけないの??時間見つけて会いに行くし、それが嫌ならついて行っても「そうじゃないんだ」……どういうこと??」
私の言葉を遮りながら、悠介は手を額に当て髪を掻き毟るようにしながら言う。
「真樹との付き合いは落ち着くし、癒されたよ。でも、転勤して離れた場合仕事に暫くは集中したい。それがいつ落ち着くか分からないまま待たせるのも申し訳ないから……」
「………つまり、私は悠介にとって邪魔って事??」
「そんなことないよ!!真樹の事は好きだよ。ただ今は真樹との今後の事を考えている余裕は無くて……」
悠介の言葉を聞きながら、私の脳裏には今も絶え間なく2人で過ごした思い出が流れていた。決して色褪せる事無く彩やかな色に染まっていた。私が何も言わないのを不満に思ったのか、悠介は面倒くさそうに言った。
「真樹はどう思ってるの??別れる、別れないの前に真樹の話も聞きたいんだけど」
急に呼んで別れ話を始めたくせに、私の話を聞く気があるのだろうか。
私が自分の気持ちを言うと喧嘩になるのは目に見えている。争うこと避けて何も言わないでいるのは、まだやり直せると願っているからだ。話せば分かってくれるのだろうか。そう信じて悠介に伝える。
「………悠介と過ごした3年間は凄い幸せだったよ。悠介の笑顔を見ると私も元気を貰ってた。そんな楽しくて幸せな日々が続くと思ってた。お互いに笑い合える明日があると信じてた。けど、悠介の未来に私はいないんだね??」
「…………ごめん」
気まずそうに頭を下げる悠介に、今この場所で生まれた気持ちをぶつける事は簡単だ。でも、ぶつけたところでどうすることも出来ない。叶うのであれば、また悠介の隣に並んで歩きたい。そんな日が来るのを、ただその時を待つように過ごすしかないのだろうか。でも、待っていてもその時は訪れないようだ。
悲しくて、悔しくて、寂しくて涙が止まらない。大好きな悠介に見せたいのは泣き顔では無く笑顔なのに。今までの悠介ならこんな時優しく抱き締めてくれたのに、今は手を伸ばす事もしない。むしろ、バツが悪そうに目を逸らすだけだ。
「…………悠介の仕事が落ち着くのを待っていても、もう私と付き合う気は無いのね??」
再度確認するように悠介に訊くと、ゆっくり大きく頷く。
「そっか。残念だなぁ……」
「嫌いになった訳じゃないんだ。ただ、離れても同じ気持ちを維持し続けられるか不安なんだ」
「転勤でそんなに気持ちが揺らぐなら、この先も無理だって事でしょ??私は結婚も視野に入れてたけど、悠介は違ったんだね」
「…………そう、だな」
「分かった。でも、見送りはさせてね。いつ引っ越すの??」
私が思ったより物分り良く別れを承諾したのに驚いていたが、悠介はスケジュール帳を見ながら「2週間後の日曜」と教えてくれた。
「分かった。じゃあ当日だと忙しいだろうから、前日にお邪魔してもいい??」
「うん、最後に一緒にご飯でも食べよう。お酒も買っておく」
「作ると洗い物増えちゃうから、何か買ってくるよ。後で連絡するね」
そう言うと私は荷物を手に取り、引き留めようかと迷ってる悠介に背を向け部屋を出た。
悠介のアパートを出た後、私は近くの公園のベンチに腰掛けた。自販機で買った甘いカフェオレを飲みながら一息つく。
(悠介、最後まで笑顔見せてくれなかったな……)
私は終始どういう表情をして話をすればいいのか分からなかった。せめて、もう一度笑ってくれたらいいのにな。そうしたら私もおどけてみせるのに。
私は立ち上がり、飲み終わったカフェオレの缶を捨てる。公園を後にして自分のアパートまでの道をゆっくり歩く。脳裏に浮かぶのは悠介と過ごした日々だ。
(最後くらいはわがまま言っても良かったかな…)
喧嘩別れはしたくないから、自分の本音は言わなかった。けれど、悠介にとっては私の本音が分からないから、不安になったのかもしれない。この押し殺した気持ちが私達の心を歪ませたとしても、最後のその日までは大切にしたかった。
悠介が引っ越す前日。
空に流れる雲を眺めながら歩いているうちに、悠介のアパートに着いた。チャイムを鳴らすが応答が無い。今日返す予定の合鍵で中に入ると、イヤホンをしながら梱包作業している悠介がいた。そっと近付き、肩を軽く叩くと悠介は肩を揺らして驚いた。
「びっくりした……。チャイム鳴らせよ」
「鳴らしたよ。気付かなかったのは悠介よ」
「そっか、ごめん」
部屋を見回すとすっかり綺麗になっていた。残されているのは必要最低限の物だけだった。冷蔵庫も無ければ電子レンジ等も無かった。温めなくてもいい物を買ってきて良かったと、スーパーの袋をデーブルに置いた。それを見た悠介は梱包作業を止める。
予め買っておいたのであろうお酒も出してくると、テーブルに次々と出す。
「ちょっと、そんなに飲み切れるの??」
「あっちに持ってっても荷物だからな。最後だから付き合えよ」
「分かった」
悠介はそんなにお酒強くないはずだが、飲むと言うのであれば付き合おうとテーブルの前に座る。悠介がグラスを持ってきて、お酒を注いだ。2人で最後の乾杯をした。
2人きりの宴も長い事続き、外はすっかり暗くなっていた。スマホで時間を確認すると23時を回っていた。終電が出る前に帰ろうと思い、荷造りを始める。悠介は顔を真っ赤にしてテーブルに突っ伏していた。肩を揺すって起こそうとするが、唸るだけで起きる気配は無かった。黙って帰ろうかと思い書き置きを残そうとメモ用紙を探す。
その時、悠介のスマホが通知を知らせる。見てはいけないと思いつつ、視線がそっちにいってしまう。
メッセージを見て私は凍り付いた。
『悠くん、明日何時頃着くの??早く一緒に暮らしたいな』
ご丁寧にハートマーク付きの可愛らしいメッセージだった。私は全てを察した。悠介は浮気をしていた。そして、私より浮気相手を選んだ。恐らく、出張先で作った浮気相手だろう。今回の転勤先もよく出張に行っていた地域だった。私と別れる理由が何か無いかと思ってる時に出たのが転勤だったんだ。転勤を理由に私と別れて、向こうで既に新しい生活を送る準備を整えていたのだ。
そこまで短時間で考え、私は何かが吹っ切れた。
残っていたお酒を次々とコップに注ぎ、買っておいたストローをコップに入れる。悠介を無理やり起こし、寝ぼけ眼で「…なんだよ」と文句を言う。それを無視し悠介の口を無理やり開けさせストローを入れる。
「二日酔いに効くドリンクだから、全部飲んでね」
アルコールと眠気で頭が回ってないのか、悠介は素直に頷いて全部飲み切った。
そんなに一気に飲んだら急性アルコール中毒になるとも分からずに。
後はどうにでもなれと思い、書き置きだけ残した。今までのお礼と飲み過ぎないようにだけ書いた。
「さよなら、悠介」
床に倒れている悠介に挨拶をし、荷物を手に取り、合鍵をテーブルに置いて部屋を出た。
外は街灯の明かりだけで、周囲の家も電気はとっくに消えていた。部屋まで戻る間、さっきまでの会話を思い出す。飲みながらデートで行った場所、お揃いで買ったお土産など話題は尽きなかった。悠介は気まずそうに笑っていたが、その理由は浮気していたからだと分かると納得した。今までの付き合いはなんだったのだろう。悲しくなるが、涙は流さないと決めた。
めぐり逢った季節を私は悲しい記憶で終わらせたくなかった。笑顔で染めたい気持ちでいっぱいだった。
悠介、あなたは春の日の陽射しのように優しい人だったね。
いつまでも悠介の側にいられると思ってたよ。
明日また会うかのようにさよならを言えた私に、私と付き合えた事を誇らしく思ってくれるかな。
悠介、あなたの最後の日に──────