2 真っ白な薔薇の花
梅雨の晴れ間、六月の日差しはじりじりと住宅街に照りつけていた。
水垣市役所までは、僕たちの住まいからのんびり歩いて、三十分ほどの道のりだ。
街は驚くほどひっそりと静まり返って、ほとんど誰ともすれ違わなかった。時折、窓の開いた家の中から、音楽や映画の鑑賞中らしい音や、たどたどしく楽器を練習している音が聞こえてくる。
鳥の声がやけに響く。
なぜだろう、と考えて、車の音がしないのに気がついた。
それをタエに言うと、タエは軽く肩をすくめた。
「あんなもの、お互いに共通のルールを守るって信頼がないと、怖くて乗れないでしょ。もうそんな前提なんて、とっくに崩れてるじゃん。あと一週間しかないんだよ。今生き残っている人は、交通事故で無駄死になんかしたくないと思う」
車に乗っているときだけ自分が強くなれるような気でいて、車に乗らないではいられない人々は、最初の一週間のうちに交通事故に遭って、車か命を失っただろう、とタエは言う。
その通りだ、と僕は納得した。タエはどこかふてくされてナナメに世の中を見ているようだけれど、コメントはいつも的確なのだ。
僕たちの予想通り、市役所には誰もいなかった。時間外窓口の自動ドアも電源が落とされていた。
「強行突入しかないか」
楽しそうに言ってタエは辺りを見回した。転がっていた鉄パイプを指さす。
「ほら、キョウ」
「タエちゃんに、そこまでやる気があると思わなかったな」
僕は笑った。
結婚なんて、制度に縛られて不自由で、二人のどちらかが名字を変えるなんて面倒がついて回って、一つもいいことがないからしたくない、というのが、彼女の持論だった。僕にもおおむね異論はない。
二人の意見が一致しなかったのは、子どものことだけだった。僕は、タエの赤ちゃんなら絶対可愛いから、子どもがほしいな、と思っていた。けれど、タエはそれも、仕事を休む手続きなんかが未婚だと面倒だ、と積極的にはならなかった。僕だって、渋るタエを説得するほど切実な欲求ではなかったから、その話はいつもそこでおしまい、になっていたのだ。
「だって、強奪じゃないもん。置いてくるだけでしょ」
タエも、にやっと笑ってみせた。このいたずらっぽい笑顔も、僕がタエを好きなところ。
二人で強引に侵入して書類の欄を埋めていくうちに、気がついた。
「証人、いないや」
「このまま出していく?」
タエは言ったが、僕は首を横に振った。
「意味がなくてくだらないことほど、細部を大切にしたいんだ」
それもそうだね、とうなずいて、タエは、二人で書いた婚姻届を自分のバッグに納めた。
◇
僕らは再び家に向かって歩き始めた。
少し回り道した川沿いの堤防は、やはり静かだった。ごくたまに、ジョギングやサイクリングをする人とすれ違った。今さら健康のためってわけでもないだろうから、純粋に走るのが好きなんだろう。
隣町に通じる、大きな橋のたもとに差し掛かったときだった。
「お二人さん、仲がいいねえ。散歩かい?」
ふいに掛けられた声に振り向くと、日に焼けてくしゃくしゃにしわの寄った顔をして、歯の抜けた顔いっぱいに笑う老人がいた。その顔に、なんとなく見覚えがあった。
僕がタエの部屋に転がり込んで同居するようになった時期からずっと、この橋の下でよく見かけていた路上暮らしのおじさんだ。
声を掛けられたのはこれが初めてだった。
「婚姻届、出しに行った帰りなんです」
にこにこして、タエが答えた。
「新婚さんかい。アツアツだねえ」
「おじさん、アツアツはさすがに古い。センスが昭和」
タエは笑い転げる。おじさんはばつが悪そうに頬のあたりをかいた。
「中身は同じじゃねえか。まあ何にせよ、おめでとさん」
僕はひらめいて、その思い付きの尻尾を逃さないように慌てて言った。
「まだ、めでたくないんですよ。証人がいなくて、届が出せなかったんです。ねえ、おじさん、これも何かのご縁ですよね。証人になってくれませんか」
「なんだ、金なんかねえぞ」
「お金はいらないんですよ。名前を書いてハンコを押すだけ」
「それだよ! そう言われて、ダチの借金の連帯保証人になって、おれの人生おかしくなったんだあ」
しみじみ言うが、彼の目にはきらきらと楽しげな光が踊っていた。タエも彼のそんな調子に気がついていて、くすくす笑った。
「借金の証文じゃないもん。婚姻届。ね。読んで、おじさん。納得したらでいいから」
タエがバッグから出した件の書類を見せると、彼は受け取って眉根を寄せ、じっくり読みこんだ。
「うん。これならいい。おまえさんたち、恭一郎くんと、多恵子さんかい。いい名前だねえ」
そう言っておじさんは、タエが渡したボールペンで、証人の欄に名前を書いてくれた。堂々とした、大きな文字だった。
井上 誠哉
「おじさんはセイヤさんっていうんですね。かっこいい名前」
「息子ができたら、つけてくれよ」
タエの言葉に彼はそう応じると、自分の冗談に、歯のない口を大きく開けて笑った。
タエは、どこか外で食べてもいいかも、とバッグに入れてきていた、焼いたばかりのパンを差し出した。
「これ、少ないですけど、引き出物」
「お祝いも渡してねえのに。ちょっと待っててくれよ」
慌てたように河川敷の草むらの中に姿を消した彼は、数分後、戻ってきた。その手の中には、真っ白な薔薇の花が五輪、束ねた茎を草でまとめられていた。
「ここで五年かけて育てて、今年やっと花が咲いたんだ」
「うれしい!」
タエは手を叩いて喜んだ。
「そんな貴重なお花、いいんですか」
僕がたずねると、彼はからからと笑った。
「死んだかみさんのために育ててたんだ。もうすぐあの世で会えるし、あいつも咲いたのを空の上から見てただろうから、もうそれは用済みなのさ。おれだってラジオぐらい聞くから、世の中で何が起こっているかは知っている。あと一週間なのに、わざわざ結婚しようっていうおまえさんたちの心意気に惚れたんだよ。結婚って、いいよ。うちのかみさんは最高にいい女だったんだ。多恵子ちゃんと同じくらいね」
僕たちは、花と引き換えに引き出物を受け取ってくれた井上さんに深々と頭を下げた。
それから二人で市役所に戻って、井上さんに署名と拇印をもらった書類を受付の窓口の中にそっと差し入れてから、家に帰った。二人必要な証人欄はもう一つが空欄のままだったけれど、もし受理してくれるなら、よかったら、窓口の人が埋めてください、と書き添えておいた。