1 世界の終りまで、あと七日
朝テレビのスイッチを入れると、ニュースキャスターが「おはようございます。世界の終わりまであと七日になりました」と言う。
続いて、繰り返し報道されたせいで見慣れてしまった、異星人が無機質な口調で最後通告を述べるインタビュー映像。
タエは、コーヒーの湯気ごしに、憐れむような視線をテレビにちらりと投げ、鼻をならした。
「相変わらずだね。これだからマスコミは」
「タエちゃん、何が不満なの」
面白くなって僕は訊ねた。
「まず、世界って何なの。終わりってどういうこと? そんな重要な言葉の定義もしないまま、深刻な顔で、あと七日になりました、なんて唐突に言われても。一か月くらい前から昨日までテレビもつけず、ネットも見ずに引きこもってた人が今これを見たら、ぽかーんだよ」
タエの剣幕に、真面目だなあ、と僕は内心頬を緩めた。
「なら、もしタエちゃんがニュースの原稿書くとしたら?」
「そうだなあ」
タエは頭の後ろで手を組み、真剣な顔で天井を見上げた。柔らかいセミロングの髪が、遅れてさらりと流れた。
不真面目な僕は、彫像のように完璧できれいなその白い喉元をこっそり鑑賞したりとか、少しのけぞるようなタエの姿勢に、全然違う理由でのけぞって呼吸を荒くしていた昨夜の彼女の記憶を重ねてみたりとか、ろくでもなくて最高に楽しいことばかり考えている。
机の上で手を重ね、背筋を伸ばしたタエは、口を開いた。
「月の周回軌道上に宇宙船を停泊した、恒星系アルファ=ケンタウリからの異星人の船団が、地球を植民地へと改造する計画を発表し、既存の地球の生命体を一掃する期限を宣告してから、早、三週間が経ちました。期限を一週間後に控え、ここ水垣市にも、緊張が走っています」
女性キャスターのまねをして、平板な口調で言うタエの真面目くさった仕草に、僕はふきだした。
「タエちゃんこそ。ここ水垣市にもって言うけどさ、見たわけ」
「見てない」
第一報の直後の混乱をへて、僕の勤めているデザイン事務所も、タエの職場である予備校も、Xデーまでの休業を決めた。以来僕たちは、ねぐらである賃貸マンションの一室から一歩も外に出ていない。当然誰とも会っていない。
「僕もタエちゃんも水垣市民だけど。全然緊張してないよ」
「だね」
「じゃあ、大嘘じゃん。今週タエちゃんが目撃した水垣市民は、百パーセント緊張してない。走ってもいない」
「それは常套句ってやつでしょ」
タエはちょっと赤くなってふてくされる。こういうところがかわいい。
画面の中では、ふいに、キャスターの顔がアップになった。高精細な映像は、涙ぐんだ彼女の、にじんだアイラインまでくっきりと捉えている。
「本日まで、この番組を使命感を持って皆様にお伝えしてきましたが、我々にとっても、世界のタイムリミットは後七日です。スタッフ自身の人生の質を鑑みて、当テレビ局は報道機関として一定の役割を果たし終えたものと考え、生放送での報道と新番組の制作を終了することを決定いたしました。視聴者の皆様、ここまでお付き合いありがとうございました。どうか良い一週間をお過ごしください」
お決まりのエンディングの音楽とともにカメラが回って、普段は画面に映らない沢山のスタッフが拍手したり、頭を下げたりする様子が流れた。
その映像も、音楽の切れ目でふつりと途切れる。その後は、ただただ柔らかな音楽と自然や街角の景色がセットになった、深夜の放送休止前みたいな番組が垂れ流され始めた。
「何これ」
白けたような声で呟いて、タエはまた鼻をならした。
「僕らは一足早く休みになっちゃったけど、この画面の中にもきっと、仕事していないで家族と過ごしたい人もいるでしょ。死ぬ前に一目、海を見たい人とか。異星人がどんな方法で僕たちの絶滅を実行するのかはわからないけど、万が一生き残れる可能性に賭けて、エベレスト……は、今からじゃ無理か。でもまあ、富士山の頂上くらいまでは何とか登りたいって人だって」
「エベレスト、無理なの?」
「無理だよ。ニュース番組が終わったのと同じ理由で、飛行機なんか飛ばない」
僕が言うと、タエは笑った。
「それもそうか」
「タエちゃんは、今、何がしたい?」
「ええと、冷蔵庫にあるもの食べて、掃除したい。この話の通りだったらまだ一週間はあるんでしょ。洗濯もしないと足りなくなるな。久しぶりにいいお天気だし。お昼はもやし焼きそばね。もやしとかまぼこ、食べ切らないともう傷んじゃうから」
タエは指を折って数える。
「えー、焼きそばにかまぼこ入れるの」
僕のささやかな抗議はあっさり無視して、もう一つ指を折る。
「それと、小麦粉がまだあったでしょ。パンを焼きたい」
「海外旅行したかったなーとか、贅沢な洋服を着たかったなーとか、ないわけ」
「飛行機が飛ばないって言ったの、キョウじゃん」
「たとえば、だよ」
「今までだってさ、一週間夏休みがありますって言われて、海外旅行なんて、わたしたち計画したこともないよね。それに今の理論で行けば、お店もやってないでしょ。贅沢な洋服なんかどこに行っても買えないよ」
「いっそ、強奪してくる? デパートを襲ってさ」
僕が棒を構える仕草をすると、タエは白い目で僕を見た。
「そこまでして、欲しい?」
「そうだなあ。僕はどちらかと言えば、タエちゃんに素敵な洋服を着せるより、タエちゃんから素敵な洋服を脱がせる方が好きだ」
「ばっかじゃないの」
冷たい口調で言うと、タエは、引き戸を開けたままにしていたリビングの隣のベッドルームに向かった。マットレスから真っ白いシーツをはぎとって、ついでに引き出しから、新品の水色のシーツも取り出す。
「しまい込んでても仕方ないし、きれいなシーツで寝たいよね。糊、落とそうっと」
ダブルサイズの二枚のシーツを抱えて、脱衣所に向かう。
洗濯機に水が吐き出されていく、ごぼごぼという音が聞こえはじめた。
◇
タエと知り合って、もう二年ほどになる。なんとなく気が合って、いつの間にか付き合う感じになり、するすると一緒に住むところまで進んだ。大げさじゃなく運命的な出会いだった。けど、タエのことがもっと好きになったのは、この三週間だ。
今までだってすごく好きだったんだから、そんなことが可能だったなんて、僕自身、驚いているんだけど。
タエは、このわけのわからない事態にも、全く動じなかった。
はじめに起こった買占め騒動も、さらっと受け流した。水垣市は数年前大きな水害で、交通の主要な経路が数日遮断されて、物が一切買えなくなったことがあった。それをきっかけに、タエは普段から使う缶詰や乾物なんかを上手く組み合わせて買い置きし、ベランダ菜園まで作って、大人二人程度なら一か月間、細々と生き延びられるだけの備えを常にしていたのだ。
僕は、そもそも一年先の将来だって何も考えていない、ちゃらんぽらんな人間だったから、いつ来るかもわからない災害に備えるタエを尊敬していたし、言われるがままに協力もしていた。けれど正直なところ、よくやるなあ、なんて思ってもいたのだ。まさかこんな風に役に立つなんて。
それでも、あと一か月で自分たちは全滅させられると聞けば、うろたえる人間も多い。外では、買占め騒動に引き続いて、略奪や無差別な殺人や傷害も横行したらしい。ところが、タエ自身は、『世界の終わり』に何の動揺も見せず、テレビからそんな理不尽な暴力の情報が流れてくると、「くっだらない」と鼻をならして、コンセントを抜いて、すっかり外界から引きこもる構えを見せた。
この三週間、僕とタエは、実に健康的な生活を送った。
ベランダ菜園の世話をして、生ごみは段ボール箱で作ったコンポストに入れる。積み上げたまま未読だった本を読む。くだらない冗談を言い合う。ボードゲームで頭を絞り、何時間もかけて真剣に対戦する。その気になれば、どちらからともなく、身体を重ねる。
食事をする。眠くなったら眠る。洗濯する。掃除をする。ただくっついているためだけに、隣に座る。
こんなにずっと誰かと一緒に過ごして、それがこんなに心地よかったのは、この三週間を除くと、幼稚園に上がる前くらいじゃないだろうか。
僕はすごく満ち足りていた。
そんな生活を送るうち、聞こえてくる外の世界の音も、ずいぶん静かになっていた。一時期ひどかった、怒号や衝突みたいな騒音もおさまった。
それで、久しぶりに朝のニュースでも見てみようか、と、テレビの電源を入れたのだった。
◇
かまぼこを入れたソース焼きそばを食べ終わった後、皿を洗っている僕に、ソファに座っていたタエが振り返ってふいに尋ねた。
「キョウは、何がしたい?」
「そうだなあ。できるだけ意味がなくて、ばかばかしくて、今までしてこなかったこと」
「それって、やりたいことなの」
タエはくすくす笑った。
「だって、やりたいことはこの三週間、たっぷりやってきてるじゃん」
「キョウが言うと、なんかいやらしいよね」
「いやらしくないって。大好きな子と二人きりでいたら当たり前でしょ」
「またそういう屁理屈を言う。っていうか、否定はしないんだ」
「あ、それで思い出した。アレ、もう買い置きがないんだ」
僕が言うと、彼女は小首をかしげた。
「アレ?」
「例のゴム製品」
「えー。さすがにそれは、自給自足できないなあ」
「自給自足……!」
眉尻を下げて天井を見上げた彼女に、僕はふきだした。その発想はなかった。
「あ、じゃあ、したいこと思いついた。もうちょっと建設的なヤツ。水垣市役所に行きたい」
「はあ?」
「市役所に行って、婚姻届を出す」
「建設的? どこが?」
心底呆れた、という顔で、タエが僕を睨む。
「だって、無しでするのは結婚してからだって決めてたじゃん」
「そのため? あと一週間で全部終わるのに?」
「ほら、最高に意味がなくて、ばかばかしくて、今までしてこなかったこと」
「一見ロマンチックな提案だけど、すごく即物的だよね」
タエはばっさり切って捨てたけれど、ソファから立ち上がって伸びをした。
「でも、久しぶりに散歩するのは楽しいかも。ついでのジョークとしては、ばかばかしくて最高だし。そのお皿洗い終わったら行こうか」
僕がタエを好きなのは、この、僕と同じようにくだらない冗談をこよなく愛していて、そのためなら労をいとわないところでもある。