四月一日さんは嘘をつく
幼い頃から、勉強で結果を出すことでしか自分を認めさせる手段を持たないタイプだった。
しかし元々勉強が好きだったかと問われれば決してそういうわけではなく、むしろ苦手意識を持っているとさえ言えるだろう。
同じテスト範囲に何人も登場する北条さんを乗り越えた後にやってきた徳川一族の名前は半泣きになって覚えたし、曲線を見れば数式に変換するような人間には到底なれそうにない。眼鏡が賢そうな印象を与えると見えて街中で外国人から声をかけられることは多いが、ほとんどは交番へ引き渡して終わるという残念な結果になっている。受験勉強で叩き込んだ英単語が日常生活において役立つケースは稀なのだ。
そんな私にとっての勉強というのは、ただ努力の経過も含めて分かりやすく認めてもらえる手段、いわば自分の価値を見出すためのツールでしかない。
虚しい理由だが、何か達成したい目的があるよりも、それをしなかった場合に回避したい事態がある方が、人はやる気になるものだ。私にとっての回避したい事態というのはアイデンティティの喪失であり、称賛の裏にいつもある落胆に怯えながら勉強を続ける日々だった。
お陰でこの歳まで学生らしい青春を謳歌したことはない。
忘れもしない昨年四月、入学式の会場で彼と出会うまでは。
授業開始二分前になって席に着くと、すかさず隣の席から幼馴染みの声が飛んできた。
「まこちゃんギリギリだよ。また小鳥遊くんで遊んでたの?」
「……た」
「うん? 何?」
「すっ……ごい木苺パンケーキに食いついてた」
ため息をつくようにそう報告すると、早くも興味をなくしたらしい幼馴染みはどうでもよさそうに教科書へ目を落とす。
「ああ……うん、よかったね」
「どうしようめっちゃくちゃ可愛かった……店長にそれとなく勧め続けた甲斐があったってことかな!」
「うんうん、おめでとうだけどそれ、教えちゃっていいの? まだ公式発表前なんでしょ」
「いいの。どうせ小鳥遊くんからすれば、私が言うことなんて全部嘘にしかならないんだし」
「自分でそう仕向けた癖に。相変わらずのオオカミ少女だねぇ」
四月一日誠は嘘つきである。それはきっと、彼の中で未だに揺らぐことのない確固たる事実。
よりにもよってエイプリルフールの日付をチョイスしてしまったこの名字のお陰で、これまでに嘘つきと揶揄われてた回数はもはや数えきれない。
普段の私はそれこそ名前の通り誠実な人間であり、人様に対し嘘をつくことなど滅多にないのだが、それでも一組の彼に対してだけは別である。
嘘の豆知識を吹っかけ、彼の行きつけの店に関する情報を偽り、昔話に関するトリビアまでねじ曲げる。ご丁寧に暇な時間を見つけてはわざわざ一組まで出向いてそんなことを繰り返しているのだ。
側から見れば完全な嫌がらせ、よほど彼のことが嫌いなのだろうと映るかもしれないが、しかし私は決して彼を困らせるつもりでこんなことをしているわけではないのである。
それならば何のためにこんなことをしているのかというと、その答え自体は意外と単純。
「いつまで経ってもそんなんじゃ、告白だって本気にされないよ?」
──彼こそが、私の十数年の人生の中で初めてできた好きな人だからだ。
「わ、分かってるけど……とにかく今は接点を持ち続けることが目標だから!」
幼い頃から勉強しかしてこなかった私には、他の女の子たちのように可愛らしく声をかける手段など持ち合わせていない。
ましてや勇気を振り絞って声をかけにいった先で、声をかけてきた他の女子たちを「勉強の邪魔だ」の一言で一蹴する彼の姿を目にしてしまえば、私の中にあった普通の方法で声をかけるという選択肢すらも砕け散ってしまうのも仕方のないことだろう。
拒絶されるのは怖い、しかし声をかけたいというのは事実。それならばと思い考えついたのが、私の名字にも関連した手段、彼が最も嫌うであろう「嘘」だった。
どこまでも真面目で勉強熱心な彼ならば、きっと間違った情報を前に声を上げずにはいられないだろう。
彼からのレスポンスを得るためには「今日いい天気ですね」よりも「パイナップルって実は草に分類されるらしいですよ」の方が効果的なのである。きっと間髪入れずに「そんなバナナ」という訂正文句が返ってくるに違いない。
オオカミ少年が大人たちを揶揄うために嘘を用いたように、私と彼とを結びつけるために最も効果的な手段は「嘘」なのである。
オオカミ少年の物語の結末については、一時的に目を瞑るとして。
「小鳥遊順くん。成績優秀、スポーツ万能。だけど入学以来万年二位で今ひとつな生徒会長。そうでなくたって彼、有名な堅物人間じゃない。よく知らない人のことあれこれ言いたくないけど、あんなののどこがいいの?」
「どこがって、それは……かっこいいし、優しいし、頭いいし……それに、いつも堂々としてるのに、甘いものの前ではちょっと雰囲気が柔らかくなるのも、可愛いなって思うし……」
彼の行きつけのカフェでバイトを始めたのも、すべては彼の好物である木苺関連のメニューを増やすため。店長にそれとなく進言し続けたお陰で、ようやく木苺のパンケーキが実現する段階までやってきたのだ。
何としてでも高い評価を獲得し、次なる木苺スイーツに繋げなければ。
彼の仏頂面がほのかに綻ぶあの瞬間を、もう一度現実のものにするために。
「可愛いとか言ってる時点で手遅れ感がすごいな……それの頭いいってところ以外を直接本人に言ってあげれば一発だろうに」
「言えるわけないでしょ。そんなんじゃ小鳥遊くんに声かけて玉砕した女の子たちと同じ結果になるだけだって分かってるんだから」
「一位争いしてる間は素直になれないってやつ? じゃあ次のテストはおれが一位とっちゃおうかな」
「だめ!」
「何でさ」
思いの外大きくなってしまった声にクラスメイトがこちらを振り返るのを感じつつ、誤魔化すように声を潜めた。
「……一位じゃなくなったら、小鳥遊くん、私の相手してくれなくなっちゃう」
口にしたのは、勉強以外に自分を認めさせる手段を持たない私らしい理由。
何の言葉も返してこない幼馴染みを見やれば、もっと別の方向に努力のしようがあるだろうと言わんばかりの顔であんぐりと口を開けていた。
「……いや〜……いやいやいや、そんなことないと思うけどねぇ」
「そんなことあるの! 絶対そう! 小鳥遊くん、まっすぐ前しか見ない人だもん……小鳥遊くんにとって、その他大勢の有象無象にはなりたくないの」
「有象無象って……なかなかな言い草だなぁ。まっすぐ前だけ見て四位以下はアウトオブ眼中なのまこちゃんの方なんじゃないの?」
そんなことはない、はずである。少なくとも彼よりは周りを見るように心がけているはずだ。
彼のように、昼休みでも教室の真ん中で参考書を広げながらおにぎりを食べる度胸など、私にはないのだから。
「でもさ、定期テストがあるのって卒業までの間だけなわけじゃん。卒業したらどうするのさ。諦める?」
「……諦めないために、こうして頑張ってるんだよ」
彼に近付くために、本当を交えてついた嘘。しかし、いつまでも今のままでいられないということは私も理解していて、だからこそこうして勉強に勤しんでいるのだ。
「三年間、一位の座を死守できたら……面と向かって、『本当』を伝えられる気がするから」
既に私にとっての勉強は、周囲に自分を認めさせるためのツールというだけの意味合いのものではなくなっている。
いつも答案用紙にしか吐き出せない真実を、伝えたい相手が出来てしまったのだ。そのために、私は今日も明日も、ペンを握り続ける。
「だから次のテストも一位になってみせる。虎彦にも絶対、譲らないからね!」
「はいはい、頑張って〜。おれもそれなり〜にゆる〜く頑張ってまた三位ら辺に落ち着くからさ」
聞く人が聞けば発狂しそうなセリフだ。一組の彼と違って、その自覚があるだけにたちが悪い。
そのうち誰かから恨みを買って刺されでもするのではないかという私の心配をよそに、幼馴染みはつまらなそうな顔で呟いた。
「……難儀だねぇ」
難儀。その言葉は私と彼との進展のない関係に対して向けられたものか、それともこんな形でしか接点を持つことができない私自身に向けられたものか。
勉強一辺倒だった私が突然男子に興味を持ち始め、休み時間のたびにアタックし、唯一の男友達に逐一報告しているとなれば、呆れられてしまうのも仕方のないことかもしれない。
たとえこの先、何らかの形で彼との距離が開いてしまうことがあったとしても、彼とはいつまでも本当の友達でありたいと思う。
思っているだけで実現可能なものかどうかは置いておくとして、何事も願わないことには叶わないことを、私は知っているのだから。
授業開始のチャイムが鳴っても開かれることのない扉を見つめ、手を伸ばすにはあまりに遠く、難儀と言われ続けた理想を現実のものにするために、手の中の単語帳へ目を走らせた。