小鳥遊くんは嘘をつく
幼い頃から、勉強すれば勉強しただけ結果が出るタイプだった。
さすがに勉強をしなくても勝手に学力がつくというわけではないが、元々学ぶことが嫌いではなかった俺にとって、勉強との相性の良さというのは非常に都合が良く、お陰でこの歳まで挫折らしい挫折を経験したことはない。
社会に出た後ならいざ知らず、学生生活というのは何かと学力によって左右されがちなものである。学校という組織の構造上、スクールカーストというものもなくはないが、そういったものの上位に位置する者たちは、往々にして成績上位者に対し積極的に楯突こうとはしないものだ。
過去に妙ないちゃもんを付けられたことはないでもないが、かけらほどの論理性もない文句など痛くも痒くもない。
学生にとって、学力とは歴とした武器たり得る力であり、ある程度まで高めれば一種のステータスにもなり得るものなのである。
飛ぶ鳥落とす勢いだとか、まさに向かうところ敵なしだとか、そういった賛辞はこれまで何度も耳にしてきた。
こう言っては悪いが、周囲にとっての努力は俺にとっての日常、ただのルーティーンでしかなく、それをいちいち褒められたところで、立って歩いただけで褒められる赤子のような扱いを受けている気分にしかならない。喜ばしいどころか却ってうんざりする。
勉強自体は嫌いではないのだ。自分の中で形を持たなかった知識が、外からの刺激によって輪郭を帯び、中身を得る。その感覚は何にも代え難い。だからこそここまで学ぶことを苦に思うことなくやってくることができた。
自他共に認める順風満帆な日々。少し前までの俺は、愚かしいことにこんな穏やか毎日がこれからも続いていくものと思い込んでいたのだ。
忘れもしない昨年四月、入学式の会場でこいつと出会うまでは。
「──そういえば、知ってます?」
休み時間とあって騒がしい教室の中で、周りの声を押し除けて耳に届く気の抜けた声。
例えるならそれは程よく溶けた生クリームのような、そんな掴みどころのない柔らかさをしている。
「タマネギって世界で一番栄養がない野菜として世界記録になってるそうですよ」
ごく自然に繰り出される豆知識。会話のきっかけにしかならないような雑学が何でもない顔で披露されるのを聞き、ノートの上で忙しなく駆けずり回っているペンを止めた。
「嘘だな。世界で一番栄養がない野菜はキュウリのはずだ」
「正解です。さすが学年二位になるだけの実力はありますね。クイズ番組にも出られるんじゃないですか?」
間違いではなく嘘だと指摘されたにもかかわらず、そいつは大して気を悪くした様子もなく、むしろにこやかに拍手までする始末。
分かってはいたものの、やはり故意にねじ曲げられた情報か。些細なこととはいえ、俺でなければ見逃すところだった。
「お褒めに預かり光栄だ。今日この素晴らしき日の出来事を後で手帳にメモしておこう」
「またまた大袈裟な。一般生徒からの賛美なんて日常茶飯事でしょうに」
「一般生徒? よく言うよ──学年一位様が」
定期テストの際、廊下に名前を貼り出される上位十名というのは大抵、今いち新鮮味に欠ける顔ぶればかり集まるものだ。
隙間時間を見つけてはこうしてわざわざ別のクラスからやってくる彼女にしても同じである。入学以来、何度も行われた定期テストで、一度として頂点に彼女の名前がなかったことなどない。
彼女こそ、十数年あまりの俺の人生の中でほとんど初めて現れた、宿敵とすら呼べる人物である。
「たまたまですよ。次こそ小鳥遊くんに抜かれちゃうかも」
社交辞令半分、もう半分は嫌味か皮肉か。どちらにせよろくなものではないと踏んだ俺は再び手元の問題集に目を落とすが、そんな俺の視線を拾い上げるように、声が降り注ぐ。
「そういえば、知ってます? 小鳥遊くんがよく行く駅前のカフェが新メニューを出したそうですよ? 小鳥遊くんが好きそうな木苺たっぷりのパンケーキ……」
「は⁉︎ そんな話、朝まではどこにもっ!」
突然降って湧いた新情報に思わず携帯を取り出して真偽を確かめようとするも、俺の親指がメールアプリに触れようかという一瞬前、すんでのところで彼女の真意を理解した。
「…………嘘だな」
「本当とは言っていないですね」
悪びれもなく笑う彼女の表情からは、面白い反応が返ってきたことへの喜びめいたものしか感じ取れない。
こいつがこういう女であることは俺も重々承知していたはずだというのに、またやってしまった。
「今は個々人のネットリテラシーが求められる時代ですよ。小鳥遊くん」
「……名は体を表すんじゃなかったのか。四月一日誠」
「名が体を表すなら桃太郎は桃頭になってるはずじゃないですか。そういえば、知ってます? 桃太郎に出てきた鬼には息子がいて、続編にはその息子が登場するらしいですよ」
「ダウト。続編に出てくるのは鬼の娘のはずだ」
「さすがですね〜。正解です」
四月一日誠。一年のうち一日だけ嘘をついても許されるという日をその名に冠しながら、同時にその要素を打ち消すかのように付け足された「誠」という名前。名は体を表すというのなら、彼女が表すべき体は嘘と真、いったいどちらなのだろう。
それが分からない以上、彼女は自分に与えられた名前を体現しているとも言えるし、同時にまるっきりその名前に反した人間になっているとも言える。名前からしてどこまでも矛盾した人間だ。
四月一日誠は嘘つきである。しかしテストの際はその嘘を吐き出す口を封じ、指先から誠の回答のみを紡ぎ出す。噂によれば彼女も四回に一回ほどは本当のことを言うと囁かれているが、俺が彼女の口から聞かされるのはいつだって出鱈目ばかりで何一つあてにならない。
唯一救いがあるとすれば、彼女は俺に嘘をつくとき、決まってあるフレーズを口にするということだろうか。
「そういえば、知ってます?」
「嘘だな」
「まだ何も言ってませんよう」
まるでこれから何でもない世間話をしようかというこの文句。これこそが俺の中で彼女の嘘を嘘たらしめている言葉である。
一度はその嘘にうまいこと乗せられてしまったが、次こそは涼しい顔で否定してやろうと意気込みながら続く言葉を待っていると、四月一日はやはり悪びれもせずこんなことを口にした。
「風の噂で聞いたんですけど、四組に小鳥遊くんのことを好きな子がいるらしいですよ?」
それはいつも、四月一日が決まって口にする類の嘘。
どこの誰が俺のことを好いているらしいという噂を俺に提供し、まるでヒントのように俺を好いているというその人物についての手がかりを残していく、お決まりの展開だった。
「出席番号は三十一番。心当たりとかあります?」
記憶力にはある程度自信があるが、覚えられることと覚えることは別問題である。
無駄な軋轢を生まないよう、クラスメイトの名前くらいは覚えているが、違うクラスともなれば交流の機会はほとんどなく、名前を記憶していなかったところで大した問題にはならないだろう。
出席番号だけ提示されたところで人物を特定するなど、本来は不可能なはずだった。
「……なんて、小鳥遊くんは他のクラスの女子のこととか興味ないでしょうから、知りませんよね」
「……俺は」
その物言いに思うところがないでもないと口を開きかけたそのとき、俺の言葉を遮るように鳴り響くチャイム。
普段は俺とこいつを引き離してくれるこの音色をありがたく思っているところだが、今回ばかりはこのあまりにも間の悪い音を恨めしいとさえ思ってしまった。
「じゃあ予鈴鳴ったので戻りますね」
教室の喧騒に紛れ、四月一日誠は去っていく。
苦い嘘と、甘い香りだけを俺の席に残して。
「それでは今度のテストも楽しみにしてますよ。小鳥遊くん」
人懐こく振られた手に振り返すべき手は、依然として机の上で蹲っていた。あの無邪気な笑顔に同じ笑みを返すには、俺たちはあまりにも無意味な時間に互いのプライドを重ね過ぎたのだ。
去りゆく背中を見送り、目を落とした先にある真っ白なノートに、思う。
四組、三十一番。一クラス三十人そこらのこの学年において、三十番台に位置する人間というのは大抵五十音順の最後も最後、「わ」行から始まる名字の人間であるはずだ。
だが、そんな推理を繰り広げるまでもなく、俺は知っている。四組、出席番号三十一番の、好きなもの、嫌いなもの、髪飾りの形、笑うときの癖、それからテストの順位に至るまで、全てを。
これまでずっと、一歩後ろで見てきたのだから。
自分の中で形を持たなかった知識が、外からの刺激によって輪郭を帯び、中身を得る。その中身がいったい何で埋め尽くされているのか、それを表す言葉というのは、もうとっくに見つかっているというのに。
「…………嘘か」
それを洗いざらいぶちまける勇気だけがどうしても持てないまま、落胆したような声色の言葉がこぼれ落ちた。床にこぼしたため息を拾い上げる代わりに、ノートに転がしたペンを手に取る。
今度こそ絶対に、俺は四月一日を抜き去り、一位を取らなければならない。あの四月一日を追い越して一位の座を奪取しない限り、俺に『本当』を伝える権利など、ありはしないのだから。
そうなれば今日もあのカフェでひだまりに包まれつつ穏やかな勉強時間を確保しようとスマホを起動すると、例のカフェからメールマガジンが届いていた。
普段はあまり広告めいた類のものは受け取らない主義なのだが、馴染みの店のものとなると話は別である。もしやあいつの言った通り新商品の報せかと先走る思考を抑えつつメールを開くと、飛び込んできたのはこんな文面。
『明日、新メニュー発表! お楽しみに!』
「…………」
嘘から出た誠、とでもいうべきか。俺を揶揄うためだけについたであろうあいつの嘘が、思いもよらぬ形で本当になろうとしているというのは、思った以上に愉快なものだ。
もし、明日発表されるという新メニューが木苺たっぷりのパンケーキだとしたら、そのときは反撃ついでに四月一日をあのカフェに誘ってみるべきだろうか。
久しぶりに目にした嬉しい報せを前に思わずそんなことを考えもしたが、そもそもそれが出来ていればこうして妙な拗らせ方をせずに済んでいるはずである。
騒がしい教室の中でも、一度目蓋を閉じればふわふわと生クリームのような雰囲気の彼女が幸せそうに木苺たっぷりのパンケーキを頬張る姿を一瞬で思い描くことができる。
しかし描かれた光景が誠になる瞬間はいつまで経っても訪れず、嘘はいつまでも嘘のまま。
数えるほどしか目にしたことのない彼女の本当の笑顔。眼鏡の奥で眠たげにとろける笑顔が一瞬だけこちらを向いたように思えたあの日。
思えばあの日あの瞬間から、俺にとっての勉強は知識を蓄え増やすこと以外の目的を持ち始めてしまったのだ。
たとえこの先、己の至らなさに絶望しても、隔たる壁を前に膝を折ることがあったとしても、胸を焦がすこの想いがある限り、俺はまたペンを取るのだろう。
真っ白なページを見つめながら、決して記憶に新しいとは言えないほど遠ざかってしまった思い出に語りかける。
あまりに虚しい妄想と刹那の思い出に縋る日々を終わらせるために、手元の問題集へ目を走らせた。