永く生きる者
それからしばらくは怖いくらい何も無かった。
驚くべきことにサミュエルは普通に食事をとってくれるようになったし、向こうからの接触も無かったからだ。破壊音も聞こえないしアルトゥル曰く大人しくしているという。
あれから一月、平和な日々の中で私とイグルスは調べ物に勤しんでいた。
「うわぁ、凄いですね。流石公爵様の書庫……」
「お兄様は本を読むのがお好きだから……とは言っても王立図書館以上の蔵書がありそうね」
「リーゼロッテ様はここに来たことは?」
「初めてよ。書斎の本で充分調べ物は出来たし」
この屋敷の地下の奥深くには窓のない書庫がある。
来る日も来る日も書斎の本を読み、サミュエルを解放する手段を探すも得られた答えは“無し”。
基本的に吸血鬼間で結ばれる契約というものは特性をベースとし、命を媒介にして死ぬまで履行されるもの――だそうだ。
それを消すにはそれよりも更に上位の契約が必要……つまりお兄様以上の能力の持ち主を頼るしかないが、現実的にそんな事は不可能。
このままいけばサミュエルの命が尽きるまで確実にこの屋敷に彼の身柄は拘束される。
絶望的状況。憂鬱な気分になりながら、ほんの少しの希望を探しに私たちは書庫へ向かったのである。
足は以前より格段に動くようになってきた。早く治す為には吸血鬼の根底である血を巡らせる――つまり無理にでも動かした方がいいと、偶然見つけた本に書いてあった。それを知って以来出来るだけ訓練してきたのだ。
その甲斐あって、平坦な道ならばゆっくり移動できるようになった。
……正直ほっとしている。
だって移動の度にアルトゥルに抱き抱えさせるなんて心が休まらないもの。
古い螺旋階段を下っていくと現れた書庫。めったに客人を迎えないはずだ。しかし棚には埃ひとつない。ふと気配がして目をやると、そこには階段を降りる前にも廊下で掃き掃除をしていた執事がいた。
「こんな誰も来ないような所でも貴方働いてるのね」
「屋敷の管理の全てが仕事ですから」
「ならついでに、お兄様が掛けた術について何か載っている本を知らない?」
「あの術を構成して行使したのは我が君ですから、お嬢様が直接聞かれた方が早いかと」
そんなこと聞いたらどんな毒を吐かれるか!
声にならない心の叫びをにっこりと笑顔で誤魔化した。
そんなの心の内を知らないイグルスは、お二人はまるで物語の中の恋人同士みたいに仲良しですよねと優しく微笑む。
「ちゃ……ありがとう……」
「ちゃ?」
茶番なのである。
純粋なイグルスにそんな事を教えてはならないと、秘技・笑顔で誤魔化した。
お兄様は私に酷く甘い。けれどその優しさは私ではなくこの瞳と髪に向けられていることは、とうの昔から知っている。
ふと、お兄様にも心から愛する人がいたのだろうかと考えた。例えばそう、恋人のような───。
「なんだか少し冷えますね。これ、羽織ってください」
「あ……でもそれだとイグルスが」
「僕は新しいのを持ってきます。少し待っていて下さいね」
「ありがとう」
人の少ない書庫はかなり肌寒い。
イグルスは彼のグリーンのカーディガンを掛けてくれた。にこにこしながら階段を子犬みたいに元気よく駆け上がっていった彼がいなくなったあとに残されるのは沈黙である。
残された私はこの無口で冷たい執事と2人きり。掃き掃除を終えた彼は、古めかしい机の上に積み上がった本を元ある場所に戻し始めた。
積み上がってる本に手を伸ばすと、たまたま開いた1冊はエスメラルダの系譜について書かれていたものだった。
ぱらりと捲ってみる。初代――その下には何十もの名前がある。
お兄様の名前はすぐ見つかった。
けれど……一族の枝は、お兄様からは伸びていなかった。
エインリッヒ・エスメラルダは誰とも結ばれていないのだ。この数万年間、1度も。
この部屋には時計もないようだ。聞こえるのは私の息を吐く音と本棚に戻す新たな本を取りに帰ってきたアルトゥルの足音だけ。
沈黙を破ったのは私である。
「……エインお兄様には恋人っていなかったの?」
無口の執事は珍しく少し驚いたように目を瞬く。
そういえばこんな事を聞いたのは前回も今回も合わせて初めてかもしれない。
アルトゥルは視線を本に戻し、また手に積み上げる。
あと5冊。手伝ってあげようかなと、私も残りの本を持って一緒に歩き出した。
「少し前……500年位前でしょうか。帝国中の美女を侍らせていましたよ。あぁ、その赤い背表紙のは此処です」
「それは歴史書で読んだわ。全てを壊してみたくなったお兄様による最悪の時代だとね。そういう悪ふざけみたいなやつじゃなくて、本当の恋人のことよ」
「我が君の私的な事について私からお伝えする事は出来ません」
「まぁ、そうよね」
お兄様史上主義のアルトゥルのことだ。聞くならお兄様に聞け、と。ごもっともだ。
ちなみにお兄様の最悪な時代がどう終わったかというと、時の皇后まで誑かして帝国の崩壊寸前でようやく満足したそうな。大迷惑である。エスメラルダ一族もいつ反逆者と捉えられるか冷や冷やしていただろうなぁ。その時代に生まれなくて本当に良かった。
───それにしてもこの書庫は本当に広い。
部屋中を覆う大きな本棚に見たこともないような本がぎっしりだ。こんなにたくさんあるのなら、少しくらいサミュエルの術を解くすべがあるかもしれない。
アルトゥルに指示された場所にいくつか本を仕舞いながら後をついていくと、急に彼は足を止めた。
「残りは私が」
「いいのに。たった2冊くらい。なぜ妙な気遣いを……?」
「……残りははしごを使います」
1、2、3。
丁寧に3秒思考が停止した。
はしごを使う……つまりは、私の脚を気遣ってるということだ。
……アルトゥルが……優しい?!
なんならどんなに拷問されようが次の日の授業は必ずあるタイプの鬼教師だったのに。
何度優しくされようと、前回のアルトゥルと今回のアルトゥルが違う事がわかっていようと、やはり不気味なものは不気味である。
「言わなくとも何を考えているかわかります」
「違うの。これは私が悪いのよ。ありがとう、アルトゥル」
頭を抱えてわざとらしく溜息をつくアルトゥルを横目に、お言葉に甘えて元いた場所に戻ることにする。
少しばつが悪く、足早に帰ろうとする私を予想外にもアルトゥルは引き止めた。お嬢様、と声が聞こえる。振り返ると執事は私を見ていた。
「お嬢様は絶対に自分より先に死ぬ生き物を心の底から愛せますか」
「自分より……先に……?」
「例え愛したとしても、愛する者と共に歳すら取ることも出来ない。そしていずれ全て破綻するでしょう。そういう儚い感情に振り回されて生きる覚悟を持つことは出来ますか」
────ああこれは、さっきの答えだ。
「あ……」
恋することすら知らない私は何かを答えることすらできない。
きっと辛いことだろう、愛した相手と自分の生きる時間が違うことは。きっと寂しいだろう、大切な誰かを失ったときは。
でもそれは机上の空論でしかなくて。
お兄様も、目の前にいる執事も、幾万年の歳をどんな気持ちと共に生きてきたのか分からない。
ただ分かるのは────。
「何もかもが色褪せてしまう。永く生きすぎた者の代償です」
彼らと同じ冷たい幾万年を、私もこれから生きるのだという事実だけだ。
「お待たせしました!」
階段を下る軽快な足音が聞こえる。
重苦しい地下の空気がぱっと華やいだ。
暖かそうな赤いセーターに着がえたイグルスは、不思議そうな顔で私とアルトゥルを交互に見つめる。
「何かありました?」
「ううん、なんともないの」
「寒くなかったですか」
「このカーディガンのお陰で平気よ。ありがとう」
「それなら良かったです。何か本をご覧になられていたのですか?」
「ただ眺めていただけよ。これだけあれば少しは役に立つものもありそうね。手分けして探してみましょう」
「はい!早くあの男には出ていって貰わないといけませんからね」
「あは、はは……」
そうしていつも通りの1日が終わる。
今日得られたものはまたも“なにもなし”。
お兄様にお休みの挨拶をして、部屋の前でイグルスと別れる。
ここ最近ずっと本を読みっぱなしだ。
さすがに疲労が蓄積してきたのを感じて、眉間を指で摘む。
部屋につくなり行儀が悪いことは分かっていたが、ベッドに飛び込んだ。なんだかすごく疲れているみたいだ。
もうすぐ朝になる。日が昇れば、我々の時間も終わる。
吸血鬼が何故日に当たるといけないかと言うと、並の者だと死んでしまうから危険だと先祖代々きつく言いつけられているからだ。
ちなみに私は重度の貧血状態に陥って寝込んだ。なぜ知っているかって?以前はアルトゥルに仕置きの一環として外に吊るされたからである。
窓の外から小鳥の鳴き声が聞こえる。
さあ寝なければ。早くサミュエルを解放して、心安らかに過ごしたい。その為にしなければいけない事がたくさんあるのだから。
夢の世界に落ちていこうとしていた時、脳裏にアルトゥルの言葉がよぎった。
自分より早く死ぬ者を愛せるか。
私はまだ恋をした事はないけれど、愛する者の死はどんなに苦しいか想像は出来る。
お兄様はずっと1人ぼっちで、笑っていたのかな。
誰かを愛することを恐れているのかな。
愛せないことは、どんなに寂しいことだろう。
つーっと1粒涙が落ちた頬に不意に強い寒さを感じた。
風だ。……風?
強い風がカーテンを揺らす。窓なんて開けていないのに。視線を向けるとその先のバルコニーには人影がある。
それと目が合った。夜はもうすぐ明けようとしている。けれどまだ日の登らない漆黒の空と目に痛い程の金。
「リーゼロッテ・エスメラルダ」
「……レディの部屋にノックなしに入るのはマナー違反よ」
「生憎、お前のような心に毛が生えた女をレディとは呼ばない」
どうしてサミュエルが此処に?
窓から入るなんて、アルトゥルはどうしたのだろう。
サミュエルは歩みを止めない。
殺される――そう思って身構えてしまう。
目と鼻の先にサミュエルの顔がある。目に痛いほどの黄金。
「なあ、お前、私が怖いのだな」
「怖い?――何故?」
「そうやって聞く時点で答えを言ったようなものだ。狩場が原因か?私に首輪を付けて、牙を剥けなくしてそれでも尚怖がるのは」
「ちょっ……触らないで」
「“視せろ”」
彼の右手が首を絞める。
その瞬間思い出したのは、狩場での衝撃的な出会い――ではなく、1度目に殺された宮殿の廊下だった。
今日みたいな風の冷たい夜だった。
ロッテンマイヤーの私兵に追われ、ナイトドレスのまま走る。とうとう脚が絡まり転んでしまい、彼らに囲まれた。そうして私がかつての人生の最後に見たのは、鈍く輝く銀色の剣を持つ金色の男。
「私が、殺したのか?お前を……?」
サミュエルは零れそうに目を見開いて、ふらりと1歩後ずさる。
彼が私を殺した──。その事実は知られるべきではない。だって未来の事なのだ。それも今世では起きるかどうかすら分からない、夢のような話。
第一このふざけた男に、少しの欠点も晒すべきでは無い────ふざけた事をと言おうとした。
「これは……宮殿か?そこで女を殺した男は私だった。あれ程美しい金を持っているのは私しかいないのだから」
しかしそれよりも早くサミュエルは真実を紡ぐ。
まるで本当に見えているかのように。
「剣ごときで死ぬとは思えんが……あれは何の武器だ」
「……貴方、わたしに何をしたの?」
「触れた者の思考が見える。私の特性だ……お前のような野蛮な者がたかが妄想で私を恐れるはずが無い」
「変な根拠ね」
「私は、お前を殺した事があるのだな」
金色の瞳が三日月の様に細められる。
勝ち誇る顔に無性に腹が立った。
私を殺して、カルロの治世を終わらせたのは目の前の小さな少年なのだから。
いや違う。この小さな少年の、いくつかある一つの未来だ。今のサミュエルの罪ではない。
けれど――
耳に残る悲鳴が頭から離れない。
「お前を殺して、その後は?」
意地悪がしたくなった。
吸血鬼としての矜恃を傷つけてやろう、だなんて醜い感情の上の呪いのことば。
「……この地を人間に売り渡したのよ」
「……は?」
「貴方は人間に恋をした。そしてカルロ帝国は人間の手に落ちた。私はその時王太子妃で、彼女の為にと貴方に殺されたと言ったら信じるかしら。裏切り者のサミュエル・ロッテンマイヤー」
カーテンが風でふわりと揺れた。
朝はまだ来ない。
長い間投稿がストップしてしまっていてすみません。
また少しずつ始めるので、読んでいただけると幸いです!