悪女ごっこ
「ふざけるな!」
大きな怒鳴り声と共に、ガッシャーンと硝子のようなものが割れた音がする。
結論から言うと、サミュエルを飼うと言ったことにお兄様は反対しなかった。
見張りにアルトゥルを一体置くことになったが、サミュエルには破格の待遇で客間が与えられたのだ。
「何を割ったのかしら……。」
エスメラルダ公爵家にある物は多分そこそこ高価な物だろう。
部屋中をグチャグチャにされたら堪ったものじゃない。
私は自室でイグルスとお茶を飲みながら静かに客間の損害を案じていた。
私を一度目に殺した相手を知っているお兄様が、サミュエルをこの屋敷に住まわせることに反対しなかったのは意外だった。勿論、契約術という保険があるからだろう。
それでもお兄様はサミュエルを私に近づけたくないだろうと思っていた。
……お兄様には私とは違う何か考えているのだろうか。
少し考えてみるけれど、よく分からない。
でも今私に分かる真実は、イグルスの機嫌が最高に悪いということだ。
プクッと頬を膨らませながらそっぽを向いているのは子供らしくて正直可愛い。
でもここで笑うと悪いので私はわざと少し困ったような顔をして、イグルスに声を掛けた。
「イグルス。さっき怒ってしまったこと、許してくれる?」
「嫌です。リーゼロッテ様は僕に間違ったら止めろって言いましたよね。だから止めます。絶対に今回の事はリーゼロッテ様は間違ってますから」
「でも殺すのは良くないでしょう」
「あれは貴女を傷つけて他の同胞達も数え切れないほど自らの欲のために殺した野蛮な悪食です。あれを野に放った所でどうせまた誰かが死ぬ。ならば貴女の血となり生きた方がずっと尊い生き方では?」
イグルスはサミュエルの事を、“あれ”と呼んだ。
この子にとって彼はもう同胞では無いのだろう。
その表情には明らかな怒りが浮かんでいた。生半可な説得はイグルスは聞いてくれないということが伝わった。
どうしたものかと口を噤んでいると、名案が浮かびましたと海色の瞳をイグルスは輝かせる。
「リーゼロッテ様が気づかないように僕が静かに始末するのはどうですか?いつするかも伝えずに、気がついたらリーゼロッテ様のお腹の中。これなら問題ないでしょう?」
「問題、大ありなのよそれは……」
そもそもの間違いは、“手を汚したくない”訳ではなく“殺したくない”だけなのだ。
サミュエルが誰かを傷付けない事を前提に契約術を解消して、早急に出ていってもらう。
それが私にとっての最高なハッピーエンドなのだ。
カーテンの隙間から、陽の光が見えた。
もう夜が明けてしまう。吸血鬼には眠りの時間だ。私自身、今日は色々な事があって疲れてしまった。そろそろお風呂に入ってゆっくり眠りたい。
ティーカップをソーサーの上に置くと、扉の前で静かに控えていたアルトゥルが一礼し、片付けた。
「今日のところはお話はお終いにしましょう」
「分かりました」
「いつも遅くまで引き留めてしまってごめんなさいね。次はいつ屋敷に来る?」
「あ、言い忘れていました。僕は今日からここの屋敷の居候になります。」
「え?」
イグルスの口から放たれたのは衝撃の言葉だ。
1度目の経験を踏まえて、イグルスを束縛しない為にもジークのように彼を屋敷に居候させるつもりは無かった。
折角家族がいるのに別れさせたくないというのも理由の一つで、居候すると言われても断るつもりだったのだ。
でもイグルスは何やらしっかりお兄様の許可を取っていたようで、部屋までもう用意していたらしい。そうなってくると何も口出しが出来ず、私は嬉しいわと苦笑いした。
勿論本当に嬉しい!長い間一緒居られるのは嬉しいのよ?
ただ今回に限っては、イグルスのいない間にサミュエルの様子を見に行こうと思っていただけなのだ。その計画は既に破綻したようだった。
私がいない間にイグルスは抜け目ない性格になっていたようだ。
「僕、分かってますよ。リーゼロッテ様は僕が居ない時にあれの様子を見に行きたかったんでしょう?残念でしたね」
部屋を出るイグルスにまさに図星をつかれ、私は挙動不審におやすみなさいとだけ挨拶をした。
「ね、少しだけ!少しだけだから」
「駄目です」
この会話はもう何度目になるか分からない。
気が進まないが、私が“飼う”と言ったのだからサミュエルの様子を取り敢えず見に行かなければいけないし、そもそも毎日毎日破壊音が聞こえて気が気じゃないのだ。
けれど残念ながら私は今歩くことが出来ない。
起きてから寝るまでイグルスに張り付かれ、こんなやり取りを繰り返していた。
「リーゼロッテ様が飼うのは、僕一人で十分でしょう」
机を挟んで向かい側で食事を取っているイグルスは真顔で笑えない冗談を言う。
この頃この子は何やら不健全な方向に成長している気がする。全然泣かなくなったことはいい事なのだが、私にやたらと“支配されたい”と主張するようになったのだ。私はそんな女王様になった覚えはないのにおかしな話だ。
そんな事を考えていると、ふと案が浮かんだ。
腕と脚を組み、きつめの顔に冷たさを浮かべてイグルスの名前を呼べば、イグルスは驚いたようにスプーンを口に運ぶ手を止めた。
「リーゼロッテ様?」
「イグルス。貴方はご主人様の言う事を聞けない駄犬なの?」
嫌ーーー!
自分で言っておいて寒すぎる。駄犬ってなによそれ!
私は無表情の仮面の下で絶叫した。想像以上にやってみたら恥ずかしかったのだ。
そんな私の心の叫びを知らないイグルスは何も返事をしない。やってしまったかしらと様子を伺っていると、イグルスは席からたって私の隣にやってきた。
そして静かに床に座ると、こてんと私の脚に頭をもたれかける。
「だって、リーゼロッテ様があれに構ったら…僕が寂しいんです」
「寂しいからといって、私に手間を掛けさせるのかしら」
「でも嫌なんです」
「どうして?」
「リーゼロッテ様は優しいから、あれにも心を砕いてしまいます」
明らかに今までとは違う反応だ。
しかも“駄目です”の一点張りだったさっきまでと比べると、かなりいい反応である。
まさか方向性、正しかったの?と自分で自分に驚きながらも、恐る恐る私は“ご主人様”に成りきった。
「安心しなさい。あれはただのおもちゃよ」
「おもちゃ?」
「吸血鬼の長い生の中で、暇つぶしくらい必要でしょう。それともイグルスは私の楽しみを奪ってしまう?」
「いいえ!」
「なら、貴方はどうするの?」
「……リーゼロッテ様の、意のままに」
こうして私は恥とプライドを投げ捨て、サミュエル面会権を手にしたのだった。
自分で選んだ道とは言え、なんかどんどん悪女のようになっていくのですが…。
視界の端でアルトゥルが静かに笑っていた気がした。
移動手段としてアルトゥルに抱えられ、イグルスを後ろに控えて私は客間へ来た。
与えられた部屋の中で意外にもサミュエルは静かだった。
蝋燭すら付いていない部屋の中で腕で顔を覆うようにしてソファーの上で倒れているサミュエルの元まで、アルトゥルは無遠慮に私を運んだ。
「随分やつれたわね。食べていないの?」
聞かなくとも全く手の着いていない食事と、以前地下室で見た時よりも明らかにやせ細ったその手首から返事は明らかだった。
「こんな汚れた血、飲めるか」
「え?綺麗だけど」
「これ、何の血だ」
汚いとサミュエルは言ったが、器の中には美味しそうな血と赤身が見えた。血の種類など分からず用意したアルトゥルに聞けば、それは兎だと言う。
兎は吸血鬼の食事としてはオーソドックスだ。
泥が混ざっている訳でもなく、腐っている訳でもない。これ以上ない美味しそうなご馳走を前にしてサミュエルは悪態をついた。
「兎の血なんて食えるか」
「は?貴方いつも何を食べてきたのよ」
「女」
「最低ね。此処で出るわけがないし、そもそも同族喰いは王族にしか許されていないでしょう」
「ロッテンマイヤーは特別だ」
「何故?」
「尊い“金”を持っているからに決まってるだろう」
「何故金が偉いの?」
「ごちゃごちゃうるさいな。黙れ、女。兎に角家畜の血など食えたものじゃないんだよ」
サミュエルは苛立ったようにソファーを拳で叩くと起き上がる。少し伸びて前髪を邪魔そうに眉を顰めてよけると、その金色の瞳が見えた。
暗い部屋の中でも輝く金色だ。
その冷たい輝きに冷や汗をかいてしまうような恐ろしさを感じる。本能が危険を告げる。でもこの男を身の内に入れた以上、私はサミュエル・ロッテンマイヤーから逃げてはいけなかった。
「私は高貴なロッテンマイヤーの中でも選ばれた者だ。だから女を食べなければならない。女しか食べた事はない」
「ロッテンマイヤーは狂ってるわね」
「はっ。お前に飼われるなど最低の屈辱だ。私はロッテンマイヤーの誇りを貫いて死ぬ。家畜の血など、一滴たりともこの身に入れるものか」
私の“悪女”ごっこなんてこの男の前では形無しのようだ。
サミュエル・ロッテンマイヤーは生まれながらの支配者のような顔をして私を見て笑った。
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私事で申し訳ありませんが、私生活が忙しく、9月中旬まで更新を中断させて頂きます。
また再開した時には是非続きを楽しんで貰えれば幸いです!
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