悪夢の正体
半分顔を出した朝日が差す、薄明るい寝室。
「ううぅっ……あぇ……うぅぁ……えふっ」
嗚咽とも喘鳴ともつかない声が聞こえる。
喉から声を搾り出そうとし、言葉になる前に崩れて消える。 意味をなさない、搾りかすのような音を繰り返す。
同時に——
繰り返す声に合わせ、ずず、ぢゅる、ぢゅる、と水音が響く。 ストロー状の何かで、コップの底の水でも啜っているのだろうか、行儀の悪い、不快な音。
「……? 状況がわからない」
さっき僕に箒を叩きつけた女性が床にうつ伏せになっている。 時折意味もなく呻いている。
その頭を男性が押さえつけ、顔面を女性の頭に近づけている。 こっちの人は確か、僕の元宿主……のはずなんだけど、なんか雰囲気が変わっている。 具体的に言うと、口からストローのような器官が伸び、先端が女性の頭に突き刺さり、その目は赤黒く血走り、焦点が合っていない。
「あの……さっきは驚かせてしまって、申し訳……すみません、聞こえてます?」
呻き声、ぢゅるぢゅるという水音、2つの音が返ってくる。 ダメだ、聞こえてないらしい。
「じゃああの、失礼しました〜」
訳がわからない。 いやなんとなく予想はつくが……もういいか。 怪我させられたことを謝ってもらおうと思っていたが、そういう雰囲気じゃなかった。 そもそも、本人に責任能力が残っているかも怪しい。
「仕方ない、諦めよう」
気は晴れないが、人間、時には諦めも重要らしい。 気分を切り替え、窓を開け、外に向けて羽ばたき出す。 羽根は欠け、足のバランスも悪いが、かろうじて飛べる。
「お腹減ったな」
羽化の体力消耗は大きく、補給が必要だった。 怪我もしているし、治るかわからないが、取り敢えず栄養を摂るべきだ。 もやもやした気持ちから目を逸らすためにもなんか食べよう。
多分、今までと同じだ。 人の精神を飛び移り、色んな味を楽しめばいい。
***
祓魔師事務所の扉を乱暴に開け放ち、走り出す。
急務であった。 飛び込んできた依頼は、過去例を見ないほどの高額依頼で、つまり、過去類を見ないほどの厄介ごとに違いなかった。 他の祓魔師たちもこの街の領主から同じ依頼を受け、共同作戦となるらしい。
届いた依頼はこうだ。
“領主より領内全祓魔師に通達――妖魔『胡蝶の悪夢』発生の疑いあり。 至急『胡蝶の悪夢』及びその眷属を討伐せよ。 事態は喫緊を要するものである。 歩合により追加報酬あり。”
金が払われるから依頼の形を取っているが、領主からの緊急依頼という時点でもはや命令と同じだった。 もともと断るつもりはないが、拒否権は無い。
『胡蝶の悪夢』――古い有名な文献に記載のある、厄介な妖魔である。 寄生された知性のある生き物は悪夢にうなされる。 際限なく眷属を増やす。
反面、本体は貧弱かつ、本体を祓えば眷属も纏めて消えるが、容易く人の精神体と同化し、逃げ隠れるのが得意である。
そして最大の特徴――自然発生しない。
とびきり腹立たしく、面倒な依頼だった。 本体の居場所はしらみ潰しに探すしかない。 本体を祓っても、一度眷属に変えられた人間は、多くの記憶を食われ、感情を食われ、狂気を発症する。 眷属であった時間が長ければ長いほど、社会復帰は絶望的だろう。
しかし何よりも腹立たしいのは、この事件を引き起こしたのが悪意ある人間だろうということだ。
この妖魔は自然には存在せず、禁じられた儀式によって人の手で作り出されるのみ。 この災害は人災に違いない。 街一つ滅ぼせる悪夢を呼び込んだ何処かの馬鹿野郎は、一体何を考えているのであろうか。 大罪である。 見つかれば厳しい拷問や、極刑は免れないだろう。
「畜生め!」
怒りを噛み締め、足早に駆ける。 妖魔の気配を辿る。
「そこかッ!!」
「ピギッ」
裏通りのとある家、その扉の後ろに気配を認め、姿を確認するまでもなく、祓魔術を起動する。 指先から清浄なる波動が放たれ、扉の裏の妖魔の動きを止める。 即座に扉をぶち破り、妖魔を弾き飛ばす。
「ぬうん!!」
「ピキャッ」
拳を振り上げ、異形と化した顔面を殴り飛ばす。 効果が薄ければ、二打、三打。 一打ごとに異形の顔面は人間に戻る。5度ほど殴れば、妖魔退治の一丁あがりである。
「う、うーん」
「次!」
索敵し、祓魔術で拘束し、拳打して祓う。
見つけ、殴り、祓う。 見つけ、殴り、祓う。 見つけ、殴り、祓う。 見つけ――
「グギキ……」
「畜生め、手遅れかっ!」
元が人であったことが分からないレベルの変形。 手足の関節が増え、上半身などは完全に虫と化している。 眷属になってから時間が経ち過ぎている。 こうなってしまっては、もはや元通りにはできない。 仮に肉体が戻っても碌な生活は送れないだろう。
「介錯させて頂こう!」
拳に力を込める。 今までのような手加減はせず、全霊を込める。
「はぁぁぁぁ、だらぁっ!」
掛け声とともに振り抜かれた正拳突きは、対象の胸、鳩尾を正確に捉え、風穴を開けた。
そして拳を引き戻し、自分の顔の前に掲げ、両の目を閉じる。
「……冥福を」
……数秒の黙祷。
人間だった生き物は、生命維持に必要な臓器の大半を破壊され、人として最低限の尊厳を取り戻した後、灰のようにぼろぼろと全身を崩壊させた。
黙祷の後、祈りの余韻を振り切り駆け足で次へ向かう。
『胡蝶の悪夢』が捕食した人間は眷属に変えられ、増やした眷属がまた眷属を増やす。 眷属が本体の餌を減らしてしまうという、自ら死に向かうような不自然な生態。 本体を祓わねば、眷属をいくら減らしても増える方が早い。
悪夢は未だ広がり続けている。