タイミングが悪かっただけだ
久しぶりの生の空気。 ぬるま湯のような精神世界の空気とは違う、全身で味わう清涼感。 目が冴え、思考が冴え渡る。
久しぶりの本物の重力。 今までとの身体感覚の違いにふらつく。 地球の引力と共に生活する感覚を、どうにか思い出す。
視界は良好。 目で足元を確認する。 足元には人がうつ伏せで寝そべっており、首筋から背中にかけて裂け目が走り、僕の6本足が半分ほど入ったままだ。 ベッドで寝ているところだったようだ。 表情は見えないが汗だくで、悪夢にうなされていたのだろう。
次に自分の体を確認する。 形自体は良く知る蝶に似ているが、サイズ感は見知ったものに比べてかなり大きい。人の身長の半分ほどはある。
「卵の時は手のひらサイズだったのに」
いや、もともと手のひらサイズの虫の卵など聞いたこともなかったか。 そしてもう一つ気づいたことがあった。
「またこの目玉模様か……」
まだ伸び切っていない羽化直後の羽根だが、人の怨念の込もったような黒や紫の目玉模様が確認できた。 蝶や蛾の目玉模様は鳥を威嚇する為にあるらしいが、僕ほど大きな虫を襲う鳥がいるのだろうか。
――いや、いるのかも知れない。
僕ほどのサイズの蝶など見たことも聞いたこともないし、僕が人の形であった頃、魔術なんてなかった……はずだ。 それを考えれば、勝手な常識を当てはめて考えてはいけないのかもしれない。
未知の生態系について思いを巡らせていると、僕の宿主とは別の場所から物音がした。 聴覚もちゃんとある。
「……」
足元のベッドとは別のベッドにいた人――食べた記憶から読み取るに、おそらくこの人の妻だろう――が、真顔でこっちを見ている。 そして、視線は僕から離さないまま、その右手は壁に立てかけてある箒へと向かっていた。
「えーと、『こんばん――』 う゛っ!」
箒が突如横薙ぎに振るわれ、僕の体に直撃。 体は吹っ飛ばされ、床に叩きつけられた。 鈍痛が全身に走る。 痛覚もちゃんとある。
(いきなり、なんで)
初対面でいきなり暴力を振るわれた理由が分からなかった。 所詮他人の記憶から得た付け焼き刃の言語知識なので、もしかしたら「こんばんは」の発音を間違えていたのかも知れない。 それとも、僕が不法侵入者に見えたのかも知れない。
「『違う、不可抗りょ』っ!」
「このっ、ばけもの、出てけッ!」
言い訳は通じなかった。そのまま箒で叩き伏せられ、家の外に転がされ、閉め出された。
「痛い……」
全身の鈍い痛みを我慢し、立ち上がろうとするが、バランスが取れない。 見れば、左側の足が2本、右側の足が1本欠けていた。
「くそ……」
まだ伸ばし切っていない羽根もボロボロで、端的に言って、大怪我だった。 それでもなんとか這いずり、物陰で休養を取ることにした。
「言葉、が、通じなかった……? 食べた記憶から言語の再現をした……のに……」
言葉が通じるはずなのに、話が通じなかった。 夫の背中から数十センチの虫が飛び出しているのは、ショッキングな絵面だったろうか。 大層狂乱していたようだが、見た目だけで叩き出されたのなら不服だった。 人を見た目で判断するべきじゃないと思う。
「これは、誤解を……解かないとな……」
バランスの悪い脚で庭木に捕まり、登る。 左右で重さの違う羽根を震わせ、翅脈に体液を送り、伸長させ、乾かす。
驚かせたことは、タイミングが悪かったとはいえ、謝っておこう。 ただ、怪我をさせられたことについては、謝ってもらわなければならない。