悪心からの解放
「では検査の術式を使用します。 目を閉じて、体の力を抜いていてください」
両肩に手を置かれ、背中側から声が掛けられる。 言われた通り目を瞑り、大きく息を吐いて肩の力を抜く。
「それでは失礼して…………はッ」
両肩を押さえつけられ、体内を探られるような不快感が全身を通り抜けた。 薄くまぶたを開けると、青色に光る術式光がちかちかと目を刺した。
「……はい、目を開けて良いですよ」
「どんな感じですか?」
ここ数週間自分を悩ませる悪夢からの解放を期待し、待ち切れず食い気味に質問してしまった。
「ええと……何か精神に作用する魔術を受けた経験は?」
「いや、特に」
「ふむ、あなたは知らないうちに精神干渉系の術式を受けたようですね。 症状から見るに、不安感の増加か、不眠あたりか、もしくは複合的な術式か」
「治りますか?」
「この程度の症状ならそこまで強力な術式でないはずなので、すぐ取り除けます。 ただ、症状が数週間続いているんですよね?」
「はい、そうですが……」
「この手の術式は長くても3日くらいしか強い効果を発揮しません。 それ以降はだんだん効果が薄れていきます。 それだけ長く続くとなると、身近に術式をかけ続けている相手がいるかもしれないですね」
「…………」
信じられない話だった。 自分がそんな恨みを買うようなことをした心当たりがなかった。 一体誰だ? 何故? どうして? まったく訳が分からない。
「では除去作業に入ります。 ただ、術の正体をより詳しく探るために、あなたの精神に私の精神を接続する魔術を使ってみます。 違和感があったらすぐに言ってください」
「え、精神に接続、ですか?」
「はい。 と言っても、あなたが苦しんでいる症状を私も少し体験してみるだけです。 一時的に繋がるだけなので、怖がるようなものではありませんよ」
「なるほど……」
***
『今日はジョゼさんの庭の手入れを手伝う約束が……』『この花壇の手入れは……』『このインクの染み、なかなか消えないな……』
今日も今日とて、僕は記憶の欠片を貪っていた。 新生活にも慣れてきた日に、その異変は唐突に起こった。
「なんだろう、変な感覚」
この精神世界に何か変化が起こっている。 青年の精神に同居を始めてはや数週間、今までに体験したことのない感覚だった。 例えるならば、閉め切った部屋の窓を開け放ったときに、外の風が吹き込んでくるみたいな感覚だろう。
しかし雰囲気の変化の正体がわからない。 精神世界に外から吹いてくる風ってなんだよ。
――まあ、確かめてみればいいか。
真相を確かめるべく、風の吹いてくる方向へ向かってみることにした。 齧っていた家の屋根から離れ、浮き上がり、泳ぐように体をくねらせ進む。 移動もだいぶ上達した。 人間、どんな環境にも時間があれば慣れるものだ。
「なんだろ、あれ?」
しばらく進むと、いつも見慣れたレンガの住宅街に、見慣れないものを発見した。 僕が齧った跡のように空間に黒い穴が空き、しかしその穴は齧った穴とは比較にならないほど大きい。 ここから例の風が吹いてきていたのだと思う。
繋がった先の風景はどこか知らない屋内で、縮尺が明らかにおかしいし、重力の向きもズレがあるのか、地面の方向が違う。 近づいてみると、向こう側からわずかに何か薬剤のツンとした匂いがする。
僕は精神世界の仕組みについては初心者だけど、精神世界に大穴が空いたこの状態が不自然なのは分かる。
「まあ、いっか。 お邪魔しまーす。 いただきまーす」
もともと虫になるという聞いたこともない状況なので、今更未知を恐れても仕方がない。 初めて見る空間に飛び込むなり、すぐさま壁を一齧りしてみた。
(新しい味覚……!)
感情の乗っていない"記憶の断片"特有の味気なさはあるが、なかなかクセになる味だった。 いつも同じ味ばかりで飽きていたので、新しい味に大喜びで、夢中で齧りついてしまう。
『17番の検査薬は奥の棚の上から2番目』『そろそろ微睡草を買い足さないと……』『午後からの診察は……』
頭に流れてくる記憶からすると、なるほど、ここは誰か別人の精神世界らしい。 人によって記憶の味が違うのを初めて知った。 僕は多分育ち盛りなので食べる量も重要だけど、同じものばかり食べていたら発育に悪いと思う。 やはり人間、食の豊かさは生きていく上で必要不可欠だ。
しかし、食べることに夢中になりすぎていたのが悪かったのか、その空間に起き始めていた変化に気づくのが遅れてしまった。
「ん? あっ! 出口が!」
僕が入ってきた出入口――空間に浮いた大穴が、見る間に縮んでいる。 食事をやめようとした頃には元の半分ほどの大きさまで縮み、出口に向かって飛び立った頃にはさらにその半分ほどまで縮み、辿り着く頃にはもう、大穴は影も形もなかった。
僕は精神世界の中では浮いて動き回れる。 法則が現実世界とは全く違うため、羽がなくても飛べる。 しかし、それは鳥や蝶のように羽ばたいて素早く自在に動き回れるわけでなく、あくまでも芋虫の体にしては速いだけ。 芋虫に毛が生えた……毛虫じゃないけど、その程度の速さでしか動けなかった僕は、どうやら元いた青年の精神世界とは別人の精神世界に取り残されてしまった。
***
『……おや? 術の気配が消えた……?』
『どうしたんですか?』
『いえ、実はあなたにかけられた精神干渉が、たった今、消失したようです。 何か理由に心当たりはありませんか?』
『いえ、特にはないです。 確かに、少し頭が軽くなったような……』
『そうですか……。 では申し訳ありませんが、しばらく様子を見るしかないですね』
『……はい』
『突然効果が消失するような精神干渉の術式とは珍しいですね。 再発したらまた来てください。 こちらでも似たような現象について調べておきます』
***
「ふあー、よく寝たぁー」
起き抜けに欠伸をひとつ。
「おーい、さっさと起きろー! ジョゼさんとの約束があるんだろ!」
リビングの方から母さんの怒鳴り声が聞こえてくる。
「とっくに起きてるよ!」
負けじと怒鳴り返す。
あれから数日経ったが、毎晩うなされていた悪夢は嘘のように消え去っていた。 もう眠るのが怖くない。 快適に睡眠できる幸福を噛み締めている。 医者に行って本当に良かった。
気がかりなのは、精神干渉の魔術とやらをかけてきた相手だった。 誰かの恨みを買った覚えはないが、今後また呪われないとも限らない。 あんな思いは二度とごめんだ。 悪夢の日々に逆戻りしないよう、清く正しく、周りの人に優しく生きていこう。
今日はこれから、ジョゼさんの手伝いの約束が……何を約束していたんだっけ? ……………そもそも、ジョゼさんって誰だっけ?
ううむ、最近、忘れっぽくなった気がする。