第5話
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蜂須賀と美雪が出会ったのは、現在から8年前。記録的な豪雨が観測された、ある夏の日の事だった。
彼女は主に悪人専門の殺し屋で、人体をへし折る程の常人離れした身体能力と、特徴的なリボルバーで数々の法で裁けない者を仕留め、それに苦しむ人々を救っていた。
まだ若かった蜂須賀は、青い正義感と全能感に満たされ、それに酔いしれて堂々と自分の名前をヒーローのごとく名乗っていた。
その酔いが最高潮に達したとき、今まで自身が壊滅させた組織の残党によって、蜂須賀への復讐が開始された。
当時、とある半グレ集団を乗っ取り、私腹を肥やしていた小田嶋の協力で、彼らは蜂須賀の周りの人間を次々と殺していった。
その結果、帆花や文の雇い主である『情報屋』関係者と、マスターの身内以外、蜂須賀と親しい人は文字通り皆殺しにされた。
『情報屋』の情報網にもマスターのそれにも、彼らの行動が全く引っかからず、菜央が襲撃されて軽傷を負うまで、自他共に日本一と称賛する『情報屋』ですら、尻尾を掴む事ができなかった。
残党達の復讐計画を知って怒り狂った蜂須賀は、逆に彼らへの復讐を行ない、1人残らず死の寸前まで苦しませて皆殺しにした。
そして、『情報屋』とマスター協力の元、小田嶋がバックに付いている事までは判明した。
だが、小田嶋は優れた手腕で『情報屋』に一杯食わせ、いわれのない疑惑に偽装してしまった。
特定のバックを持たない蜂須賀なら、彼を殺害する事も出来たが、
アイツを殺したところで、私の気分が良いだけ、か……。
復讐を遂げたところで、何にもならない事にはたと気が付き、それは実行しなかった。
それから2年間、正義の味方気分を捨てて、淡々と殺し屋の仕事をしていたが、最後となったある日の仕事で、ターゲットに逆襲されて全治3ヶ月の重傷を負ってしまった。
完全に自信もモチベーションも失った彼女は、
「菜央。私、もう足を洗う事にするよ」
見舞いに訪れた菜央へ、雨で煙る鉛色の街を見ながら、ボンヤリとそう告げた。
完治後、蜂須賀は『掃除屋』で清掃の仕事をさせてもらったが、1月と持たずに辞めてしまい、ボンヤリと一日中フラフラする様になった。
そんなある日、蜂須賀が宵闇に包まれつつある公園で少し休んでいると、急激に豪雨が降り出した。
どこかに避難する間もないうちに彼女は濡れ鼠になっていた。
ああ、家に帰らなきゃな……。
髪から水がしたたる様になってから、いまいち鈍い挙動で立ち上がり、蜂須賀は公園から出て増水しつつある川沿いをゆっくりと歩く。
やがて、欄干がカラフルに塗られた細い橋に差し掛かった。そこは、殺された恋人と出会った場所で、その当時の事を思い出し、蜂須賀は橋の中央付近で足を止めた。
数分ほどそうしていた所で、スーツ姿の女性――雪緒の母である岩水美雪が、軽自動車で通りかかった。
「そんなところで、何してるの? ずぶ濡れじゃない」
彼女はやたら古めかしいそれで職場に向かう途中だったが、わざわざ停車して窓を開け心配そうに訊ねた。
「特に、何も……」
少し呆気にとられた蜂須賀は、彼女の纏う雰囲気に、カタギのそれとは違うものを感じた。
「風邪引くからとりあえず乗って」
美雪は蜂須賀の覇気が全く無い様子を見て、何かあった事を察し、後部座席を指しながらそう言う。
「シートが濡れてしまうからいいよ」
それに私が危険なヤツかも知れないし、と言って、蜂須賀は立ち去ろうとするが、
「そんな遭難者みたいな顔した危険人物が居るもんですか」
美雪が濡れるのをいとわず車から降りてきて、戸惑う彼女の手を微笑みながら握った。
絶対折れてくれなさそうな上、びしょ濡れにするのも忍びないので、蜂須賀は美雪の言う通りに乗り込んだ。
美雪は根掘り葉掘り訊くようなマネはせず、蜂須賀の体調の心配をしつつ運転する。
そんな調子でたどり着いた美雪の勤務先というのは、繁華街の裏通りにあるソープランドだった。
「やっぱりこういう職業の女って、良く思ってなかったりする?」
「いや。立派だと思うよ。誰かを癒やす事だから」
やや乾いた様な苦笑でそう訊く美雪に、蜂須賀は自分のやっていた仕事と、内心で比べながら答える。
「へぇ。曖昧な答え方しない人って初めて見たわ」
「まあ、正直に生きようとしているから、ね」
その答えに少し目を見開いて、ふふっ、と微笑み、あなたは良い人ね、と言いつつ、助手席の足元にある傘を引っ張り出した。
少し雨が弱まった隙に、美雪は蜂須賀と2人で店へと走る。
裏の通用口から入ると、ボーイにビショ濡れな上に、部外者を連れ込んだ事を咎められるも、美雪は彼を笑顔で押し切って自分の仕事部屋に連れて行った。
四畳半ほど部屋の中は、入り口の右側に半畳ほどのユニットシャワールームがあり、その奥の窓際にベッドが、それとシャワールームの間にティッシュ箱などが乗ったカートが置いてあった。
シャワーを浴びる蜂須賀に許可を取って、美雪は濡れた服をボーイに洗濯へ持って行かせた。
「ん。少しはマシな顔になったわね」
シャワールームから出てきたバスローブ姿の蜂須賀が、暖まって血色が良くなっているのを見て、美雪は口の端を持ち上げる。
「どうも……」
だが、蜂須賀の表情は伏し目がちで、いまいち冴えないままだった。
「話ぐらいは聞くわよ」
そのまま立ち尽くしている彼女に、美雪は隣に座るよう、ポンポン、とマットレスを叩いて促す。
「ちょっとショッキングだけど、良いのかい?」
「ええ。その手の光景は慣れてるから平気よ」
自身を見て瞬きする蜂須賀へ、私もいろいろ事情があるのよね、と、言う美雪のその朗らかな表情に少し陰が見えた。
その表情に親近感を覚えた蜂須賀は、組織名と個人名を伏せて事の顛末を話した。
「――それで……、私はどうしたら良いと思う?」
すがりつくようにそう訊いた蜂須賀の目から、
「あらあら」
彼女が覚えている限りでは初めて涙がこぼれ落ちた。
「そうねえ……。誰も殺さずに、人の役にたつことをすれば良いんじゃないかしら」
美雪はそんな蜂須賀をそっと抱き寄せ、例えば『配達屋』とか、と続けて、震えるその丸まった背中を優しく撫でた。
ややあって。
「ふふ。あなたは元々そういう顔するのね」
涙が止まった頃、頭を上げた蜂須賀の表情は、昔と同じとまでは言えないが、自信が垣間見えるイタズラっぽい笑みを浮かべていた。
「ツレの服乾いたし、そろそろ働いてくれないか? お客さんが帰りそうなんだよ」
すると、扉がやや急かすようにノックされ、ボーイの困り切った声がした。
「分かったわ。後5分待って貰って。あとバスローブ新しいのお願い」
「はいよ」
美雪の答えにそう返したボーイが走り去ってから、
「じゃあ、また何かあったら連絡してね」
彼女は、カートのティッシュ箱の横にある名刺入れから、自身の源氏名が書いた名刺を取り出し、裏に私物携帯の番号と本名を書いて蜂須賀に渡した。
「ありがとう美雪さん。今度はちゃんと指名するよ」
「分かったわ。しっかりサービスするわね」
背筋がすっかり伸びている蜂須賀は、吹っ切れた笑みを浮かべつつ、自らも本名を名乗り、小さく手を振って部屋から出て行った。
晴れやかな表情を浮かべる蜂須賀の足取りは、昔と同じ様にしっかりとしていた。




