第1話
*
その10分ほど前。
「いらっしゃい。蜂須賀君」
「マスターいつものー」
『ハチノス』に、グレーの作業服と帽子を被った女性がやって来て、開口一番、少しふにゃっとした口調で、白髪頭の執事の爺や、といった風貌の店主に注文した。
「はいよ。菜央ー、カレー1だ」
「はーい」
蜂須賀、と呼ばれた彼女が誰も座っていないカウンター席の、奥から2番目の椅子に座る。
それと同時に、カウンターの内側にいる店主が、奥の厨房に居る菜央と呼んだ彼の娘に指示を出しつつ、すかさずお冷やを提供した。
深夜に差し掛かる時間帯のため、客は定員の半分以下である、9人がテーブル席のみに座っている。
注文を受けた菜央は、手早く白米を大盛りにして、保温器から菜央こだわりの鶏肉を使ったルーをかける。
保温器横の密閉容器に入った福神漬けを添え、厨房とフロアの境目にある窓口に置いた。
「はい、お待たせ」
「いただきまーす」
カウンターに突っ伏していた蜂須賀は、満面の笑みで背筋をシャキッと伸ばしつつそう言い、スプーンでカレーをかき込んでいく。
「相変わらず言い食べっぷりだね」
2秒に1口のペースで手を動かす蜂須賀を見て、コーヒーをネルドリップしながら、マスターは満足げにそう言った。
「菜央のカレーが美味しいから、手が止まらなくてね」
箸休めに福神漬けをボリボリ咀嚼しながら、蜂須賀は奥の菜央に向けてウィンクする。
「ふふ。ありがと」
「娘はやらんぞー」
その表情によこしまなものを感じ、マスターは半笑いでそう釘を刺した。
「皆に睨まれるからそんな事しないよ」
非常に残念そうな口振りで、蜂須賀は肩をすくめる。
ややあって。
蜂須賀がカレーを平らげ、食後のコーヒーを待っていると、ドアのベルを鳴らしながら雪緒が入ってきた。
「いらっしゃい」
帽子を目深に被り、パーカーとショートパンツにスニーカー、といった服装のため、その姿をチラリと見たマスターと蜂須賀は、初見で彼女を少年と認識した。
「あの、すいません。ちょっとお訊ねしたいのですが」
だが、手に持っている紙を開きながら、そう訊いてくる雪緒の声と骨格から、すぐに少女だという事に気がついた。
「どうぞ、お嬢さん。答えられる範囲なら何でも聴くよ」
雪緒に1番奥の席に座るよう促し、そう返事をするマスターは、一旦、抽出する手を止めて彼女へお冷やを出す。
「ありがとうございます」
そう言った雪緒の口調は、年齢と釣り合っていない、やけに落ち着いたものだった。
「早速ですが、『雀蜂』の蜂須賀、という殺し屋の方に用事があるのですが、今お店の中にいらっしゃいますか?」
帽子を少し上げる雪緒は、髪を触りつつそうマスターに訊ねた。
その名前を出した途端、店内の全員がバラバラのタイミングで少女を一瞬見た。
「うーん、残念だけどいないね」
マスターは気がつかれない様に、目線だけ蜂須賀に向けると、黒い装丁のクライムアクション漫画を読んでいる彼女は、ごく小さく首を横に振った。
「それに彼女、結構前に引退してから、ぱったり来なくなったんだよね」
なので彼は、蜂須賀のコーヒーをカップに注ぎながら、しれっとした顔でそう嘘を吐いた。
「そう、ですか……」
呆然とした声色でそう言った雪緒は、唇をきゅっと強く結んで俯き加減になる。
「……」
それを横目で見ながら、蜂須賀はコーヒーをズズ、と無関心を装って啜る。
「ま、このまま追い返すのもなんだ。『ハチノスワッフル』でも食べて行くと良い」
彼女のあまりの落ち込みぶりを見て、罪悪感を抱いたマスターは手を後ろに組みつつ、微笑みを浮かべてそう提案した。
「すいません。私、お金持ってないんです……」
「私が払うよ」
困った様子でそう言って断ろうとした雪緒へ、蜂須賀はそう言って財布から代金を出した。
「あっいえ。ご迷惑をおかけするわけには……」
「子どもがそんな事気にしないの。大人の財力に頼りなよ」
「じゃあ……。お願いします……」
「よし。マスター、ワッフル1つ」
「はいよ」
厚意をふいにするのも忍びないので、雪緒はそれを素直に受けることにした。
10分程で、ハニカム型のワッフルにたっぷり蜂蜜をかけた、ハチノス名物・『ハチノスワッフル』が雪緒の目の前に置かれた。
生地の小麦粉や蜂蜜は、世界各地から厳選した上質なもので、1口大に切って口に入れた途端、ぱっと彼女の表情が和らいだ。
「気に入ってくれたかな?」
「はい……。美味しいです……」
じっくり味わう雪緒を見て、マスターはうんうん、と満足そうに頷き、蜂須賀も口元に笑みを浮かべる。




