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月光奏鳴曲

作者: livre

Twitterにて募集したお題で書いた物です。

もらったお題は「割れたCD」。

 イヤホンから流れてくる、ピアノのこの調べを何度となく聴き続けた。もう、耳が覚えている。

プレイヤーは古ぼけていて、鼓膜に届く音もひび割れているけれど。

彼女はこの曲を「穏やかで軽やかな幸せの曲」だと言ったっけ。僕は全くの逆で、「悲しくて重い死の曲」だと思っていたのに。

同じものに触れても感じることは違うのね。と笑っていた顔が、脳裏にこびりついて剥がれない。


 出会ったのは音楽室のグランドピアノだった。彼女は鍵盤の前に座っていて、楽しそうにこの曲を弾いていた。

たまたま聴きとめてふらりと室内に入った僕は、邪魔をしてしまわないように扉のすぐ横で三角座り。

彼女は僕の存在に気付いていたはずだけれどそのまま最後まで弾き続けていた。

曲が終わり音が途切れて、その余韻さえ消え去った頃合いに、

「君はまだ帰らないの?」

ピアノの代わりに澄んだ声が閉め切った部屋の空気を震わせた。

見ると彼女は立ち上がって、既に通学鞄を手にしている。

黒い髪の先がセーラー服の襟にさらりとかかった。

「あんまり帰りたく、ないんだ。」

帰らないわけにはいかないけれど。

三角座りのままで答えた。

そう。帰らないわけには、いかない。僕はまだ子供なんだ。

どうして?なんて訊くこともせず、僕の名前を尋ねることも自分が名乗ることもないまま、

「そっか。」と彼女は立ち去った。

それが、僕たちの始まり。


 家に帰ると、クーラーもついていない夏だというのにどこかひんやりと冷え切っていた。

冷め切っていた。が正しいのかもしれない。

誰もいない家に向かって「ただいま」と声を掛け、框を上がった。靴下越しのフローリングは生温い。

手には郵便が握られている。母からの郵便。小さな封筒。

中身はわかりきっていた。見るまでもないけれど、でも、でももしかしたら今回は...。

封を開けると細長い一筆箋が折り畳んで入れてあった。

『今月分のお金を振り込んでおきました。』

たった一行。いつも通りの無機質なボールペン。

ふ、と息が漏れる。

僕は、何を期待していたんだろう。


 彼女とはあれからも音楽室でのみ会った。同級生だという割に校内で見かけることはない。

不思議に思って訊いてみると、「私は保健室だから。」とのことだった。

僕は教室で授業を受け、放課後になると音楽室へ向かう。

辿り着く頃にはもう、彼女はそこでピアノを弾いている。

その姿は本当に楽しそうで、室内に入らずにしばらく見つめていることさえあった。

毎日僕より先にいる彼女は、決まって同じ曲を弾いている。

「それしか弾けないの?」

「そんなことない。これが好きなの。」

こんな会話をしたこともある。

「なんでそんな暗い曲。」

「暗い?...私には穏やかで、軽やかな幸せの曲に聴こえるの。」

これには軽い衝撃を受けた。僕も昔からこの曲は好きだったけれど、暗い曲だと思っていたのだ。

そう話すと彼女は、

「感じることは違うものね。」

と笑っていた。

心の底から楽しそうな笑顔だった。


「前に、帰りたくないんだって言ってたことがあったでしょう?」

「あれはどうして?」

ある時彼女が尋ねてきた。

遠慮がちな態度だったので、その必要はないよと前置きをしてから

「だって、ひとりは寂しいだろう。」

と言った。きょとんとした様子に構わず続ける。

「うちには父親がいないんだけれど、母親も家にはいないんだ。

そういえば、小さい頃から遊んでもらった記憶もないや。

僕が中学に上がるまでは一応家にいてくれていたけど、入学式の日にいなくなった。

生活費は毎月振り込むからそれでいいだろう。もう中学生なんだから平気だろう。

そんな内容の手紙がテーブルの上に置かれてた。

僕自身、あんな母親ならいなくてもいいやと思っていたはずだったんだ。

でもさ、やっぱり寂しいみたいだ。」

ここで笑ってみせたが、彼女に笑顔はなかった。

感情のないような顔で何も言わずに、先を促している。それが少しだけ怖く見えた。

「今でもどこにいるかはわからないんだ。探そうと思えば探せるだろうけど、そうはしたくないんだ。

たぶん僕は母に会いたいんじゃなくて、会いに来てほしいんだよ。

僕がその顔を忘れちゃう前に。」

喋り終えて、終わったよ、の意味も込めて俯く。

誰かに話したのは初めてだった。涙が出そうで顔を上げると、今度は彼女が俯いていた。

「...じゃあ私は、その逆ね。」

独り言のように呟く。次は私の番ということだろうか。

うん、だのああ、だのと適当に声を漏らして、話を聞く。

「私は両親と三人で住んでる。きょうだいはいないの。

ありがちな話だけれど、私、ちょっと持病があって。保健室登校もそのせい。

ひとりっ子の、病気の娘。

たぶん、その...愛されて、大切に、されているんだと思うわ。」

この時点でもう、僕の胸の内にはうっすらと黒い影が漂い始めているように思えた。

躊躇いがちに彼女は続ける。僕の心を知ってのことかは、分からないけれど。

「病気のことがあって、私、その...不幸だって思ってた。

教室で授業も受けられないし、体育祭にだって、出られないし。

なんて不幸なの、なんで私ばっかりって...思ってたの。

でも、あの...違ったのね。私には家族が...ええと、なんていうか...君の方が、その」

「もういいよ。」

もういい。もう分かった。

遠慮がちながらも彼女が話したいこと。僕が間違っていたんだということ。

 彼女の言葉を遮ってそのまま立ち上がる。後ろから呼び止める声がしていたけれど、構わなかった。


 家に帰る。相変わらずそこは冷め切った世界だった。

彼女の家では今頃、母親が夕食の準備でもしているんだろうか?

彼女はそれを心待ちにしながら、帰宅した父親を出迎えるんだろうか?

家族三人で食事を摂って、みんなでテレビでも見るんだろうか?

そして、彼女はこう切り出すのだ。

今日同級生の男の子からこんな話を聞いてね。その子ったら可哀想なの...

そこまで想像して、壁に向かって鞄を投げつけた。無性に腹が立った。

僕は彼女の中で、彼女と天秤に掛けられた。そして、僕の方が傾いだ。

彼女は上がった秤の上から、僕を見た...。

 少しでも気持ちを落ち着けようとCDプレイヤーを手に取る。

適当にそのまま再生ボタンを押すと、ここ最近ずっと聴き続けていたピアノの旋律が耳に届いた。

ベートーヴェン。ピアノソナタ。第14番。第1楽章。

僕が昔から好きな曲で、彼女が音楽室のグランドピアノでずっと弾いていた曲。

最初に演奏を耳にした時、「繋がれるかもしれない」と感じたきっかけの曲。

この人となら分かり合えるのかもしれない。この人なら聞いてくれるかもしれない。分かってくれるかもしれない。

そう、勘違い、した曲 ─ 。

イヤホンを引き抜いてプレイヤーごと床に叩きつけると、それは甲高い派手な音を立てて豪快に崩れた。

中に入っていたCDはバキバキに割れている。

いや違う。割れたのは、CDだけじゃない。そう願っていた。

彼女との思い出。彼女への思い。彼女の幸せ。僕の不幸。

その全てが割れて粉々に壊れ去ってしまえばいいと願っていた。

 大きな音を立てた僕を咎めてくれる人間は、この家にいない。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 月光への印象が違った二人、それでも同じ曲が好きだから繋がれるはずだったのに。実はもっと根本的なところで繋がれるわけがなかった。大人であれば乗り越えられたかもしれないけれど、彼らはまだ子供だ…
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