エピローグ ~『最弱商人の成りあがり』~
リリスが倒れてから数時間後、彼女は寝室で目を覚ました。窓の外から差し込む夕陽の光が、彼女の目を覚まさせたのだ。
「あなたは……」
「久しぶりだね。僕のこと、覚えている?」
「ええ。確かパン屋さんよね?」
「うん」
「でもどうしてここに?」
「窓からリリスさんが倒れているのが見えてね。咄嗟に家の中に飛び込んでいたんだ。ごめんね、無断で家の中に入っちゃって」
「気にしないで。私のピンチを救ってくれた恩人を怒るはずないじゃない」
「ありがとう。そう言ってもらえると助かるよ」
レオナールはニコリと微笑む。その美しい笑顔を直視できず、リリスは目を逸らす。その時、彼女はいつも視界に入っていたものが消えていたことに気づいた。
「あれ? この部屋こんなに綺麗だったかな……」
「僕が綺麗にしたんだ。リリスさんが病気になった原因の一つは間違いなく、この劣悪な環境のせいだからね」
「うっ……そうね。私も綺麗にしないといけないとは思っていたの。けど家事の才能がなくて、綺麗にしようとすると、逆に散らかしてしまうの」
「僕が今度掃除のコツを教えてあげるよ」
「ありがとう。きっと掃除をマスターしてレオナールのように……」
リリスはレオナールという名を口にして違和感を覚えた。寝室に置かれた家具や小物の配置が、かつてレオナールが部屋の掃除をしてくれていた時と同じだったのだ。
「どうかしたの?」
「ううん。なんでもないの。ただ掃除の上手い人は掃除のやり方も似るんだなと思って」
「…………」
「昔、この家に住んでいた人がいてね、その人がいつも掃除をしてくれていたの。私がどれだけ散らかしても朝になるとピカピカになっていた。思い返すと、あの人が朝早く起きて、私のために掃除してくれていたのね……私はその行為がずっと当たり前で……感謝することも忘れていたの……」
「リリスさん……」
「感傷的な話をしてしまってごめんなさい。忘れて」
「うん」
レオナールとリリスの間に沈黙が流れる。その沈黙に耐えられず、レオナールは思い出したように傍にあった粥を手に取った。
「あ、そうだ、リリスさんのために料理を作ったんだ」
「お粥だ、すっごく美味しそう。パン屋さん、パン以外も得意なのね」
「うん。料理なら何でも得意だよ」
「凄い! 私とは正反対ね」
「冷めないうちに食べちゃってよ。きっと気に入ると思うよ」
リリスは粥を受け取り、木匙で掬うと、口に放り込んだ。米のほんのり甘い味と、乾燥させた魚を細かく砕いた粉末、それに隠し味として入れられた磨り潰した果実がアクセントとなり、強烈な旨味が彼女の舌全体に広がった。
「どう、美味しい?」
レオナールが訊ねる。するとリリスは目尻から涙を零した。
「このお粥、レオナールの味がする……私が病気で寝込んだ時に何度も作ってくれたお粥の味だ……」
「…………」
「もしかしてパン屋さん、あなたレオナールなの?」
「い、いや、違うよ。僕の名前はレオだよ」
「嘘だもん。レオナールだもん! レオナールは生きてるもん! 私は……レオナールを……殺してないもん……絶対に……生きているもん……」
「僕は……」
「ごめんなさい、レオナール。私はあなたがいなくなって初めて大切なモノを失ったことに気づいたの」
「リリスさん……」
「私、本当に反省しているの……あなたはずっと私に優しくしてくれたのに恩を仇で返してしまった……子供の頃から何度も助けてくれたのに……何度もあなたを頼ってきたのに……あなたを捨ててジルを選んでしまった……私は本当に最低の人間よね……」
「…………」
「思い返せば、私、レオナールのこと気持ち悪いって言っちゃったけど、お互い様だったんだもんね。私も顔の火傷を村の大人に気持ち悪いって馬鹿にされて、そんな時、いつだってレオナールは庇ってくれた。ずっと私の味方だった」
「…………」
「レオナールが望むなら、私のこの先の人生すべてをあなたに捧げてもいいの。ずっとあなたと一緒にいるし、あなたが望むなら死んでも構わない。だから一度だけでいいの。許してくれないかな。また一緒に暮らそうよ」
リリスは涙を零しながら、必死に媚びるような笑顔を浮かべてレオナールに問いかける。しかし彼はゆっくりと首を横に振った。
「僕はレオナールさんじゃないよ。僕の名前はレオだからね。顔も違うでしょ」
「で、でも、それはきっと私と同じようにエルフの秘薬を使ったんでしょ」
「パン屋の僕がどうやってあんなに高価な薬を手に入れたっていうの?」
「そ、それは……」
「それに僕には家族がいるんだ。愛する人が待っているんだ」
「そう……ごめんなさい。私の勘違いだったみたい」
「気にしないで……僕は帰るね。また熱を出さないように健康には気を付けてね」
「ありがとう……」
リリスは悲し気な顔でお礼の言葉を口にする。レオナールは家を飛び出すと、ゴブリンダンジョンへと走った。
「ユキリスに会いたい」
レオナールはゴブリンダンジョンの中に入ると、ユキリスが待つ我が家へと飛び込むように帰宅する。彼女はレオナールの帰りが心より嬉しいのか、満面の笑みを浮かべた。
「旦那様、お帰りなさい」
「ただいま、ユキリス。君に会いたかった」
「うふふ、私もです」
「僕は君を必ず幸せにしてみせる。そのためには力が必要だ。君を、そして君の家族のエルフたちを守れるような力が必要なんだ」
レオナールは覚悟を忘れないように、野望を口にする。
「最弱の商人である僕が、国王に成りあがる。他の人ならきっと笑うだろう。けど僕は必ず成し遂げて見せる。付いてきてくれるかい?」
「私の命は旦那様と共にあります。どこまでも付いていきますよ」
ユキリスは盲目的な愛情をレオナールに向ける。きっと彼女は裏切らない。レオナールはそう確信した。





