【第七話】
──チチチチチチチチ……。
どこからか鳥の囀る声が聞こえた。
カーテンの隙間から差し込む陽の光に当てられ目を覚ました俺は、すぐ隣にユキの姿がないことに気付き、慌てて飛び起きる。
確かに彼女は昨日俺と同じベッドで寝たはずだ。彼女の枕がそのまま俺の頭の横に置かれたままだったから、それだけは間違いなくて。
「ユキっ……!!」
俺は部屋を飛び出し二段飛ばしで階段を降りる。
逸る気持ちを抑え切れずその勢いのままリビングへ駆け込むと、キッチンの奥から「ひゃあっ」と可愛らしい悲鳴が聞こえた。
「に、兄さんですか。驚かさないでくださいっ」
エプロン姿の妹がひょこっと顔を覗かせながら、おたまの先を俺に突きつけ、めっ、とばかりに俺にふくれっ面を見せる。
「あ……お、おはよう」
「はい、おはようございます。もう少しで朝ご飯できるので、姉さんを呼んできてもらってもいいですか?」
あまりにいつも通りなその光景に俺は呆気に取られながらも、言われるがままに姉さんを起こしに隣の家へと向かう。
「……結局は夢だったってことなんだろうな」
この世の終わりのような凄惨な光景が夢で終わったことは僥倖でしかないし、たとえ夢だとしてもあんな夢はもう二度と見たくはない。
こんなにも胸を締めつけられ、どんな拷問にも勝るその苦痛は、最早過去のものだ。そうとなれば姉さんを起こしに行くのに暗い顔は不要だろう。
「おーい姉さーん、起きろー」
雛森家の二階、階段を上ってすぐの部屋が莉桜姉さんの部屋だ。部屋の外からドアをノックしても返答がないのでまだ夢の中なのだろう。
人が悪夢に散々悩まされたというのに未だ暢気に夢の世界に居座り続けている姉を想うと、なんとなく邪魔をしてやりたい気持ちがむくむくと湧いてきて。
「姉さーん、入るぞー」
返事がないということはまだベッドですやすや寝息を立てているということだろう。構わず入室した俺は、部屋の中から漏れてきた陽の光に目を細めながら彼女の姿を探すと。
「……あれ?」
浪人決定後の受験シーズン中、どうしても朝起きられないという姉さんのためにこれまで使用していた遮光カーテンを撤去し、自然と光の入ってくるカーテンに変えたため、部屋の中は明るかった。
けれどもそんな明るい部屋の中でもベッドの上に姉さんの姿を見つけることは出来ず、彼女のパジャマが乱雑に脱ぎ捨てられているだけで、人の気配はない。
「どこ行ったんだ姉さんは……?」
俺達が起こしに来るよりも先に姉さんが起きているという事実もなかなかに衝撃的だが、彼女の姿がすでにベッドにないというのは天変地異の前触れにも等しいと言えよう。
──キキィイーーーッ!!! ズドンッッッ!!!
思い出すのは、あの瞬間の、死の記憶。
大切な妹が死に、絶望のどん底へと突き落とされた赤の記憶がフラッシュバックして、込み上げてくる吐き気を抑えるために口元に手を当てた。
「ね、姉さんッ……!!!」
ありえないと頭では分かっているが、心が警鐘を鳴らしている。
眩暈も吐き気も、今は気にしている余裕なんてない。
あれは確かに夢で、ユキは今も生きている。それでも早鐘を打つ心臓に従い部屋を飛び出して。
「……え?」
ドアノブを掴もうとして、差し出した右手は空を切った。
自動ドアのようにひとりでに開いた部屋の扉。その奥に見えたのは──あられもない下着姿の女性。
一瞬、時が止まった。
俺も彼女も微動だにせず金縛りにあったように身動ぎひとつせず見つめ合う中、先に反応したのは彼女の方だった。
「き、きゃあああああああああああぁぁぁっ!!!!」
静寂の中、轟く悲鳴。
閑静な住宅街につんざくようなその声に俺は驚き、絶叫に、俺は慌てて彼女の口を塞いで押さえつけ、彼女を組み敷くような体勢になってしまった。
「も、もがっ!? んんんっ!? んむむんむっ!?」
「ね、姉さんっ! 俺だっ! ちょっと落ち着いてくれっ」
「むぐぐっ!? むああ、むむあもあ!?」
「いいか!? 姉さんが暴れなければ俺も何もしないっ! 約束するっ」
「むあああむ! むむももむ!」
俺の腕の中で俺が押えつける腕に力を込めるほど、彼女は激しく暴れ出す。
こんなところで犯罪者になりたくはない俺としても必死で彼女に呼びかけるが、彼女も正常な判断が出来ないほど慌てているのか、聞く耳を持たない。
彼女が暴れる度、素肌と素肌が触れ合う。
やがてじっとりと汗ばむ肌を擦りつけ合う俺のし心音が、バクバクと飛び跳ねてどこかに飛んで行ってしまいそうなほどに脈動していた。
たおやかな二つの果実は大きく揺れ、真っ赤に染まった頬が俺の繊細な部分を激しく刺激し、二人の攻防が最高潮に達した時、遂に彼女が俺の拘束から逃れて。
「ね、姉さんっ! 俺はっ──」
ぐいと彼女の手首を掴み、真っ直ぐに彼女の瞳を見つめる。
いつの間に馬乗りになったまま、彼女の顔を見下ろしていた。触れ合った手は燃えるように熱く、見つめ合った目はゆらゆらと揺れていて。
「俺、はっ……その……」
彼女が小さく喉を鳴らした──ように見えた。
それは緊張ゆえか、はたまた別の理由か。それでも熱を帯びた視線でなにかを期待しながら俺を見上げる姉さんに、俺は──。
「なにやってるんですか? 兄さん」
「はっ……!!」
再び、時が止まった。
先程の硬直よりも長く続いた緊張は、徐々に世界を侵食し、どす黒い何かが俺に重くのしかかる。
否、鋭利な刃物を首元に突きつけられているという感覚の方が近いかもしれない。
「あー、いや、これはだな……そういう、ユキが想像しているようなことじゃなくてな」
「そういう、とはどういう想像なのですか。兄さんはわたしの心が読めるんですか?」
「あ、いや、なんとなくそんな雰囲気を察して、というかだな」
「なるほど。それならばこれからわたしが不潔で破廉恥な兄さんにどんなことをしようとしているかも察してもらえていると、そうとってもいいんですね?」
右手にフライパン、左手におたま。
不気味に微笑む彼女だが、その目だけは鋭く俺を見下ろしていて。
「では姉さんはすぐに支度を済ませてリビングのテーブルの上に準備してある朝ご飯を食べて行ってください。わたしは兄さんとほんの少しだけ話があるので、また夜に」
「ユ、ユキ……? 俺の朝メシは……?」
「安心してください兄さん。人間一日二日食事を摂らないくらいで死にはしません。さ、行きましょうか」
女の子らしい細腕のどこにそんな握力があるのか、俺の首根っこを引っ掴む彼女の手は万力のように固定されていて、とてもその拘束から逃れるのは容易ではなさそうだった。
「(俺、生きて帰って来られるかな……)」
この調子だと今日の朝食にありつけるかどうかは絶望的だし、そもそも五体満足で帰って来られるかどうかすら怪しい。
最後にポカンと呆けている姉さんに助けを求めようか迷って、結局ユキ最高裁判所長官の独断と偏見による判決を粛々と受け入れる覚悟を決めた俺なのであった。
♢ ♢ ♢
「……で、実の妹にも見放され、幼馴染の”お姉ちゃん”は気まずくて顔も合わせられず、お昼ご飯も用意してもらえず、その質素なパン片手にせめて民俗学研究会の部室におわす可憐で麗しい思春期特有の情欲を掻き立てられる会長様との会話だけを生きる糧としてこの場所に来たということね?」
「違う。断じて違う。俺がここに来るのはいつものことだろ」
「まあそうね。いつも通り憧れの先輩とのラッキースケベを期待しているいつも通りの彩斗だわ」
「……相変わらずよくわかんない方向にすげぇ自信だな……」
姉代わりの幼馴染に悲鳴をあげられようと、実の妹に白い目で見られようと、この人は相変わらずこの人だった。
強いて言うなら限りなく敵に近い味方の彼女だが、いざと言う時はフォローしてくれるような先輩だからこそ俺もこうして付き従っているわけで。
「あら?だって彩斗、あなた私のこと好きでしょう?」
「……そりゃ嫌いではないけどな」
「はっきり言いなさいな。”もう俺は会長以外では興奮しないんです”って」
「そういうのは逆に萎えてくるんだけどな!?」
しかし妹より優れた女にしか反応しないと豪語している俺も、彼女の言葉を完全に否定出来ないのが弱みと言えば弱みかもしれない。
こんな訳の分からない、ほとんど活動らしい活動もしていない民俗学研究会だなんて同好会に所属しているのも、その理由の大半は彼女にあった。
「(……似てるんだよなぁ)」
俺の生活の全てが変わってしまったあの夏に出逢った、美しい女性。
曰くあの地を守護する土地神様だという噂もあるが、真実の程は分からない。
それでも俺が出逢ったあの女性に抱くこの感情は、ある意味で一目惚れに近いと言えるかもしれなくて。
あの艶やかな黒髪が、目の前の妖艶な女性とどこか被って見えるのは。
「どうしたの? 私のことをじっと見て。まさかあなた……女の人の顔を見るだけで致せるタイプ? うわ、あんまり見ないでくれる? あなたの視線だけで妊娠させられそうだわ」
「…………」
たぶん勘違いだと思う。顔も声も朧げだけれど、こういうことは言いそうになかったし。というか“初恋の相手”がこんなどぎつい下ネタをかます女だと知ったら、幼少期の俺は卒倒しかねん。
「なぁ会長」
「なによ」
「会長ってさ、昔俺と──」
そこまで口にして、俺は首を振る。
たとえ彼女の雰囲気があの時の神様に似ていたって、どう見ても年齢が合わない。
高校の頃から彼女のことは知っているし、当然彼女の成長を間近で見て来ている。そんな彼女があの時の神様だというのは辻褄が合わないだろう。
彼女と出逢ってもう四年近く経つが、わずかに身長も伸びた気がするし、顔立ちも少し大人のそれに変わった気がする。
もちろん、その、それ以外の部分も出逢ったあの頃とは違っていて。
「……匂うわね」
「え?」
「アンタが今私の体を視姦しながらエロいこと考えていたでしょう? アンタのことなんてお見通しよ。はぁ~、やだやだ。これだから童貞と二人で密室に閉じ込められるのは身の危険を感じるのよね」
「…………」
見た目だけはパーフェクトなのにこれだもんなぁ、この人。
猫被りも得意だがたまにはその力を俺のためにも使って欲しいものだ。
大体この部屋は密室になってすらいないし。
「あー、彩ちゃんここにいたー!」
今日も今日とてくだらない話で時間を浪費していた俺達の部室に、騒がしい声がした。
振り返るとそこには今朝方ひと悶着あった彼女の姿。
「彩ちゃん、ユキちゃんが今日の帰りにスーパーに寄って買ってきて欲しいものがあるって──あ、楓ちゃん久しぶりっ」
部室の奥に会長の姿を見つけた莉桜姉が、パッと顔を綻ばせる。莉桜姉に釣られてか、会長も優しげに目を細める。
「数日振りね、莉桜。課題はちゃんと終わったのかしら」
「うん、ちゃんと彩ちゃんの手を借りないで終わらせたよ! すっごい時間かかったけど……」
「私ならそこの女なんて性処理道具くらいにしか考えてない男に頼むより安全で質もいいわよ。次から無理して悩むことなく私に任せてくれればいいわ」
「おい、俺への罵倒はともかく莉桜姉の成長の機会を奪うんじゃねぇ」
「アンタこそ私の商売の邪魔しないでくれる? 安心しなさい。友人価格で片付けてあげるわよ」
「やっぱり金とんのかよ!?」
なんというアコギな商売をする女だ。黙っていれば絶世の美女そのものなのに、喋るだけでこんなにも残念度が増すのは俺としても頭が痛い。
「あ、そういや俺学生課に行かなきゃいけないんだったわ」
「学生課? そう……そうなのね」
「楓ちゃん、どうしたの? そんな彩ちゃんを憐れむような目で見て」
「遂に私へのセクハラを自首しに行くのでしょう? いい心がけだわ」
「えぇっ!? 彩ちゃん楓ちゃんにセクハラなんてしてたの!?」
「莉桜姉……毎度のことなんだからこの人の与太話に付き合わなくていいんだぞ」
毎度毎度俺を貶めようとする会長も会長だが、莉桜姉もそろそろ学習して欲しいものだ。この傍若無人女は三度の飯より俺の評価を落とすことが好きなんだからな。
「ほら、この前学生証拾っただろ。汐見って一年生の」
「この前彩ちゃんがぶつかっちゃった女のコだよね。そういえばそんなこともあったっけ」
「アンタ……後輩の女の子の学生証を拾って何をしようとしていたの……? 嫌だわ、本当に犯罪者に成り果てたなんて……どこで育て方を間違えたのかしら……」
「際どいとこだけを抜き取って話をするんじゃねぇ! 莉桜姉も怯えた顔して後ずさるんじゃねぇっての!!」
どうあっても俺を犯罪者にしたい会長と話をしていると莉桜姉の中でどんどん俺が本物の犯罪者に近付いていく気がする。素直なのはいいことなんだが、将来よく分からん男に騙されるのだけは阻止してやらねばならんかもしれん。
それでも彼女達とのやりとりは楽しくて、いつまでもこんな平和な世界の中で平穏な日常を送ることが、俺にとってはなによりの幸せと言えるだろう。