第六話
「……っ、あ、れ……ここは……」
真っ暗な空間だった。目の前には誰もおらず、一瞬前まで鬱陶しいくらい俺を照らしていた夏の日差しもなく、僅かに視界に入る明かりと言えば遮光カーテンの隙間から漏れ出した僅かな陽光のみだった。
荒い呼吸と共にガバッと体を起こした俺は、ぐっしょりと濡れたTシャツの襟を指でつまみ、大きなため息を吐き出しながらそれをベッドの下へと投げ捨てた。
「はぁぁぁ~~~~…………ただの夢かよぉ……」
俺は寝起きでボサボサの頭をかきながら、どこまでが夢だったか分からない夢の内容を思い出す──そのうちひとつは幼少の頃体験した、不思議な出逢い。
じいちゃんばあちゃんの家のすぐ近くにあった山の中で、俺は彼女に出逢い、そんな会話を交わしたのだ。
「神様以外には、考えられないよなぁ……」
あの後俺は唐突に意識を失い、目を開けた時最初に目に入ったのは、じいちゃん家の少し煤けた天井だった。父親によると鳥居の近くで突然姿を消した俺を社の前で発見したそうなのだが、俺は親父の呼びかけにも応じす何もない空間に一人ぶつぶつと話しかけていて、賽銭箱に手を合わせていたと思えば突如意識を失って倒れたらしい。つまりあれが白昼夢や幻覚の類でなければ、俺は父親には見えていなかった何かと会話をしていたということになる。
普通に考えればおかしな話だが、驚くことに末期の小児がんで床に伏せっていたはずの莉桜姉は瞬く間に快復し、外で遊んでも何ら支障のないほどの健康体へと変貌した。その少し後、両親は事故で共に他界したが妹は無事俺の妹としての生を受けることとなり、偶然と言えば確かにそうとも捉えられるが、俺はあの時出逢った女性が本物の神様であると今でも確信している。
あれ以来じいちゃんばあちゃんにも叔母さんにも、あの山には近付くなと厳命されているので今はどうなっているのか定かでないが、あの場所にはきっと何かがあるに違いない。
「兄さん、起きて───いたんですね」
「ユキ……」
俺を起こしに来たユキが、ドアの隙間からこちらを覗き込んで優しげな笑顔を俺に向ける。
「ユキ、大丈夫か? 怪我したりとかしてないか?」
「怪我、ですか? 特にそういったことはありませんが……」
「……だよなぁ」
全く、縁起の悪い夢を見たものだ。幼少の頃の夢を見る前だったからこそなんとなく夢だと言われても割合すんなり受け止められたものだが、あの夢を挟んでいなければきっと俺は発狂していたかもしれない。俺がまだこうしてユキ相手に兄貴らしい態度で面目を保てているだから、俺のポーカーフェイスも大したものだろう。
「兄さんこそ随分とうなされていたようですが、何か怖い夢でも見たんですか?」
「気にするな。お前が生きているというだけで兄さんは常にハッピーだぞ。ははっ」
「……なんだか兄さんがおかしいです」
ジロジロと不躾な視線を向けられる俺だが、ユキがもう少し俺を起こしに来るのが早ければどんな醜態を晒していたか想像に易い。ホント、危なかったな。
「とにかく、もう朝ご飯出来てますから早く降りてきてくださいね」
「ああ、すぐ行くよ」
俺はのそのそとベッドから這い出し、勉強机の上の写真立てを一瞥した。映っていたのは、幼い頃の俺とユキ。両親を亡くし、この家で暮らすようになってからしばらくした後に取った写真だった。それは俺が何より大切にしている、かけがえのない唯一無二の家族と撮った宝物。ユキはその写真を見る度どこかくすぐったそうに目を細めているが、彼女も俺と同じように二人きりの生活を幸せに感じてくれているなら、それは俺にとってこれ以上ない幸せなのだ。
だって俺は、彼女が生まれてくることを誰より心待ちにしていたのだから。
◇◇ ◇
「そういや莉桜姉は?」
いつもの食卓に、ポツンと空いた席。莉桜姉が二度寝して慌てて玄関から飛び込んで来ることはよくあるものの、そろそろ時間的な余裕がなくなってくる時間なので確認の意味も兼ねてユキにそう尋ねたのだが。
「姉さんですか?姉さんならまだ寝ていると思いますけど」
「……そんな悠長な」
いつもなら俺が言わずともスヌーズ機能のように定期的に起こしに行くユキだが、あまりにのんびりしている彼女を俺は少しだけ不思議に思った。
「俺が起こしに行ってこようか?」
「今日は大丈夫ですよ。レポート課題も頑張っていたようですしたまにはゆっくり寝かせてあげてもいいかなと」
「そんなこと言ったって……大学休ませる訳にはいかんだろうよ」
通常起こり得ないミラクルを連発し半期分の単位を悉く落とすことくらい彼女はいとも簡単にやってのけるだろうし、俺の想像の斜め上を行く珍プレーなんて両手両足くらいじゃ数え切れないほどある。だから体調不良とかでなければ引き摺ってでも連れて行きたいところなのだが、ユキはあっけらかんとした顔で俺にこう返す。
「……兄さん、今日何曜日か分かってます?」
「……はい?」
ユキが指差した卓上カレンダー。律儀にも過ぎた日を丁寧に赤ペンでバツしてあるそのカレンダーから今日の日付を確認すると。
「……あれ? 今日、休み……?」
「まだ寝惚けてるんですか、兄さん」
呆れのため息に次いで、味噌汁を啜る音が聞こえる。やれやれとばかりにこちらへ向けられた半眼から目を背けるように俺も彼女に倣うようにお椀を持ち、顔を隠しながらずずずと味噌汁を啜った。
「たまには間違えることもあります」
「よせ……何も言うな……」
そうフォローされると余計に恥ずかしい。これはあれだ。あの夢が悪いんだ。そうだ、そうに違いない。あまりにもリアルな夢だったから、意識を失って次の日になってしまったのかと勘違いしてしまったんだ。つまり全部あの夢が──。
──キキィイーーーッ!!! ズドンッッッ!!!
「……っ」
「……兄さん?」
「……なんでもない」
せっかく忘れかけていたというのに、思い出してしまったじゃないか──最愛の妹が、俺の目の前で、車に轢かれて死ぬ瞬間を。
「……ご馳走さん」
これ以上胃に物を流し込めば逆流しかねないと悟った俺は、箸を置いて静かに席を立つ。
「どうしたんですか兄さん?」
「いや……ちょっとな」
「もしかして、体調でも悪いんですか? それとも苦手な物があったとか……」
「そういうわけじゃないんだが……なんとなく腹が減らなくて」
「そうですか……では無理せず休んでください。一通り家事を終えたら、お腹が空いてない兄さんでも食べれそうな物を適当に見繕ってきますから」
彼女としては俺を気遣いなんとなく発した言葉だったろうが、その言葉は結果として俺の危機管理センサーを強く刺激することとなった。
見繕う。彼女はそう軽々しく口にしたけれど、今朝方見た夢のことを思い出すと、彼女を今日この家から外出させることはまたあの悲劇を繰り返すことにならないだろうかと、そんな予感がして。
「……いいよ、わざわざ買いに行かなくて。これも腹減ってきたらまた食べるから」
「いえ。どちらにしても買い出しには行くつもりでしたから、気にしないでください」
「何を買いに行くつもりだったんだよ」
「台所とかお風呂周りのスポンジとかを全部交換しようかと思っていましたし、お味噌もそろそろ切れそうですし、兄さんの古くなったパンツとかもまとめて買いに行こうかと──」
「……」
『そろそろ台所とお風呂周りのスポンジとかを全部交換しようかと思っていたところで』
『お味噌がそろそろ切れそうですし、兄さんの古くなったパンツとかも買いに行きたいですし、それから──』
ユキが語ったそれら全てが、夢の中で彼女が口にしていた『欲しいもの』と全く同じものだった。あの夢を見る以前にはそんな話一度も聞いたことがなかったし、彼女のその言葉がそっくりそのまま俺の頭の中から出てくるなんてこと、有り得るものだろうか。
「……そんなの、俺が買ってくるからユキは家にいてくれ」
「え、でも……なら、せめて一緒に──」
「いいからユキは今日、家から一歩も出るなッ!!!」
あの時の、ユキの亡骸の冷たさが不意に蘇り、俺は生まれて初めて何より大事にしていた妹に向かって怒鳴ってしまった。愕然とした表情で俺を見つめる彼女にこれ以上顔を向けていることも出来ず、俺は彼女に背を向けながら「……買ってきて欲しいもの、全部メールしといてくれ」と部屋を後にする俺。部屋に戻り財布だけ引っ掴むと、逃げるように家の外へと飛び出す。
何か大事なものを置き去りしている自覚だけが、俺の胸にしこりのように残り続けていた。