第四話
「なあユキ」
「なんですか、兄さん」
「今日これからヒマか?」
莉桜姉がなんとか課題を提出し終えてから数日。本日は休日のため出来ればもうしばらく惰眠を貪っていたいけれど、今日はなんとなく寝直す気にもなれなかった俺はユキと朝食をとり、ぼんやりと食器を洗いながらユキにそう声をかけた。
ユキも休みなので、彼女はソファに座ってまったりと洗濯物を畳んでいたが、俺がそんな風に声をかけると彼女はこちらを見つめたまま不思議そうに数度瞬きを繰り返す。
「差し迫った用事はありませんが、どうかしましたか?」
「いや、空いてるならたまにはどっか出掛けようかと思ってな」
「兄さんとですか?」
「他に誰がいるんだよ」
俺が呆れ顔でそう言えば彼女はくすくす笑いながら首肯する。
「もちろん構いませんよ。でも、どこへ?」
「いや、特には決めてないが」
元々夕飯の買い出しとか日用品の買い足しを考えていたので近くの寂れたスーパーか、少し遠出をしてこの辺では一番品揃えの良いデパートに向かうつもりだったが、彼女は幾分不服そうに眉を顰めながら俺に言う。
「駄目ですよ、兄さん。もし兄さんに彼女さんが出来た時、特に決めていないなんて口にしては」
「またその話か……つまり、今から予行練習しとけって?」
「その通りです」
数日前の話をまだ引きずってるのか。やはり彼女が欲しいかと聞かれ、欲しいと答えたのは失敗だったかもしれない。
「では、やり直しです」
「あー、えーっと……今日は俺に任せとけ?」
「ふむ。ベタですが、悪くはないと思います」
彼女は俺のTシャツを畳んでいた手を止め立ち上がり、二人揃って二階の自室へと向かう。すると扉が閉まるか閉まらないかの辺りでひょっこり扉の隙間から顔を覗かせた彼女は。
「兄さんも早く準備してくださいね。女の子よりも準備が遅い男の人は嫌われてしまうかもしれません」
「……わかったよ」
恋愛経験もないくせに耳年増なところのある我が妹様は、どこからか聞きかじったようなそんな言葉を残して扉を閉めた。恋愛経験に関しては俺も人のことは言えないけれど、それにしたって彼女は実の兄に何を期待しているのやら。
「あ、兄さん」
「ん?」
そんな妹の成長に複雑な心境でいた俺に、閉じられた扉の奥から彼女の声が聞こえてきて。
「今日は誘ってくれてありがとうございます。兄さんとのデート、嬉しいです」
「お、おう……」
おかしいな。いつか訪れるかもしれないデートの予行演習じゃなかったっけ、これ。
♢ ♢ ♢
とりあえず実の妹をデートとやらに誘ってみたはいいものの、特にアテがあるわけでもないのでこれが本番だったらすぐにでもペケを付けられてしまいそうなデートだが、ただ歩いているだけでも我が妹様が楽しそうなので彼女を外に連れ出したこと自体は正解だったと言っていいのかもしれない。
白のワンピースにピンクのカーディガンを羽織り、つば広のハットを目深に被った彼女は道行く獣達の目をこれでもかと引いていて、兄として誇らしくなると同時に自らのみすぼらしさを思い出し複雑な心境の俺だったが。
「楽しいか?」
「えぇ、まぁ。兄さんとこうして出かけるのも久しぶりですからね」
確かにユキの言うように、うららかな春の陽気を浴びながらのんびりと過ごす休日もたまには悪くない。最近は俺も莉桜姉同様課題に追われていたせいもあってかこうして兄妹の時間を取る余裕もなかったし、いい機会かもしれなくて。
「ユキはどこか行きたいところとかあるか?」
「あ、まだ始まったばかりなのにもうわたし頼みですか?」
「いやぁ……だってなぁ」
毎日一緒に過ごしているユキとの会話が途切れることはほとんどないけれど、だからこそなにをしていなくてもそれだけで俺は充分な幸せを享受出来ている。彼女が俺の隣に居てくれるというだけで満足なのに、それ以上に望むものなどない。なんて、そんな甲斐性のない兄に対してくすくすと笑ってくれる我が妹様は天使のようだった。
「あ、じゃあ兄さん。せっかくなので付き合ってほしいところがあるんですが」
「おう、いいぞ」
結局気を利かせた彼女が行き先を指定してくれたお陰で目的地はあっさりと決まったのだけれど。
「えーっと……」
「文句ならデートプランを立ててこなかった兄さん自身に言ってください」
そう言われてしまえば確かに何も決めてこなかった俺が悪いとも言えるだろうが、それにしたってデートコースに組み込むには少し華やかさが足りないその場所は。
「なんで百円ショップ?」
「そろそろ台所とお風呂周りのスポンジとかを全部交換しようかと思っていたところで」
「なんという出来た妹……」
ユキがご飯を作ってくれる代わりに風呂掃除を任されている俺だが、そこまで頭が回っていなかった。さすがユキ、妹の鏡である。
「……仕方ないな。まぁ、ユキがそれでいいなら」
妹にデートコースを任せておきながら酷い言い草だとは思うが、彼女なりの気遣いをありがたく思いながら、店内を見て回ることに。
「兄さん兄さん」
「ん?」
「これ見てください」
調理器具コーナーを物色していたユキが俺に見せてきたそれは、使用用途の判然としない器具。
「これをパイナップルに上から刺してこのレバーを捻るとほら、綺麗に中身が取れるみたいです」
「……だから?」
「いえ。せっかくなので買って帰ろうかと。百円ですし」
実は我が妹、どうやらこういった便利器具の類が好きらしく、使用用途が限定されるか如何に関わらず目を輝かせて俺に紹介してくれるのだ。
「うちそんなパイナップルばっかり食べてないし、本当に必要か?」
「……その時になれば」
「ならその時に買いなさい」
「……むぅ」
基本的には俺の許可なくあれこれ買ってくるような子ではないためその都度俺がNOを突きつけ事なきを得るのだが、いつか深夜の通販番組にハマって爆買いしたり、怪しい壺を買わされたりしないか兄としては非常に心配だったりする。
「ユキは本当にそういうの好きだよな」
「だって……夢があるじゃないですか。人間の想像力は凄いんです」
「そうだな。ユキの言う通りだ」
こと創作という分野において人の想像力というか妄想力は時に、良い意味でも悪い意味でも多くの人に多大なる影響を与えることがある。人間同士の争いは醜いと言うけれど、逆に人が人を助けることもある。俺もユキもこの生活を維持するのにたくさんの人の力を借りているし、俺はこの世界が大好きだ──たとえ、この世に神も、悪魔も、宇宙人も、未来人も存在しないとしても。
「なあ、ユキ」
「はい?」
「お前、何か欲しいものとかないのか」
「欲しいもの、ですか?」
うーん、人差し指を顎に当てて考ええる仕草。そういう仕草が男受けがいい理由のひとつでもあるのかもしれない。兄としては心配事が尽きないのだけれど、莉桜姉曰く。
『彩ちゃんは考え過ぎだよ。ユキちゃんはしっかりしてるし、何かあっても自分でちゃんとなんとか出来るってば』
『いや、でもなぁ……一応俺はあいつの兄貴だし……』
『ユキちゃんは賢いから自分でどうにもならなくなりそうだったらちゃーんと彩ちゃんを頼ってくると思うから、彩ちゃんはそれまでどっしり構えていればいいんだと思うよ』
莉桜姉も莉桜姉で普段のんびりしてるくせに時折妙に鋭い指摘をすることがある人だ。俺は彼女のそういうところを尊敬しているし、そういう彼女だからこそ未だに深い親交があるのだけれど。
「欲しいもの……欲しいもの、ですか」
「おう」
「それは、もちろんありますよ。お味噌がそろそろ切れそうですし、兄さんの古くなったパンツとかも買いに行きたいですし、それから──」
「なんでユキはそうやって……もっと自分のことでだよ」
呆れ顔の俺を呆けた顔で見つめていたユキはハッとし、優しくはにかみながら「相変わらず兄さんは兄さんですね」とぽつり。
「兄さんのそういう所も好きですが、本当に大事なものはいつも兄さんが私に与えてくれますから」
「大したものあげた記憶もないけどな。誕生日だって、そんな高価なものあげられた試しはないし」
「ふふっ。そういう意味ではありませんが、でも、兄さんが毎年くれる誕生日プレゼントも全部、大切な宝物です」
「……ホント、出来た妹だよ。ユキは」
こんな甲斐性のない兄貴を慕ってくれる妹の優しさに甘えてばかりの俺だが、その笑顔を曇らせることだけはしないと改めて心に誓う。この世界は理不尽なことばかりだが、彼女だけでもそんな不条理な世界から身を呈して守ってやりたいのだ。
「(とか言ったら莉桜姉は泣いて怒りそうだけどな)」
ほんの少しだけ彼女に対して罪悪感を覚えた俺は、たまには彼女にも優しくしてやろうかと嘆息をつく。彼女が好きなモンブランケーキでも買って行ってやれば仔犬のように尻尾をぶんぶん振り回して喜ぶに違いない。お詫びというよりは餌付けのようになってしまうけれど、俺も彼女も幸せになれるのなら恨まれるようなこともないだろう。そういえば莉桜姉に声をかけるのを忘れていたな、なんて今更ながらに思う。
そんな訳で次なる目的地は駅前のデパートに決まってしまったのだが、今いる百円ショップからはほんの少し歩かねばならない。近くに寂れたスーパーがあるにはあるが、特別物が良いわけでもなければ安いわけでもないし、夜遅くまで営業しているので便利な時もあるが、昼間に人が入っているのをほとんど見たことがないようなスーパーだ。ポイントカードとかもないしな。
これから向かうデパートは駅からほど近く、休日の駅周辺は混み合うし背の低いユキを連れているとはぐれてしまう可能性もあるため、俺の数歩前をのんびり桜の木を見上げながら歩いているユキにこう声をかけた。
「手でも、繋ぐか?」
「え?」
「いやほら、デートなんだろ?」
俺がせっかくの休日に彼女を外に連れ出したことに深い意味はなかったが、彼女によって『デートの予行演習』という名目を与えられてしまった本日のお出かけ。であるならば今日だけはユキの彼氏を精一杯演じなくてはならないだろう。彼女がそれを望む限り可能な範囲で叶えてやるのが兄としての責務であり、俺の中に残ったほんの僅かなプライドに応える唯一の方法なのだ。
対して呼びかけられぴたりとその場に足を止めた彼女は、ぱちくりと数度目を瞬かせる。それからおもむろに顔を上げ、また俺が差し出した手に目を落とし、ユキはふいと顔を背けた。
「……確かにデートとは言いましたが、ここまでして欲しいとは言ってません」
「あれ、違ったか?」
「違います、全然違います。大体、初めてのデートで手を繋ごうと打診するなんて不潔です。破廉恥です」
「……初デートの設定だったのかよ」
そんなことを言ってしまえば初デートに百均もどうなんだという話だが、彼女が言うならそうなんだろう。滅多に我侭を言わないユキがついたちっちゃな我侭くらいは聞き入れてやりたいところだが、どうにも本気で嫌がっているようには見えないのでどうしたものか。もしかすると男としての器量が試されているのかもしれない。
「と、とにかく。ふざけてないで行きますよ」
「ユキが始めたことだろうが……」
ただの予行演習だというのに、何を意識してるんだユキは。
「(……いや)」
分かっているんだ、初めから。こんな関係をいつまでも続けながら、本当はもう一歩先に進みたくて。
だから、彼女とのこんなおふざけのデートを本当に意識しているのは──。
「……あれ?」
ついさっきまですぐ目の前にいたユキがいない。おや、と思いもう少し先の方まで目を凝らすと、すでに彼女は俺の随分先を歩いていた。
「おーい、待てよー!」
信号は青。俺の声に反応してこちらを振り返った彼女は、交差点の白線の上でちろと舌を出しながらスタスタと先へ先へと進んで行ってしまう。俺は仕方ない奴だなと大仰なため息を漏らしながら、嬉しそうに肩を揺らして歩く彼女の背中を追った。何故だかそんな彼女との甘いやりとりにドクドクと胸が跳ねるのを感じながら、駆け足気味で彼女を追いかけ、彼女を逃がすまいと手を伸ばす。
けれども俺ははたと気付いた。
──あと数メートルの距離にまで追いついた時、猛スピードで彼女へと迫る黒い影の存在に。
「ッ、ユキ──」
──キキィイーーーッ!!! ズドンッッッ!!!
空気が揺れるほどの衝撃波が俺に襲いかかり、そのままギュッと心の臓を鷲掴みにするように俺の呼吸をも止める。一瞬の圧力によって潰れてしまいそうなほどの痛みに熱を帯びた胸が張り裂けそうなほど刺激され、それに相反するように頭の血がサァと引いていく感覚も同時に俺を嘲笑うかのようだった。
激しい動悸と眩暈のせいで言い知れぬ恐怖を覚えた俺がようやく我に返ったのは、横断歩道真ん中で不自然にも停止しているトラックの足元で、真っ赤に染まった”ナニカ”がぴくりと僅かに動いたのが視界の端に映ったからだ。
「ユ──ユキぃいいいっ!!!」
慌てて運転席から飛び降りてきたトラックの運転手のことなど気にする余裕もないまま、無造作に転がったユキ”だったもの”に飛びつく俺は。
「ユキ!! ユキっ!!! な、なんでっ……こんなっ……ユキ!! おい!! 目を開けてくれっ!!!」
半狂乱で彼女の肩を揺さぶり続ける俺は、どこの誰だかも知らない奴らがユキから俺を引き剥がそうとしていることなどお構いなしに彼女にしがみついたまま、嗚咽交じりの声で叫び続けた。
「離せっ!!! ユキが、ユキがぁあっ!!!」
真っ白で雪のようだと褒めそやされていた顔は真紅の血に染まりぐしゃりとひしゃげ見るも無惨な状態で、腕はあらぬ方向へぐにゃりと曲がり、腹部からは小学校の理科室に置いてあった人体模型でしか見たことのなかった臓物がはみ出ていて、彼女を引きずった跡が十数メートル真っ赤な絨毯のように真っ直ぐ伸びている。
──誰がどう見たって、即死以外の何物でもないだろう。
そう頭では分かっていても、心が理解することを拒否し続けている。
俺は複数人の大人によって無理矢理彼女と引き離され改めてアスファルトに横たわる妹を俯瞰して目にしたことにより、ようやくその惨状を思い知ることとなった。
「俺の妹なんだっ!! 俺のッ……くっ、離せ、このっ……離せって言ってんだろッ!!!」
遠ざかっていく妹の姿。必死に抗い、声を枯らしながら嘆きを叫ぶ俺の声はもう、彼女には届かない。
「お、お願いだっ……!! ユキを、ユキをっ……誰かっ、誰かッ……!!」
ユキはまだ高校に進学したばかりの少女だ。同年代の子よりちょっと大人びているけれど、彼女にはまだ未来があった。
これから三年間甘酸っぱくほろ苦い“青春”と呼ばれる時間を過ごし、大学に進学し学びたいことを学びながら社会のルールを覚えながら社会人になり、そのうち誰かに恋をして、俺はそんな彼女の成長を喜びつつも彼女と別々の人生を歩んでいくことに幾ばくかの寂しさと出逢い、その心にぽっかりと空いた空白を埋めるようにまた他の誰かと一緒になって老いていくんだと──ずっとそう思っていたんだ。
その未来が今、完全に途絶えてしまった。
「ぅ……うわぁあああああああああああああああああああああッッッ!!!!!」
声を枯らすほどに、俺は叫んだ。
この世の不条理を。理不尽さを──内からとめどなく溢れ出す呪詛のように真っ黒な感情に乗せて。