第三話
「兄さん、おかえりなさい」
途中まで会長と一緒に帰って来ていた俺だったがユキからの指令を思い出し、いつもであれば送って帰るところを彼女とはスーパーの前で別れ一人醤油を手に帰って来ると、キッチンの方からパタパタとスリッパを鳴らして歩いてくるユキにそう出迎えられた。
「ただいま。腹減りすぎて急いで帰ってきた」
「ふふっ、調子がいいんですから」
そうは言いつつ少し嬉しそうに笑った彼女の頭を撫でれば、何事もなかったかのように「姉さんは?」と俺に尋ねるユキ。
「莉桜姉は課題やって帰るから遅くなるってよ」
「そうなんですね。では姉さんの分は先に取っておくことにします」
俺と話しながらキッチンに戻った彼女は、ひょいひょいと菜箸で彼女の分のおかずを取り分けていた。そんな彼女の動きを眺めていると、彼女は小さく首を傾げて俺を見上げる。
「どうかしましたか? 兄さん」
「……いや、やっぱりユキといるのが一番癒されるなと思ってよ」
「急になにを言っているんですか、兄さんは」
平然とした態度で露骨に大きなため息を吐き出す我が妹様は、素知らぬ顔をしながら淀みなく手を動かしていた。
「そんなことを言っても何も出ませんからね?」
「え、せめておかずの追加くらいは……」
「知りません」
不機嫌そうに眉を寄せながら、それでも俺の分のご飯とおかずを多めに盛りつけてくれる可愛らしい妹様の頭を撫でてやれば、おや、と気付くことがあった。
それは無愛想で呆れ顔の彼女の耳が、まるで茹でダコように真っ赤に染まっていること。
「かわいい奴め」
彼女は俺に頭を撫でられながら気恥ずかしそうにしながらも、どこか嬉しそうに目を細める。そんなユキの顔を見ている瞬間が、俺にとってはなにより幸せだったのだ。
「……兄さん?」
「ん?」
「もしかして……大学でなにかありましたか?」
そんな風に目敏く俺の胸中を察する彼女の問いかけに、俺は思わず首を縦に振りかけて。
「なにも。強いて言うなら初めて会った後輩に謂れのない侮辱を受けたことと、会長からのえげつないセクハラにあったくらいだ」
「後輩さん……のことはよく分かりませんが、高校の時の先輩、でしたよね?」
「あぁ。俺は密かに『妖怪下ネタ猫被り』と呼んでいる」
こんなことを妹に話したとなればどんな報復が待っているかは考えたくもないが、少なくとも俺が暴露しない限りユキに話してしまったことが露呈することはないだろう。それに俺がセクハラ被害によって命を落とすことがあったとしてもこれなら安心である。
「でも、綺麗な方なんですよね?」
「まあ、ガワだけな」
「もしかして、兄さんはその人のことが好きなんですか?」
ぶふっと吹き出す俺に、彼女はしかめっ面をするどころか露骨に嫌そうな顔をして俺から一歩距離を取る彼女。
「……そんな訳ないだろう。俺は妹より優れた女にしか反応しない」
「それはそれでどうかと思いますが……」
こんなことを言いつつ、俺は断じてシスコンではない。ただ、彼女が成人して俺の元を離れていくまではきちんと面倒を見てやらないとという責任をそれなりには感じているというだけだ。
幼少の頃、俺は両親に妹が欲しいとよくせがんでいたらしい──というのはじいちゃんばあちゃんも叔母さんも口酸っぱく俺に教えてくれていたし、多分本当の話なんだろう。俺はよく覚えていないけれど。
ユキはこんなダメな兄のために学校に通いながらも家事をして、家計簿をつけてと、この二人きりの生活を守ろうとしてくれている。だから俺は少しでも彼女の手伝いをしながら、彼女が幸せになるその日までは支えてあげなければと心に誓っていて。
「お前こそどうなんだよ」
「今はわたしが聞いているんです。恋人とか、作らないんですか?」
「そりゃ、欲しいけどな」
けれど、俺に出来ることなんてたかが知れている。俺には誰もが羨むような特殊な能力など持ち合わせていないし、俺のこのちっぽけな両手で守れるのは、せいぜいこの兄想いな妹と、弟想いな姉くらいだ。それだってまだまだ力不足だと感じているのに、それ以上のものを守れる自信はない。
「兄さんだったらすぐに出来ると思います。身内の贔屓目を除いたとしても」
「……これまで彼女がいたこともないのにか?」
「作らなかっただけではないですか。わたしにはお見通しです」
食卓に料理を並べながら楽しそうに笑うユキは、トントンと俺の腕をつつく。
「妹は兄のこと、誰より見ているんですからね」
「そういうの、贔屓目って言わないか?」
「いいえ。今は赤の他人として見ています」
「それはそれで傷付くな……」
「ふふっ、冗談です」
彼女はくすくす含み笑いと共にいつもの椅子に座り、チラチラこちらを確認しながら対面に俺が座るのを待っている。
「じゃあ、お前の方はどうなんだよ」
「どう、と言われても。わたしの方はなにもありませんし」
「嘘つけ。この前また告白されたって、後輩達が騒いでたぞ」
学年が四つもズレているので同じ学校に通学していた経験は小学校時代にしかなかったが、中学高校と何故だか彼女は俺と同じ学校に進学したがった。そのため、俺の二つ下の後輩に当たる世代は彼女にとっては二つ上の先輩ということになる。それ故に、未だに母校の情報が後輩を通じて流れてくることがあるのだ。しかもそれが俺の身内のこととなれば尚のこと、まだ高校に進学したばかりだというのに、既に何人もの男子生徒に告白されているという事実はコンスタントに耳にしていたりして。
そしてなんと今回のお相手は野球部のエースで、俺が三年の頃入学してきた彼は、入学当初からその甘いマスクと学力の高さ、運動神経の良さで多くの女子が熱をあげていた男子だったはずだ。
「告白、というか……前から気になっていたと言われただけです」
「そういうの、告白って言うんだよ」
「ですが、だからどうしたいとは言われていませんし」
ユキは昔からとにかくモテる子だった。ラブレターを渡され『大事に読ませていただきますね』と天使のような微笑みを浮かべながら、俺と二人きりになると『ラブレターを渡すだけなのに私の胸ばかりを凝視して、まるで彩斗みたいだったわ』と俺もろとも華麗にこき下ろしていくどっかの性悪女とは違い、ユキは男衆から告白されたところで相手の意図を読み取れずに受け止めるだけ受け止めて終わることが多いのだが。世間一般的には彼女のことを鈍感と呼ぶのだろうが、ある意味ではそこも彼女の良さと言っていいかもしれない。
「じゃあ好きだと言われたらどうしてたんだよ」
「どうすると言われても……どうして欲しいと言われるかによります」
「例えば……付き合ってください、とか」
そう言いかけて、ふと彼女が近い将来伴侶となる男を連れて俺の元に挨拶に来た時の情景が頭を過った。
真面目そうで優しそうで彼女を幸せにしてくれそうな男ならまだいいが、髪の毛は金を通り越して銀色、ピアスは身体中そこかしこに見え、クチャクチャとガムを噛みながら『ちーっす』と我が家の敷居を跨ぐような奴が現れたとしたら。
「……殺してしまうかもしれん」
「……何の話ですか?」
訳が分からないとばかりに首を斜めに傾けていた彼女だったが。
「ユキなら彼氏くらいすぐ出来るだろ。兄の贔屓目なしにな」
「それ、わたしの真似ですか?本当に兄さんはそうやっておだてればいいと思って……」
その言葉をそっくりそのまま彼女に返してやりたいところだが、本当彼女が俺の元を巣立っていく日を想像してしまいむむむと頭を抱える俺を可笑しそうに見つめながら、彼女は小さく微笑んだ。
「安心してください、兄さん」
「……?」
「私の一番は、何年経っても兄さんですから」
まるでそれが当然だとばかりに平然とそう言ってのけるその言葉は、決して嘘や冗談の類ではないだろう。そんなものは真面目で実直な彼女の顔を見ればすぐ分かる。とはいえ恐らく彼女は本気でそう思っているのだろうが、それはそれで問題がないとは言えず。
「……そんなことばっか言ってると、嫁の貰い手がないぞ?」
「大丈夫です。そうしたらずっと兄さんと一緒に暮らせますし」
「……俺は結婚しない前提なのか」
だから余計に困るのだけれど、とは言えない。彼女が幸せそうに笑っているこの時間を壊したくはなかったから。
だけど、彼女がそんな未来を選ぶならそれでもいい。そうしたら俺は、彼女と生涯を共にする──ただそれだけのことだ。