第二話
「んじゃ、いっぺん死んでこい」
「そう言われるともう戻って来れないみたいなんだけど……」
「戻って来れるだろ。留年すればもう一年この大学に滞在出来るぞ」
「それはやだよぉ……せっかく彩ちゃんと同じ学年になれたのに一緒に卒業出来ないなんてぇ……」
俺達二人が履修していた今日のカリキュラムはこれで終了だった。朝は何もしなくともユキが起こしに来るので、遅い時間の授業を履修するよりも午前中に講義を集中させるようにしていたためである。朝弱い莉桜姉はいつも辛そうにしているが、俺とユキと三人で時間を合わせて食べる夕飯の方を取るのを幸せと感じているらしい彼女は後者を取ったらしい。俺といればレジュメや出席表のやりとりも出来るしな。
「なら頑張れ。美味しいご飯用意して待ってるから。ユキが」
ご飯の響きに釣られたのか彼女はピンと背筋を伸ばし、ふんすふんすと鼻を鳴らしながら目をカッと見開いてパソコンルームの方角へと歩き出した。
俺はそんな彼女の現金さに含み笑いを漏らしながらその後ろを歩いていると。
「きゃあっ……!!」
「いてっ」
背後からの鈍い衝撃に、俺は思わずしかめっ面をしながら振り返る。するとすぐ後ろに、まるで小動物のようにぷるぷる震えて怯えきった少女が一人、涙目で俺を見上げていた。
髪の長さはミディアムくらいだろうか。癖っ毛な亜麻色の髪はくるくるとうねっているが、それはそれで彼女の可愛らしさを引き立てている可愛らしい。素材の良さのお陰かほとんどメイクもしていないように見えるけれど、如何せんまるで通り魔に遭遇したような怯え方をしているのでこちらとしてもどうしたものか。
「こらっ、彩ちゃん。女のコをいじめちゃ、めっ、だよ?」
「どう考えても俺の方が被害者だったろうが」
とりあえず誤解を解くためにも彼女の恐怖心を取り除いてやらないことには話になりそうもない。そんな訳で俺が莉桜姉から彼女の方へと振り向くと、更に小刻みに振動しながら一歩一歩そろりそろりと後ずさる彼女。
「いや、別に取って食ったりするわけじゃ」
「ひっ」
喉をひくっと鳴らし、彼女は胸に抱えていた教科書やらペンケースやらを取り落とし、地面にばら撒いた。それでも彼女は無防備にそれらを拾うようなことをせずただただ怯えた様子のまま硬直していて。
「……俺ってそんなに怖い人間に見える?」
「うーん、お姉ちゃんは分からないけど……普通の人からするとそう、なのかな?」
「そんな事実は知りたくなかったなぁ」
兎にも角にもこのままでは怖いおじさんと誤解されたままだろう。俺は足元に散らばった筆記具やルーズリーフの束をかき集め、ポカンと大口開けて目を瞬かせている彼女に手渡した。
「廊下は走ると危ないからな。気を付けなよ」
「あ……」
呆気に取られた彼女の目は、まんまるくりくりとして思ったよりも可愛げがあった。うちの妹女神様ほどでないにしても非常に可愛らしい女のコだったが、もしかするとこうまで俺に怯えているのは女子校育ちで男に耐性がないとこともあるのかもしれない。あくまで想像でしかないが。
「あ、あのっ……!!」
「ん?」
おどおどと挙動不審気味に目を右往左往させながら指先を擦り合わせ、意を決したように顔を上げた彼女はじりじりと後退りながらこう言った。
「なな、なんでもしますからっ……い、いいい、命だけはっ!!」
「はぁ?」
ぷるぷると頭を抱えて縮こまった彼女だが、彼女の目には俺がどんな風に映っているのか。というかそもそも平和を体現したようなうちの大学のキャンパス内で命を取られるようなことなんてそうそうないだろうに。
「お、おいおい、そんな命まで取るようなことっ……」
「ということは……体目当てっ!? いやぁ~!! 助けてぇ~~!! 襲われる~~~!!!」
「ちょっ……何言ってんだアンタっ!?」
明らかに穏やかではないことを捲し立てながら叫ぶ彼女を止めようにも聞く耳持たず、それどころか下手に触れれば余計にややこしいことになりそうな気配に手が出せない俺が莉桜姉に助けを求めようとすると。
「いやーーーっ!! 初めては生涯を共にすると決めた人にだけ捧げたかったのにエロ同人のように犯されちゃうううぅ!!! 『へへっ、叫んでも喚いても助けなんて来ないんだよっ!! おらっ、さっさと股広げろやっ!!』とか言われて乙女の純潔が奪われちゃううううぅぅ!!!」
「コ、コラァッ!! 勝手な妄想垂れ流して俺を貶めるんじゃねぇっ!! 大体まだ何もしてな──」
「ということはこれからするつもりだったんだーー!!! いやーーっ!!! 屈服させられちゃうーーー!!! ボロ雑巾のように身も心もボロボロにされて売られちゃうぅううううう!!!」
「人聞き悪いこと大声で叫ぶんじゃねぇ──ちょっ、逃げんなっ!!」
顔全体を真っ赤に染めた彼女はバタバタと腕を振り回しながらその場から逃走。追いかけるべきか迷ったものの、ここで彼女を追いかけてしまえば二次被害の可能性も高い。彼女もパニック状態だし、下手に追いかけるのは俺の傷を増やすことに繋がるに違いない。
「そのっ……ご、ごめんなさーーーいっ!!」
彼女は俺達に背を向け、一目散に駆けていく。謎の捨て台詞にちょっぴり傷付いた俺の肩を、莉桜姉が『彩ちゃんの気持ちは全部理解してるからね』とばかりに達観した表情でポンポンと俺の肩を叩いた。なんか腹立つな、それ。なんだかよく分からない内にいきなり事実無根なレッテルを貼られてしまった俺が言葉を失っていると。
「……あれ?」
彼女の逃走経路の途中に、何かが落ちている。近付いていって拾い上げればそれは、赤い手帳のような何か。
「へぇ〜、一年生だったんだね」
俺が拾った生徒手帳を横から覗き込んでいた莉桜姉が、のほほんとそんなことを言う。
「どう見たって四年生には見えなかっただろ」
「かわいらしい女の子だったねぇ」
「初対面でいきなりけなされたけどな」
ひとつ年下で、入学したての女のコの名前は汐見夏帆というらしい。見た目同様可愛らしい名前だったが、かわいいのは見た目と名前だけだったというオチでないことを祈ることにしよう。去り際、申し訳程度の謝罪をしていたし、悪い子ではないと思うのだが。
「(それよりも……)」
それよりもこの生徒手帳をどうやって彼女に届けてあげるか、それが唯一の問題と言えば問題だった。
「……あとで学生部に持ってくか」
落し物を届けるには一号館一階にある事務室的な役割を果たしている学生部に行かなくてはならない。面倒ではあるし自業自得と言えばその通りだが、気付いてしまった以上見て見ぬ振りも後味が悪い。俺は眉間の皺を揉みほぐしながら、ため息と共に彼女の生徒手帳をポケットにしまい込むのであった。
♢ ♢ ♢
「おーっす」
「あら、今日も来たのね」
待望のお昼休み。やっぱり不安だとまごまごしていた莉桜姉をパソコンルームに放り投げ、その足で古びた部室棟の階段を登ってきた俺を出迎えてくれたのは、錆びついた窓際のパイプ椅子と文庫本の似合うパッと見清楚なお嬢様だった。
「……あら、今日も懲りずに私に会いに来たのね」
「どうして言い直した」
「いえ、そのギラギラと滾るイヤラシイ目が私のあんなところやこんなところを凝視しているのが不快だったから、遠回しに釘を刺しておこうと思って」
「どう考えても濡れ衣なんだけど!?」
そもそも文庫本に視線を落としたままちらともこちらを見る様子はなかったくせに、随分な言い草である。
「それで? 今日は何をしに来たの?」
「何をって、いつも通り飯を食いに来たんだよ」
「なるほど。トイレでぼっち飯をするよりは、可憐でいい香りがして美しい憧れの先輩を前にお昼ご飯を食べた方がメリットは大きいものね」
「それ、自分で言うのか……?」
「ついでにお昼と夜の”オカズ”にもなるし」
「はっ倒すぞコラァ!!」
まあ怖い、だなんて言いながらも彼女は優雅にサンドウィッチを小さな口へと運びながらもそもそと食べている。俺は彼女を真正面から相手にするだけ無駄だと悟り、口をへの字に曲げながら近くのパイプ椅子に腰を下ろした。
「時に彩斗」
「ん?なんだよ会長」
「今日は莉桜と一緒じゃないのかしら」
「あぁ。莉桜姉なら課題やるって、パソコンルームに篭ってるよ」
「あら、それならどうして私に相談しなかったのかしら。法外な対価と引き換えに代行してあげるのに」
「うーん、よくわかんないけどそれが理由なんじゃないか?」
それが彼女にとっての軽口であることは重々承知しているものの、この性悪女が言うとどこまで本気か分からないのがなにより恐ろしい。
彼女───九条楓は、ひとつ年上の大学三年生。俺が彼女を会長と呼ぶのは、この民俗学研究会の会長という意味合いではなく、俺が高校時代に生徒会役員副会長として学校生活を送っていた時からの名残だ。当然その翌年には彼女の跡を継いで俺が生徒会長へと就任したのだが彼女のような圧倒的なカリスマ性とは比べるべくもなく、明らかに一生徒の常識を外れるほどの地位と権力を確立していた過去のせいで俺の中ではいつまでも生徒会長という印象が強くて、未だに彼女を名前ではなく役職のまま彼女を呼ぶようになってしまっていたり。慣れって怖い。
あの頃自分が何をトチ狂ったかもう記憶にないが、この傍若無人唯我独尊で、心を開いた身内に対してだけはどぎつい下ネタをかまし、時々優しい目をする先輩の後を追ってこの大学に入学したことだけは、今考えてもどうかしていたように思う。
「で?対価もなしに憧れの美人会長と二人っきりで談笑しようだなんて虫のいいことを考えていたキミは、当然この私を楽しませてくれるのよね?」
「楽しませられるかどうかは分からんが……まぁ、善処はするよ」
「どうせ初めてなのだからヘタクソなのは仕方ないけれど、お願いだから避妊だけはきちんとしなさいね。この歳で身篭るなんてさすがに荷が重いもの」
「アンタの頭の中どうなってんだ!? 口を開けば下ネタばっか吐きやがって!!」
この元生徒会長は俺をからかって楽しんでいるようなのだが、彼女のように美人でスタイルも良くてぱっと見“良い女の代名詞”である女がこうも中学生男子のような下ネタを口にしているところを見ると、やはりこの世に神様はいないのだと実感するというものである。
「あら、キミのような童貞オブ童貞クンにとってはご褒美でしょう? せいぜい有難がって拝聴するといいわ。このキレッキレの下ネタを」
「アンタだって処女だろうに」
「処女の価値と童貞の非価値を一緒にしないでもらえるかしら。マ〇カスとチ〇カスの価値は違うの」
「テメーいい加減にしやがれよ?」
彼女の本性を知ったら世界中の野郎どもが一瞬で幻滅しそうな発言をかます目の前の女に噛み付けば、彼女は涼しい顔をして、何のことかしら、と髪をかきあげた。
「あら、マラカスは立派な楽器でしょ? 価値あるものじゃない。何と勘違いしたのかしら、まったく。童貞クンの想像力というのは恐ろしいわね」
「じゃあチ〇カスってなんのことだよ」
「チーカス。チーかまの仲間だけど、パチものだから価値はないわ」
「コイツッ……強引に突破しようとしてやがるッ……」
持ち前の頭の良さと狡賢さを駆使しあの手この手で俺を辱めようとするこの女は、俺を舐めきっているとしか思えない。いつかギャフンと言わせてやりたいところだが、俺が彼女を言い負かすという夢がが叶う未来が来るかどうか、正直望み薄であることは誰の目から見ても明らかだろう。
「人を性的な目で見るのは男として健全でしょうし止められないけれど、程々にしておきなさいな。捕まっても知らないわよ」
「見てねぇ。これっぽっちも見てねぇ」
「ふーん? 本当かしらね」
彼女はチラチラとスカートの端をヒラヒラ揺らし、ブラウスの胸元をつまんでパタパタと上下させる。その目は完全に俺が目の前の巨大なトラップに引っかかるかどうかを試している目だ。
「私は寛大だもの。いいのよ、これで自分を慰めても」
「誰が慰めるかっ!!」
「本当は一日五回くらい慰めているんでしょう? ほら、いつもみたいにしてみなさいよ」
「それ普通にセクハラだからな!?」
「でも、いいわよ。キミなら」
「えっ」
呆気に取られた俺の反応を見た彼女は、口の端を卑しく吊り上げニヤリと笑った。罠だと分かっていたのに、まさかこんなに大きな釣り針に引っかかるとは。
「こんの……性悪女ッ!!!」
「けれど、充分自分を慰められるくらいのオカズは手に入れたでしょう? むしろそれを喜ぶべきじゃなくて?」
「誰が喜ぶか誰がっ!! つかオカズになんてしねぇっつーの!!」
「私がこんなことを言う相手はキミだけなのに……随分と寂しいことを言うのね」
「嬉しくねぇんだよっ!!」
彼女はそこでようやく手元の文庫本を閉じ、口元を手で隠しながらくすくすと笑う。
そのお嬢様然とした所作があまりにも似合っていて。他の奴には見せない茶目っ気を見せてくれて。その目が、あまりにも優しそうだったから。
俺は、彼女のこの顔にだけは弱いのだ。
「(……ズルイ人だよな)」
だから俺は、この人から離れられなくて。この人の後を何処までもついて行きたいと思えて。この人が微笑んでくれるなら、こんなくだらない日常さえも愛せるんだって、俺は心の底から信じているのであった。