第一話
そんなわけで莉桜姉とまったり朝食タイムを満喫していた俺だったが、姉さんがあまりにものんびり朝食をとっていたせいで家を出るのが少し遅くなってしまい、俺達は遅刻ギリギリの時間に慌てて家を出ることとなった。
「莉桜姉急げ! このままじゃ完全に一限遅刻だぞっ」
「わ、わかってるけどっ……お姉ちゃん朝ご飯食べすぎちゃってっ……」
「だから三杯目の時点でやめとけって言ったろうが!」
男の俺と比べても遜色ないほど食べる彼女だが、今日は軽くいつもの二倍は食べていたのでさすがの俺も苦言を呈していた。けれども俺のそんな苦言にも悠々と首を振り、彼女はそんな呆れ顔の俺にこう言ったのだ。
『いい? お姉ちゃんがこんなに食欲旺盛になっちゃったのは彩ちゃんとユキちゃんのせいなんだよ? ユキちゃんがいっつも美味しいご飯作ってくれて、彩ちゃんがいっつも隣で美味しそうに食べてるから、お姉ちゃんも彩ちゃんに釣られていっぱい食べたくなっちゃうんだよ?』
そんな理不尽な責任転嫁をする幼馴染など置いていってしまおうかと考えたものの、その後しばらく拗ね倒して部屋に引きこもり、食事もとらずに餓死でもされたら面倒なのでそこはぐっと堪える俺。
「ひゃっ……!!」
交差点を半分ほど進んだ辺りで、後ろからそんな間抜けな声が聞こえ振り返ると。
「あいっ、たたたた……」
「……っとに、なにやってんだよ」
交差点手前で仰向けになって倒れている彼女の元へ戻ると、彼女は鼻の頭を赤くしながら泣きそうな目をして顔を上げた。
「大丈夫か? 怪我は?」
「……うん。大丈夫」
「あーあー……こんなに服も汚して……」
俺は彼女を道の端まで連れていき、すぐ近くの自販機で水を購入。ポケットからハンカチを取り出して湿らせ、汚れた箇所をハンカチでトントンと叩いていると。
「もう大丈夫だよ。お姉ちゃん自分でやるから、彩ちゃんは先に行って?」
「アホ。俺の居ないところで怪我されても敵わんからな。どうせ今から走っても間に合わんし、まったり行くことにするよ」
「あ……」
困ったような、それでいてどこか嬉しそうな表情の彼女から目を背けながら、彼女の服の汚れを取る作業へと戻る俺に。
「ごめんね。お姉ちゃん、トロいから」
「誰もそんなこと言ってないだろうが」
ぺちんと彼女の額を指で弾くと、彼女は照れ笑いを浮かべて一言、ありがとね、と珍しくしおらし気な謝辞を述べた。
「よし。じゃあ行こうぜ、莉桜姉」
「うんっ♪」
こんなに暑いのに無駄に引っ付いてくる彼女の腕を引き剝がしながら二人並んで歩き出す。
この世界では突然超能力に目覚めて世界を救う旅に巻き込まれたりなんてことはないけれど、それでいいんだ。そんなもの無くたって人生は楽しく生きていける。それを──彼女達が教えてくれたから。
♢ ♢ ♢
とはいえ、だ。
そんな風に格好つけたところで不思議体験への憧れが完全に消えてしまったわけではない。この件に関しては、それはそれ、これはこれ、というやつで。もし今からでも間に合うなら大歓迎であるし、心の準備は出来ている。出来ればユキや莉桜姉は巻き込まないでくれると助かるが、それが無理なら彼女達もまとめて守れるような力を手に入れたい。平和でなにげない日常も大切だけど、たまには刺激的で心躍るような大冒険にも憧れてはいて。
「(でも……)」
もし本当にそんな事件に巻き込まれたとして、ユキや莉桜姉の身に危険が及ぶようなことがあったとしたならば、俺は本当に冷静でいられるだろうか。彼女達のために命を懸けられるだろうか。彼女達を救うために、世界を救うために、非情な決断を選択出来るだろうか──。
「なーんてな」
そんなものは起こりっこない。そんなものがそこらに転がっているなら、神様に出逢ったあの日から今日まで何も起こらないだなんて、そんなのはこのシナリオを書いている奴の怠慢だ。
「高校に入ったらそういう体験をするものだって、勝手に思ってたんだよな」
けれども俺は高校三年間を平凡な日常の中で過ごし、そして去年の春に何事もなく卒業した。高校生活はそれなりに楽しかったし、友人には恵まれ、気立ても良くどのご家庭に嫁に出しても恥ずかしくない妹も、ちょっと抜けている天然物、どころか色んな意味で天然記念物のような姉代わりの幼馴染のいる生活は、十二分に充実していたと言えよう。そんな生活を送っていながら物足りないだなんて一度でも口にすれば、多方面からバッシングの嵐が吹き荒れることは間違いないし、どれほど贅沢な悩みなのか自覚しろと夜道で背後から刺される可能性だってあるけれど。
「ねーねー、彩ちゃん。今日はお昼どうする?」
「まだ一限目だってのに今から昼飯の話かよ……」
相変わらず食いしん坊万々歳な腹ペコモンスターに、俺は講義中にも関わらず大きなため息を吐き出して。
「なんだ? もしかしてユキの作った弁当忘れたのか?」
「ううん、そうじゃなくて。彩ちゃんは今日も部室で食べるのかなって」
「あぁ、なるほど。そういうことか」
去年の今頃、夕飯を用意しながら毎日俺の帰りを待っていてくれる妹の許可を得て身を置くことになったサークル。俺は昼になるといつもその部室で、俺と莉桜姉を除く唯一のサークル会員である先輩とくだらない話をしながら昼食をとるという生活を繰り返していた。莉桜姉も同様に部室で昼食をとることもあれば、大学で仲良くなった友人達と一緒にいることもあるので俺や先輩のように決まって部室に顔を出すという訳でもないのだけれど。
「ほら、莉桜姉。ちゃんと授業聞いてないと今度は俺より下の学年になっちまうぞ」
「それは嫌だけど……どうするの?」
「うーん」
莉桜姉は一度受験に失敗し予備校に通いつつ浪人生活を続けていたのだが、今年は無事に合格を果たし俺と同じ大学、同じ学部の同級生として講義を受けている。別に彼女自身は勉強が出来ないわけではないが彼女が浪人生活を送ることになったのは、テスト用紙に名前を書き忘れたり、道に迷って試験時間に間に合わなかったり、寝坊して面接を受けられなかったりと、有り得ないほど天才的なボケを連発したことよってどの大学もことごとく諦めざるを得なかった結果だったり。
なので今年はまず最初に名前を書くように俺とユキの二人がかりで暗示をかけ、俺が受験会場まで付き添ったり、ユキがフライパンとお玉を持って彼女を起こしに行った甲斐もあり、第三希望まで危なげなく合格通知をもぎ取ってきた彼女は第一志望であった俺と同じ大学に進学することに決めたのだった。
そんなわけなので今の彼女と俺は一歳差ながら同学年で、放っておくとどんなポカをやらかすかも分からない彼女となるべく同じ授業を履修して大学生活を送っているという状況だ。俺としても入学式初日から知り合いがいたことは精神的に大助かりだった──のだけれど、初めは新しく出来た友人達に彼女だと勘違いされていたことはなんとも言えない気分だったとだけ言い添えておこう。
「会長もいるだろうし、いつも通り行くつもりだけど」
「そっかそっか。お姉ちゃんは明日までに提出しなくちゃいけない課題があって」
「あぁ、パソコンルームに引きこもるのな」
学生達が自由に使用出来る共用のパソコンルームには最新型のパソコンが数十台並べられており、キーボードを叩く音と衣擦れの音しかしない静謐な環境なので課題をやるにはもってこいだ。部室にもパソコンがあるにはあるが数世代前のオンボロパソコンしかないし、俺と会長がいたら課題をやるどころの話ではなくなるだろうし。
「会長に頼めば三十分くらいでサクッと終わらせてくれるかもしれないぞ?」
「ダメだよ、彩ちゃん。課題は自分でやらないと自分の身にならないでしょ?」
「それもそうか。それに会長になんか頼みごとをした日にゃ、どれほどの利息をつけられるかわかったものじゃない」
「もうっ、そんなこと楓ちゃんに言っちゃダメだよ? 楓ちゃんだって傷つく時は傷つくんだから」
「あの人がそんなタマかねぇ」
外から見れば楚々とした育ちの良いお嬢様という印象だろうが、内から見れば傍若無人唯我独尊ジャイアン思考の会長である。下手に借りなぞ作ればあれよあれよという間に自己破産へと追い込まれることは間違いないし、彼女にそんな普通の女の子らしい感情があるならば天地がひっくり返ったとしてもおかしくはない。ついでに世界各地で起きている戦争も瞬く間に終結することだろう。
「それじゃあ俺が手伝おうか?」
「ううん、大丈夫。もしかしたら遅くなるかもってユキちゃんに伝えてもらえる?」
「はいはい。夕飯の時間までに帰って来なきゃ先食べてるよ」
当然スマホも所有しているので彼女に直接ユキへ連絡するようにしてもらえばいいのだが、この天然記念物姉さんは機械全般NG女子なので、メールを送信する頃にはとっくに夕飯時を過ぎていることだろう。今回課された課題だって、文章作成よりもパソコンとの格闘がメインになるに違いない。
───キーンコーンカーンコーン。
チャイムが鳴る。それに合わせて多くの学生がパタンと小気味の良い音を立てて教科書を閉じ、黒板の文字をなんとなく板書しただけのルーズリーフやノートを鞄へとしまい、ガヤガヤと蝉の音のような騒がしさが教室内に戻って来た。これ以上は意味を為さないと悟ったのか教授は教壇に手を突いたまま嘆息と共に講義を打ち切り、次回までの復習内容を告げて教室を去っていく。
「(今日もこうして一日が終わっていくんだろうな)」
何気ない日常で、ありふれた世界。平凡で普遍的で、誰もが怠惰と惰性とほんのちょっとの幸せの中で生きているこの世界は、どこか愛おしく、どこか物足りない。みんながみんな、そんな世界の中で、なんだかんだと前を見ながら生きているのだ。
「彩ちゃん?」
既に帰り支度を済ませた莉桜姉が、俺の顔を覗き込みながら首を傾げている。
「なんでもないよ」
俺はそんな幾許かの物足りなさを抱きながら、荷物を投げやりに鞄へと突っ込んで立ち上がった。どこか満たされない歯痒さを、背もたれに残った僅かなぬくもりと共に置き去りにして。