プロローグ
──運命の出逢いってのは、誰にでも訪れるものだと思ってた。
例えば曲がり角でパンを咥えた少女とぶつかったりだとか、空から落ちてきた美女を格好良く受け止めて未知の世界へと繋がる扉を開いてしまったりだとか、突然異形の怪物に襲われたところを超常的な力を有した女の子に命を救われたことで世界を救う戦いへと巻き込まれたりだとか。いつかはそんな心躍る体験が俺を待ち受けているんだって、自分の身にも訪れるんだって、そう信じて疑わず、これまでの人生を生きてきた。
人は、自分以外の存在の意識を認識出来ない。自分に認識出来るものが世界の全てであり、自我を持つのはもしかすると自分だけなのではと、思う瞬間はどこかでやって来る。
しかしそれは当たり前のことであり、当たり前だからこそこの勘違いは必然性を持って──ああ、決して俺はそういう小難しい哲学的な話がしたかったわけではない。
要約すると、だ。
俺のそんな『運命の出逢い』はあくまで幻想に過ぎず、そんなものは初めから存在しなかったのだということ。
いい歳して未だに運命の出逢いだとか、奇跡だとか、超能力バトルだとか、タイムリープだとか、異世界のヒロインだとかを信じてる奴は即刻精神科を受診するか、電車に乗って日本一の山の麓にある樹海へと向かうことをオススメする。もしくはお医者様に頼み込んで頭をかっ捌いてもらい、洗剤とたわしでゴシゴシ脳を綺麗に磨いてもらうかだろう。
とにかく、俺が何を言いたいのかと言えば、そんなものを信じるだなんていうのはただひたすらに無益で、馬鹿馬鹿しいということ。
ありもしない神様を信じてみたりだとか、いつか異世界からやって来るヒロインを信じるなんてことは、人生において無駄の一言に尽きるのだ。
ここまでつらつらと不思議体験とは無関係な人生への失望を込めた愚痴を述べてきたけれど、俺がそんな空前絶後驚天動地荒唐無稽波乱万丈絶体絶命危機一髪奇々怪々妖異幻怪な大冒険を期待していたのには、もちろんやんごとなき事情もきっかけもある。
他の不思議体験を求めている彼らと大きく違うのは、前述の通り俺自身そういう経験があるということで──。
「兄さん?」
ふと呼ぶ声がして、俺──神無月彩斗はおもむろに顔を上げた。目の前の彼女の顔はどこか呆れたような、それでいてほんの少しの心配が混ざったようななんとも言えない表情をしていた。
「あぁ、どうした?」
「どうした?──じゃないです。人と話をしているのに急に黙り込まれたら、なにかあったのかと心配してしまうではないですか」
俺を『兄さん』と呼ぶ少女の名は、神無月雪菜といった。数週間前に進学したばかりの高校一年生。家事全般を得意とし我が家の家事と家計の管理を担当するものの、彼氏も出来たことがなければ恋をしたことさえもないであろう血を分けた肉親───ぶっちゃけ俺の妹だったりする。
「それはすまん」
「もう、思ってもいないくせに」
文武両道、成績優秀、容姿端麗、才色兼備。俺の友人曰く、彼女を褒めちぎる言葉は星の数よりあるらしいが、実兄である俺が他の人の前で素直にそれ認めてしまうのは憚られるというもので。しかし実際には容姿だって性格だって勉強だって悪くはないどころか、こんなどうしようも取り柄もない愚兄とは雲泥の差があるのは事実だと言わざるを得ないのが辛いところだったりする。人間として大きく劣っている自信はあれど、彼女より勝る部分があるかといえば精々身長と年齢くらいなのは兄として情けない気持ちが強い。
「しっかりしてくださいね。兄さんに何かあったら泣きじゃくる姉さんのお世話もわたしがしなくてはならなくなるんですから」
「ごめんって」
ただ彼女はうちに彼氏と思しき男を連れ込んだことも、恋人らしき存在の噂を耳にしたことはない。兄としての贔屓目はないつもりだが、それでもその辺の街行く凡百なる人々よりもよっぽどお相手の選択肢は多いだろうに。
とまあ、彼女の紹介はこのくらいにしてだ。
「それで、どうするんです? 今年の夏は」
「今年の夏って……あぁ、じいちゃんとこか」
ことりと湯呑みをテーブルに置きながら俺はうーん、と唸りながらしばし考え込む。
「せっかくだから行きたいところだけど……」
「でも兄さん、今年は忙しいって言っていませんでしたか?」
「確かに忙しいのは忙しいんだが、たまにはじいちゃん達に顔見せとかないと罰が当たりそうだし」
「それもそうですね」
俺が彼女の後ろにあった仏壇を眺めながらそう言えば彼女は満足げに頷き、その拍子に彼女のトレードマークとも言えるポニーテールの尻尾がぴょこんと跳ねた。
「……もう十六年近くも経つのか」
「わたしはまだ物心もついていなかったのでよく知りませんが、もうそんなに経つんですね」
仏壇に立て掛けられた二枚の写真。笑顔でこちらを向いているその二人は、俺達兄妹の両親だった。まだ俺が幼かった頃、事故で亡くなった両親の代わりに俺達をが生きていく上での資金援助をしてくれたのは田舎のじいちゃんばあちゃん、それとその後俺達を一時引き取って世話をしてくれていた叔母さんで。
今こうして妹と二人暮らしが出来ているのも、じいちゃんばあちゃんと叔母さん、それから今でもお隣に住んでいる幼馴染の家族のお陰であると言わなければならない。
「であれば、いつもよりももっと節制を心がけなくてはいけませんね」
「だな。ユキには苦労をかけっぱなしで情けない限りだが」
「兄さん」
俺を咎めるような呆れるような顔をして二度三度首を振り、雪のように真っ白な人差し指を俺にぴんと向けた彼女は言った。
「いつも言っていますが、それは言いっこなしですよ。兄さんとの二人暮らしを望んだのはわたしなんですから」
そんな風に俺へ微笑みかける彼女。何より大切にしている彼女が笑顔でいてくれるなら、俺はどんなに生活が苦しくなろうとも頑張れる自信がある。
「あれ、そういや莉桜姉は?」
「そういえば今日はまだ来ていませんね」
「あいつ……また寝坊かよ」
最終的には俺かユキが起こしに行くとはいえ、春休みが明けたばかりだというのにだらけた生活をしている彼女にため息を吐き出していると、ちょうど玄関の方からガチャガチャと音が聞こえてきた。
「二人ともおっは──あー! もう二人ともご飯食べちゃってるー!」
「当たり前だろ、この寝坊助」
「ずるいずるいずるいー! お姉ちゃんも食べるっ」
ウェーブがかった髪をほわほわと波打たせながら慌ててリビングに飛び込んできた寝坊助の名は、雛森莉桜。俺と雪菜の姉代わりとして昔から俺達兄妹の面倒を見てくれていたお隣の幼馴染──と言えば聞こえはいいが、実際には毎朝うちにやって来て朝ご飯ををたらふく平らげうちの冷蔵庫を空にすることを生業としており、夜になれば眠くなるまでうちに居座るという、最早どちらが世話をしているのか分からないような状況で、今日も今日とてどこかぼんやりしていそうな雰囲気を醸し出しているのは決して彼女の目がタレ目気味であることだけが理由ではない。
「どうして二人とも呼んでくれなかったのー!? 二人ともいつの間にそんな冷たい子になっちゃってっ……!!」
「呼んだっての。莉桜姉が『もう起きた』って言ったんだろうが。そのあとユキも起こしに行っただろ?」
「はい。わたしが起こしに行った時は『うーん、あと五万光年……』と言っていましたが、意識はあったみたいだったのでそのまま降りてきてしまいました」
「ユキ、それは起きてないと思うぞ」
割合あっさりとしたユキの態度にまたぶーぶーと文句を垂れ流す莉桜姉はさておき、俺はユキの作ってくれたおかずが冷めないうちにと箸を伸ばす。
彼女の両親は昔から朝は早く夜は遅くに帰宅せざるを得ないこともあってか、彼女の面倒を満足に見てあげることが出来ずに半ばうちに預けているようなもので、その代わりに彼女一人が生活していくには少しばかり多い生活費を援助して頂いていたりする。もちろん彼女の両親の好意はありがたいし、そのお陰でうちの家計が回っている部分もあるので助かるのだが、そもそもうちのエンゲル係数が明らかに高いのはこの幼馴染のせいなのでそろそろ彼女から直接追加の食費を請求しなければと思っている次第である。
そんな彼女も食卓に並んだ朝ご飯の匂いに気を良くしたのかさっさと機嫌を直しいつもの席に座りながら手を合わせると、ユキが作ったおかずに勢いよく手をつけ始めた。よく見ると彼女専用の箸とお皿とこんもりご飯が盛られた茶碗が置いてあるので、そろそろ彼女がやって来ることを予期していたのだろう。我が妹ながら出来た奴だった。
「あれ? ユキちゃん、もうすぐ学校の時間じゃない?」
「はい。なのでわたしは先に出ますね、兄さん」
「おう。後片付けは莉桜姉がやってくれるから安心してくれ」
「はーい。お姉ちゃんに任せて!」
「……姉さんがお皿を洗うと何枚か足りなくなるので、兄さんにお願いします」
いつぞやの惨劇を思い出したのだろう。どこかげっそりとした顔の彼女は席を立つ。
「いってらっしゃい」
「ひっへひゃっひゃーい」
俺と姉さんが彼女に手を振ると、彼女は「そうだ」と何か思い出したようにこちらを振り返った。
「いつも通りキッチンに兄さんと姉さんのお弁当を用意しているので忘れず持って行ってくださいね」
「いつもありがとな」
「やったー♪ 今日のお昼も楽しみっ」
毎度のことだがさらっと姉さんの分も用意している我が妹様はさすがの一言に尽きる。とはいえ何の遠慮もない図々しさの塊である姉さんも姉さんで平常運行で、ある意味ではさすがと言ってもいいかもしれない。
「あとしっかり戸締りを確認して、帰りがけにスーパーでお醤油を買ってきて欲しいです。それと今日は半日授業なのでわたしの方が先に帰ってくると思いますが、もしわたしよりも先に帰宅したら冷凍庫に入っているお肉を解凍しておいてください。えっと、それから──」
「なんだ? まだあるのか?」
図々しくて楽天家な姉さんとは対照的に心配性のユキは、少しだけ気恥ずかしそうにしながら俺に向けてこう言った。
「今日も兄さんの大好物作って待ってますから、早く帰ってきてくださいね」
そんな風に言われてしまっては断る理由もなく、俺はそんな優しい妹にこう返す。
「あぁ、楽しみにしてるよ」
冬に咲く花のように清廉で静かな笑みを浮かべた彼女を、血の繋がった俺でさえ──素直に美しいと思った。
♢ ♢ ♢