紅い星
僕は夜食を買うため、スーパーマーケットへ出かけた時の帰り道。空は血のように紅く染まっており、その美しいさまは僕の心を一瞬で奪い、心酔させた。
レジ袋片手にそれを見上げながら小道を独り、トボトボと歩いていると何か硬い物を足で蹴る感触がし、同時にガコリと鈍い音が聞こえた。絶景から目を放して足元を確認すると木製の宝石箱がポツリとコンクリート製の道の隅にひっくり返しになっていた。そのただ住まいはまるで僕に拾ってくれと言わんばかりに哀愁を漂わせている。
僕は興味本位で宝石箱を手に取る。小さく可愛らしい装飾が施された箱の持ち主の容姿は一目で予想がつく。きっと彼女はこれを無くして困っているに違いない。名前が何処かに記されてないか箱を一通り確認するがその様なものはどこにも見当たらない。
気が引けるが一応中身を確認しなくてはならない。もしかしたら持ち主の手がかりとなるものがあるかもしれない。決して中に入っているものが気になったわけではない。
恐る恐る箱を開けようと手をかける。生唾を飲み込みゆっくりと箱を開けるとそこにはあの景色に勝るとも劣らない真紅の輝きを放つ正12面体の宝石が現れた。
「何だこりゃ……」
思わず声が漏れるほどの美しさを備えた宝石は鏡のように周囲をその身に映し出す。それらが複雑に重なり合って宝石の内部に一つの図形の様なものを作り出し、よくできた代物だと心の中で感心する。そして様々な角度からなめるようにそれを見る。僕にはさっきの絶景よりもこの宝石の方が綺麗だと感じ、すっかり虜になってしまった。
だがこの有意義な時間はすぐに去ることとなった。
「そこの君、何をしているのだい?」
いきなり後ろから野太い声で話しかけられ、心拍数が急激に上がる。首だけ後ろに振り返ると自転車に乗った警官がライトで僕を照らしている。気づけば辺りはすっかり真っ暗闇だ。
「何を持っているのだ? 見せなさい」
そう言って警官は自転車を止めて僕の方へ近寄って来る。恐らくこの宝石は手放すことになるが、ここで嘘をついても仕方がない。真実を話し、面倒事を避け、さっさとお暇しようと思った。
「お、落とし物ですよ。ほら、この宝石……」
僕は手のひらに10円ガムサイズの宝石を乗せて警官に見せる。警官はそれを目にした瞬間、毒虫でも見たかのように体をのけ反らせる。その時の警官の顔は真っ青で、目の焦点はあっておらず、今にも目玉ひん剥いて泡をふき気絶しそうだった。
不審に思った僕は今一度手のひらを確認する。どう見ても綺麗な宝石で、何も害はない。
「どうしました? ただの宝石ですけど」
「ああ、そうだな……ただの宝石だよな」
暗いから他の何かと見間違えたのだろうか、だがライトも持っているのに見間違えることはあるのかと疑問に思う。
僕は警官に宝石を箱ごと渡そうとするがなぜか受け取ろうとはしない。落とし物の受取りは交番に直接届けないと駄目なのか、警官は汗をだらだらと湧水のように流しながらそのままそそくさと自転車で去ってしまった。
今日はこの宝石を持ち帰り、明日交番に直接届けることにした。僕は家でこの美しさを堪能出来ると思うと心が躍った。
***
大都会に立ち並ぶ高層ビル群。その中の一つに僕の住んでいるマンションがある。10階建てだが家賃はそこそこ安い。アルバイト止まりの僕でも住め、案外気に入っている。
僕の部屋は7階で、階段を使うとそうとう体力を削られる。だから普段はエレベーターを使って昇り降りをする。エレベーターが来るまで待っている間、闇に浮かぶ月を見る。昔僕はありのままの景色を映す写真家になろうと思っていたが、納得のいく写真はどこでも撮れなかった。このご時世、美しい自然はほとんど既に映され、誰も知らない景色なんて無くなってしまった。僕は誰も知らない、秘密の景色を撮りたかったのだ。
そんなことを考えているうちに鈴を鳴らすような音が鳴り、エレベーターが到着する。自動扉が開き、狭い空間に僕を招き入れようとする。エレベーターに入り、扉を閉めるため『閉』と書かれたボタンを押す。扉がもうすぐ閉まるというところでいきなり鉄板を力強く叩くような音がし、謎の手によって扉が閉まるのを妨げられる。
僕は思わず身を震わせ、謎の手を凝視する。角張があり、少し血色が悪く、色白で不気味な手。遂にこのマンションで出たかと思ったが、手の持ち主は僕の隣の部屋に住むサラリーマンの小林さんだった。
「すみません。私もエレベーターよろしいですか?」
生気のない低い声で小林さんはエレベーターの扉をこじ開けながら訊いてくる。その姿は幽霊というよりもからからに干からびたゾンビのようだった。
「どうぞ……」
僕が冷や汗を拭きながら、『開』のボタンを押すと小林さんは自動ドアをこじ開けていたにも関わらず何食わぬ顔でエレベーターの中に入る。相変わらずの凄い怪力だった。実は小林さんとは幼馴染みで、彼とは奇妙な縁がある。小学校から高校までずっと一緒で、度々同じクラスになったりした。だが僕は小林さんのことはあまり好きではない。呼吸をするように人を欺いたり、平気で裏切ったりするような人だ。僕は被害者になったことはなかったが、出来れば関わりたくない人間だった。
狭い空間の中、僕は無言で縮こまる。早くこの嫌な雰囲気から遠ざかりたいと願っていると、突然吐き気が催してくる。手で口元を抑えてその場にうずくまると小林さんが「大丈夫ですか?」と訊いてくる。その拍子にレジ袋に入れていた宝石箱が開き、紅い宝石が僕の前に飛び出してきた。それを視界に入れた瞬間、突然激しく嘔吐してしまった。
小林さんはすぐに携帯を取り出し、電話をしようとするが僕はそれを止める。この人はこの期に及んで何を企むか分からない。借りは作りたくない。
しかし僕は何故宝石を見た瞬間嘔吐してしまったのだろうか。さっきまでは美しいと思った宝石が今では吐き気を催す(実際嘔吐してしまったのだが)邪悪なオーラを放っているように見える。
「本当に大丈夫ですか?」
普段は鉄仮面の小林さんは珍しく心配そうな顔をする。するとふいに紅い宝石に目をやるが小林さんは宝石を見ても何ともない。むしろさっきより血色が良くなり、少し生き生きとしてきているようにも見える。
小林さんは「せめて荷物くらいは……」と言ったが、前にいった通り僕はこの人に恩は売らない方針でいる。エレベーターが目的の階にたどり着くと小林さんは最後まで心配した様子でエレベーターを降りた。
僕はよろよろと歩きながら一度部屋に戻り、その後掃除用具でエレベーター内の吐瀉物を掃除して戻った。
部屋に戻って入浴を済ませた後にあの宝石箱をテーブルの上に乗せる。もう吐き出すものは無いから大丈夫だろうと思い、宝石箱を開く。紅色の宝石が姿を現し、照明に当たり輝く。やはり直視できないほどの剝き出しの悪意を放っているように見える。すると飼っている猫が興味ありげに近寄ってくる。見たところは猫には何の影響も無いようだ。
僕は宝石箱を閉じて歯を磨き、照明を消す。早朝には交番に行って宝石箱を届けようと思い床に就いた。
***
真夜中に『かたっ……かたかたっ』という物音で目が覚める。僕は猫が何かしているのだと思ったがその推測は間違いであることがすぐに分かった。なぜなら猫は僕の布団の中丸くなっているからだ。
ならば“誰が”この物音を立てているのか……物音は『がたがたがたがたがた』と更に激しくなる。音の発生源が分からなければ、何が動いているのかもわからない。わからないという恐怖が着実に僕に植え付けられる。最終的に音は止まったがそれから怖くて眠れず、ずっと布団の中に籠り朝を迎えた。
今日はバイトがあるのだが眠れなかったことと妙に体がだるいのを理由に休ませて貰った。宝石箱を交番に届けるのも難しいと思い、布団に入ろうとすると突然呼び鈴が鳴る。
出てみると小林さんが立っており、昨日のことを気にかけに来てくれた。冷徹な人だと思っていたがそうでもないようで彼が「何か手伝おうか」と言われた。僕は恩を売らないと言ったが彼の事を信じてみようと思い、宝石箱を交番に届けてもらうことにした。小林さんはそのことを快諾してくれた。
その後僕は軽い食事を取った後眠った。夜の様な恐怖はなく、割と簡単に眠ることができた。起きたころには時刻は3時を既に回っていた。
何となく部屋が寂しいと思い、テレビを付けるとニュースで傷害事件があったことを報道していて、こんな内容だそうだ。
午前9時頃にコンクリートブロックを持った男が大通りで周囲の人々を無差別に殴りつけ、多数の重傷者がでている。現在も犯人は逃走中、身長は175~180センチで灰色のスーツ姿の男性だという。ここ最近、近辺で様々な事件が多発していて、世の中物騒になったなぁと思い、猫に餌をやる。
結構眠ったはずなのだが全く体のだるさは抜けておらず、それどころかひどくなっている気がする。僕は厚着をして行きつけの診療所に出かける。
数十分歩いて、診療所すぐ近くまで来た時に咳が出た。その際に吐血をし、すぐ近くを歩いていた女性が心配そうな顔をして僕に声をかける。
「大丈夫ですか? 救急車呼びましょうか?」
「いえ、大丈夫です」
「血を吐いているじゃないですか。絶対に呼んだ方が……」
確かに道端で血反吐を吐いている人を見過ごすことは普通できない。僕だって見過ごさない。だが幸い診療所がすぐ近くにある。
女性がかがんだ瞬間、その肩に提げていた鞄の中から紅い何かが転げ落ちる。よく見るとあの正12面体の二度と見たくなかった宝石だった。それは前に見た時よりも何倍も極悪なオーラを放っている。僕はその邪悪な見てくれに当てられたせいか全身に裂く様な痛みが走った。立っているのも辛く、僕はその場に倒れこむ。女性も宝石を見た瞬間思い出したかのように頭を抱えてうずくまり、嘔吐する。
何故女性の鞄に入っていたのかは謎だ。小林さんは何をしているのだろうか。そんなことを考えながら僕は残された力を振り絞り、診療所まで蛇のように地面を這って進む。
耳をつんざく人々の叫び声がひっかくように脳に響く。駄目押しと言わんばかりに肉を裂く、引きちぎるような音が全方向から聞こえる。きっと全て幻聴だろう。
僕はやっとのことで診療所の扉へたどり着く。手すりを掴んでよろよろと老人のような動きで立ち上がり、扉を開けると突然視界が阻まれる。というのも目に液体が飛んできたから目を瞑っただけのことだ。それにしてはえらく鉄の様な匂いがする液体だ。これで赤色ならば血液確定だ。僕は手で液体を拭いその手を確認する。
赤い。僕の手に染み込んで少し色あせていたが赤色なのは直ぐにわかった。でも何故血が飛んでくるのか、その答えは足元を見ればわかった。
そこにはさっきの僕のように血反吐を吐いて、吐いて、吐きつくした診療所の院長が倒れていた。少しすると院長はその場で爆発四散し、辺り一帯に血と肉片をばら撒いた。もげた腕や足からは白い骨や赤い肉が見え、臓物が飛び散る。もはや原型など留めておらず、これが院長だとわかるのは僕だけだ。
この悲惨な状況を理解するにはしばらくかかり、その結果としてこの辺で新種の感染症が流行っていると思うことにしかできなかった。僕もいずれあの人のようになるのだろうかと思い絶望する。さっきの叫び声や肉が引き裂かれる音は幻聴なんかでは無かった。どうしようもない現実に僕は疲れて全身を這う痛みを忘れ、気でも狂ったのかその辺を散歩する。
皆、さっきの院長のように爆発四散し、この星を血で汚す。中には人を殺し、その血をぶちまける人もいる。結局人を殺した人も最後には跡形もなく四散する。その中には小林さんもいた。
誰かの笑い声が聞こえる。この状況で笑っている者がいる。この感染症の病原菌か何かを放った人か、人を殺している人か。これこそ地獄絵図だ。
そういえばあの宝石はどこに行ったのだろうか。ここにいてもあれのオーラを感じ取れる。あれを最初に見たときは何とも無く、逆に美しいと思うくらいだった。でも二回目は気持ちが悪かった。宝石に何の違いがあっただろうか。いや違いなんて無かった。本当にあの宝石はこの状況と何の関係もないのか?だが僕はあの宝石が無関係には全く思えない。
僕はこの世に疑問、未練を残したまま、音を立てて全身から血しぶきを上げた。首だけになってもまだ少し意識があるがもう長くないだろう。暗転する視界の中、最後に見たのは消しゴムで字を消すように簡単に消える建造物だった。
***
空を飛ぶ。人類は鳥のように美しいあの空を飛ぶことを夢見た。そして幾つもの障壁を乗り越えて、大願を成就させた。そして今僕は飛んでいる。浮いていると言った方が正しいか。この星が紅色に染め上げられるのを傍観している。やがて青い地球は紅くなった。鮮やかで美しく残酷な紅い星。あの時見た空よりも紅く綺麗だ。
これだ。僕が撮りたかった絶景。誰も知らない、誰も見られない景色。
でも、誰が見るんだ?みんな死んでいるのに。
そうだ、どうしてこんなことになったんだ。狂っている場合じゃない。僕はこの星の様子が、地上で何が起こったのかまだ完全に理解していない。
ふと紅い星の中心で誰かが笑っているのが聞こえる。みんなが爆発四散している時に聞こえた声。無機質で不気味な笑い声。あれは絶対に人間の笑い声では無い。僕は笑い声を上げている者の元へと向かう。それは山の頂上で一人……いや一台で右手に紅い宝石を乗せて笑っていた。その顔は紅い宝石が作り出していた図形そのものだった。図形だと思っていたのはロボットの顔だったのだ。やはり、宝石が関わっていた。
ロボットのは目はギラギラと星のように紅く輝かせてこんなことを言っていた。
「遂に人間どもを消してやったぞ!」
凄く達成感に満ちた声音だった。あのロボットは人間が憎かったのか。それもそのはずこのご時世だ。あのロボットは人間にさんざんこき使われて、うんざりしていたのかもしれない。この科学世紀ならではのジレンマなのだろうか。自我を作りだしたロボットが人類に反旗を翻した。よくありそうな内容が現実になってしまった。
夕暮れでもないのに紅い空、血の海に浮かぶ肉片、笑うロボット。
この世界は、どこで間違えたのだろうか。
***
目覚めると、僕は部屋の布団にくるまっていた。その中に猫もいる。僕は死んだのではないだろうか。起き上がるといつもの何の変哲もないいつもの自分の部屋が見える。空が飛べないから僕は生きていのだろう。あれは悪い夢だったのだと思い、安堵する。とんでもなくリアルな夢だった。
どこからともなく『かたっ……かたかたっ』と音がする。僕はこの音に既視感を覚える。それは僕を夢の中で恐怖させた音。だが今なら怖くない。いきなり爆発四散する方がよっぽど怖い。
照明を付け、音の発信源を探る。また『がたがたがたがたがた』と大きな音が聞こえ、その方向を見る。
するとあの宝石箱がひとりでに動いているのが見える。普通ならこの怪奇現象に恐怖するところだが僕は人類のために立ち向かわなくてはならない。大げさで馬鹿らしいかもしれないし、狂人とか中二病とか言われるかもしれない。だが誰に何と言われようがこの邪悪な宝石は人類を滅ぼす。たかが夢で見たことかもしれないがこんな悪の権化はこの世に残してはいけない。
僕はハンマーを持ってがたがた動く宝石箱に近寄る。そして箱を開けようと手を伸ばすと突然、宝石箱が死んだかのように動かなくなった。
「今の内だ!」
僕は気を引き締めるためにあえて声を出し、箱を開ける。中には吐き気を催す邪悪が玉座に座す王のように悠々として箱に収納されていた。僕は気持ち悪さに耐え、宝石を床に打ち捨てる。そして狙いを定め、宝石にむかってハンマーを力強く振り下ろし、宝石を粉々に砕いた。その時、宝石にため込まれた悪意が一斉に飛び出してどこかへ走り去ったように感じられた。
「これでいいんだよな……」
僕は宝石の塵を集めて、箱の中に戻して翌日火をつけて燃やした。灰は散り散りになって風に流され、消えていった。もはやあれには何の力もないはずだ。
家に帰ってテレビを付けると夢で見た傷害事件も無く、紅い宝石を無くしたという人も誰も現れない。その日は平和に暮らすことが出来た。僕はこの日常の何気ない、当たり前という幸せを噛みしめて今を生きていこうと思った。
この青い星の中で……