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記憶は強引に、美しく輝く

作者: 中川涼平


「好きな人がいるんだけど」

 ある日の昼休み、僕の友達が言いました。


「告白すればいいじゃん」

 僕は笑って言いました。


「いや、無理だって分かってるから」

 僕の友達は恥ずかしそうに、頭をかきながら笑いました。


「そんなの言ってみないとわからないだろ?後悔したくなかったら、勇気を出してみろよ」

 僕には中学生の頃、好きな女の子がいました。卒業式の日、結局告白することができず、一人で家に帰りました。僕はそのことを、思い出していました。


「いいや、いいんだよ」

 友達は言いました。


「どうして、いいんだよ」

「無理だって分かってるのに、告白なんかしないよ」

「そんなの分からないでしょ」

 女々しい奴だな、僕はその友達の話を聞いて、いらいらしてきたのです。


「好きな人誰なの」

「えー、言ってもいいけど、引かない?」

「大丈夫だよ」

 友達が、頬にえくぼを作りながら、教室の、窓際の『誰か』を、指さしました。




その時のことを思い出して、この小説を書きました。

友達を、仮にA君と名付けましょう。A君、あなたは今、元気でお過ごしでしょうか。




                       * 



この投稿が、僕の初投稿です。

ドキドキしながら小説を書きました。よろしくお願いします。







 最後のカード。それは夜景の見える超高層ホテルのレストランでも、夕焼け頃の公園でも海辺でもなかった。テーマパークなんてほとんど行ったことすらなかったから、どのみち選択肢は限られていた気がするが。

 自分で言うのも何だが、俺はその辺、器用な男ではない。今さら器用に思われたいとも思わないし、それを隠そうとするプライドだって、持っていない。

 こんなことは言い訳にしかならないのは分かっているけれど、ずっと一人の女と付き合い続けてきたから、経験が、浅いのだ。

 でも、ずっと一人の人間を愛し続けたことに対しては、誇りを持っている。それも、とてつもなく大きな誇りだ。それはきっと、ほんのわずかな、ごく少数の限られた人間にしかすることができないことだから。だから俺が持っているのは、地球規模の、とてつもなく大きな誇りだと思う。

 それはあの人に、言われたことでもあった。




「結婚するか」

 そう言ったのは、いつもみたいに朝食を食っていた時だった。ざくざくとしたトーストの耳を齧ったそのあと、俺は言ってしまったらしい。

 これは言い訳ではなくて、本当に覚えていないのだ。プロポーズをどのような言葉でしたかどうか、ではなく、プロポーズをしたこと自体を、だ。断じて嘘ではない。俺はそう誓える。すっぽりと、そこだけ記憶が抜けている。

 それでも、その無意識のうちで話した言葉は、要するに俺たちの人生を決定してしまう言葉だったから、俺の目の前の存在を困惑させるには十分すぎるほど、尖っていた。顔を上げた時、マグカップを持ったまま口をぽかんと開けて、美佳が表情を失っていたのだけ覚えている。俺は美佳の間の抜けた表情を見て、笑いそうになったのだ。

 コーヒーの香ばしい匂いが、染み渡るようだった。ミルクも砂糖も入れなくなったのは、いつ頃だったか。大人になったなあ、なんて、その時思っていたかもしれない。

 俺はしばらく黙っていた。コーヒーを一口、そしてタブレットをいじる。定期購買しているスポーツ新聞。今でも、サッカーは好きだ。

 美佳(みか)もしばらく黙っていた。俺が何かを話すのを、じっと待っているように見えた。

 ひとしきり沈黙が流れた。俺は首をかしげる。様子がおかしかった。どうしたの、俺がそう聞いたあと、美佳がようやく放った言葉は「それ、今言う?」だった。換気扇は回り続けていた。俺はコーヒーを一口すすってから「なにが?」と返した。

「今、結婚するか、って言ったから」

「だれが」

(しゅん)が、言ったよ」

「俺が?」

「うん」

「だれとだれが結婚するの」

「……私は、知らないけど……」

「結婚、したいの?」

「……うん」

 瞬という、俺の名前。その名前を久しぶりに呼ばれた気がして、少し、照れた。

 それが俺の人生最初の、おそらく人生最後のプロポーズだった。

 



 俺はその日まで、結婚を意識したことなんてなかった。それは俺の中で、どこか他人事のようなものであった。友人の結婚式に出ても、自分の結婚を意識したことはなかった。美佳のことは大好きだったが、自分たちにはまだ早いと、どこかで思っていたのかもしれない。

 時間が回る中、いつかはその時がくるだろう、その程度の認識だった。そのいつかが今であるはずだとか、そんなことを考えたこともなかった。ずっと一緒に居過ぎたからかもしれない。

 でもとにかく、俺はプロポーズをした。そして成功した。




 高校を卒業してから、当たり前だが何年もの時間が流れた。いつの間にか年を取り、俺はいつの間にかプロポーズをしたのだ。いつの間にか、という言葉が本当に似合う人生だったと思う。これまでの人生をまとめた伝記を作ったとして、ポケットに入るくらいのメモ帳のページ片面に、全部収まってしまいそうなくらいの、情けない人生だった。これまで美佳を幸せにできたかどうか、それも微妙なところだ。

 俺はプロポーズをした日が何月何日だったのか、それすら覚えていない。朝食のあと仕事に行って、終わるとコンビニで美佳の好きなシュークリームを買って帰り、先に帰っていた美佳の料理を食ってから(その日の晩御飯は俺の好きなハンバーグだった)そのシュークリームを一緒に食べた。ダブルベッドの中でも何も起こらなかったし、特になんてことのない一日だったはずだ。

 そのまま特になんてこともないまま月日は流れて、実際に結婚式を開くことになり、両親への挨拶や式場の確保などで、俺たちは今少しだけ忙しい。実際はかなり忙しいけれど、それでも日常を狂わされるほどではない。

「ディズニーランドでプロポーズされるのが私の夢なんだよねえ」

 高校生の時から、美佳はそう言っている。今でも時々そう掘り返して冗談を言うけれど、それでも彼女は、今は幸せそうに見える。いつか二人で買いに行った指輪も、薬指の根っこで輝いている。

何もかもが十分、これで正解だったんじゃないだろうか。ディズニーランドでプロポーズ、劇的だけど、きっとうまくいかなかっただろう。根拠はないけど、そう思う。根拠があるとするならば、きっと、あれしかないだろう。



「恋愛って大富豪と一緒だから」

あの人の言葉、その恋愛観が染みついてしまっている気がして、俺は少し笑ってみた。

 ははは。




 あの人は今どこにいるんだろう。そう考えると、少しドキドキする。

 それは恋愛感情ではない。第一、その人は男だ。

 俺には美佳という恋人がいる。それに、もうすぐ結婚する。

 高校生の時から、この感情が分からずにいる。俺にとって先輩であり憧れの人であり、ある意味では親友でもあったあの人。

 尊敬か、友情か。ライバルとは言えないけれど、そんなすべてが混ざり合った中心に、いつもあの人がいた。

 いつの間にかここまで来た人生だったけれど、あの人と過ごした思い出は、あの一年間は、俺の中で、最も美しい記憶として、輝いている。真っ暗な空、分厚い雲を無理やり引き裂いて現れた月みたいに、強引に、今でも輝いている。



                       *



「恋愛って大富豪と一緒だから」

 ワタルさんはあの時、そう言ったはずだ。それは風の音にほとんどかき消された。

 へえっ?と俺の声は裏返る。その声にも、ワタルさんはいちいち笑う。

 ははは、という爽やかな笑い方。不思議と、嫌味が全く感じられない。

 ワタルさんの言動。悔しいとも思わせないことが、俺は悔しかった。この人にちょっと笑顔を向けられるだけで、おとなしい女の子なんかは、一瞬で落ちてしまうんじゃないだろうか。

 やっぱり、少し悔しかったのだろうか。

「だから、恋愛と大富豪って、一緒なんだよね」

「童貞のくせに恋愛語るんですね」

「童貞だけどな、分かることは分かるんだよ」

「はあ」

「ははは、少しは興味を示せよ、若者」

 そう言うと意地悪に、ワタルさんは自転車を漕ぐスピードを上げる。部活を引退したのに、あの人は随分と元気だった。




 ワタルさんが部活を引退してから、俺は部活に出なくなってしまった。ワタルさんと一緒に自転車で登校して、ワタルさんと一緒に自転車で下校する。そんな堕落した生活が、いつの間にか始まっていた。

誘ってきたのはワタルさんのほうだった。最初は「暑いからアイスでも食って帰ろうぜ」と言われ、まだそこまで暑くない六月の曇り空の日に、ミニストップでソフトクリームを奢ってもらった。

 どうして俺なんかを誘ったのか分からなかった。そもそも、それまでは話をしたことすらないような、いや、一度だけあったかな、そんな感じの関係だった。同じ部活の先輩だったから、一応その点では接点はあった。

「いいから付いてきてくれよ。部活引退して、暇なんだ」

「はあ」

 俺はきちんとノックしてからドアを開ける感じで、ものすごく慎重に、ワタルさんという人間に、近づくことを決めた。俺は一学年後輩で、一応礼儀だって、それなりにわきまえているつもりだ。単純に、その時は訳が分からなかったからだけなのかもしれないが。

 次の日もワタルさんに誘われ、地元のラーメン屋に行った。

 その次の日も一緒に帰った。川に石を投げて遊んだ。

「受験なんか死んじまえ」

 ワタルさんは夕方の赤い水面をはねる石に向かって、そう叫んだ。

 土日をまたいで月曜日、今度は電車に乗って、ワタルさんの参考書を買いに行くのに、付き合わされた。次の日も、二人で遊んだ。

 それがずっと続いた、っていうだけの話だ。




 ワタルさんとは家が近くて、お互いに自転車通学だった。あの人が現役だった時から、通学路でたまに見かけてはいたけど、その時は特に声はかけなかった。

 現役の時は、朝練すら休まなかった背番号10番。

「後輩が部活さぼってるのに、いいんですか」

「引退したから、関係ねえし」

 そう言って笑う。かなり身勝手だ。

 でも、理由は分かる気がするのだった。

 後輩と仲良くしたい。ワタルさんはきっとそう思っている。ただ純粋な、人間としての欲求だ。ある程度付き合って、ワタルさんもただの人間なんだなって、その時には分かるようになっていた。

 完璧、っていうオーラを身にまとっていたワタルさん。前まで、そう見えていた。でも、その中にいるのは、一人の、普通の人間だった。




「大富豪って、最初の手札で勝負が決まるようなものでしょ」

 話は戻る。俺たちは、自転車で登校している。

 信号待ちの間に、ワタルさんは再びその話を始めた。

「そうですねえ」

「手札が弱い奴は、だいたい自分より弱い奴にしか勝てないんだよ。恋愛も同じ」

「手札って、恋愛に例えたら何ですか?」

「容姿、身長、経済力、学歴、などなど。絶世のイケメン、っていうカードが2だったりジョーカーだったりするわけよ。そいつ自身のポテンシャル=カードってこと」

「なるほどなあ」

「まあ、今テキトーに考えたんだけど」

「はあ?ぶっ殺しますよ?」

 信号が変わって、ワタルさんがペダルを踏み込んだ。ワタルさんの自転車は前輪からキイキイと不安定な音が鳴る。俺は変速ギアを1に回し、ワタルさんに付いて行く。

「別の側面もあるんだけど、聞きたい?」

「まだ話続くんですか」

「もちろん。大富豪っていうのは、恋愛の発展の仕方とも似ているっていう話、こっちのほうが、重要、俺がずっと思ってることだな」

 聞きたいかどうか答える前に、ワタルさんはすでに喋り始めていた。

「と言いますと?」

 俺は聞く意思を示す。ワタルさんの、嬉しそうに微笑む横顔。

 なんて、美しいんだろう。

「恋愛の発展の仕方で例えるなら、2とかジョーカーっていうのは、本当に劇的な告白とかプロポーズを表すカードなんだよ。ほら、映画とかでよくある観覧車の中でプロポーズとか、ああいうベタで、女の子が喜ぶだろうなって男が勘違いしてるやつ。だっせえの。わかるだろ?」

「はい」

「よし。それで、ええと、例えば瞬が誰かに一目惚れして、出会って初日にいきなり告白しないだろ?ましてやプロポーズなんて」

「そうですね」

「大富豪も同じじゃん?初手でジョーカー!なんてのは馬鹿がすることなんだわ。最初は3とか4で相手を探って手札を確認しながら、徐々に8切りとかそんなテクニックで相手を翻弄していくっしょ。恋愛でも最初は友達で始まって告白までの間にデートとか色々挟むわけで」

「確かに」

 俺はここで、くだらないけど確かにそうかもしれない、と思っていた。

「最後まで強いカードは取っておくんだよ。2とかジョーカーは最後まで出さない」

「はい……え?」

「うん、そうなんだよ。大富豪は2とジョーカーでは上がることができないルール、って気づいたんだろ?でもそれこそ、俺の恋愛観なんだわ」

「ふられちゃうってことですか?」

「そうなんだよね、最後にド派手に2とかジョーカー出すと。だからな、かっこつけて大胆なサプライズとかするよりかは、普段の生活の中でさりげなく愛を伝えるほうがいいんじゃないかって。カードで言うとKとかAくらいの弱さまで下げとかないといけないんだわ、最低でも。告白とかプロポーズっていうのは」

「それがワタルさんの大富豪的恋愛観っすか」

「そうだよ。あんまり相手を喜ばせようと工夫ばっかりすると、女の子も引いちゃうから。この前ディズニーランドでプロポーズしてふられてる男の動画がツイッターで話題になってただろ。頑張りすぎると、人間って逆に引いちゃうんだよ」

「俺もそれ見ました」

「現実はそううまくいかないもんなんだ」

「そうっすねー」

「死ぬまでさっきの話、覚えとけよ。それと、この話、誰かに話してもいいぜ。瞬が思いついたことにしてさ」

「くだらないっすよ、先輩彼女いないし説得力ないっす」

「うるせえ!」

「一生童貞で死ねばいいのに」

「最近風当り強くない?」

「気のせいっすよ」

 ははは、とワタルさんは笑った。だが俺は、死ぬまでその話を覚えていようと思った。

 今度は俺が、自転車のスピードを、わざと上げてみた。




 俺は時々ワタルさんをいじった。基本的に彼女がいないことや、童貞であること(俺も童貞だったけど、彼女はいた)を繰り返すのみだ。

 ワタルさんはそういじられても、余裕をもって笑顔で応える。

「どうして誰とも付き合わないんですか?」

 と聞いたところ、

「モテすぎて、誰と付き合ったら良いのかわかんねえよ」

 などと、とんでもないことを俺にだけ冗談っぽく言って笑う。




 ワタルさんとつるんで二週間くらいの頃、回転寿司に連れて行ってもらったことがある。

 回る寿司を見ながら、

「俺の人生みたいだなあ」

 なんて、ワタルさんが言った。

「はい?」

「いやあ、まさに取り放題って感じじゃん」

「またモテる自慢ですか」

「でも、どれ選べばいいのかわかんねえーってとこが、俺の人生っぽい」

「あんまり自慢すると嫌われますよ」

「こういう話するの、瞬だけだから」

 ワタルさんはよく、俺を笑わせようとした。そして、俺が笑っているかどうか、子供みたいに顔を覗き込む。

 あの人は、そんな人だ。




 俺がワタルさんをいじるレパートリーが少ないのは、それ以外、ワタルさんに非の打ちどころがないからだった。

 校則をぎりぎり避けるくらいのダークブラウンに染めた髪。艶やかで、教室の蛍光灯さえも、ワタルさんの髪をスポットライトみたいに照らす。毎日、トリートメントを欠かさないのだそうだ。

朝早く起きて、毎日髪にアイロンを当てる。いわゆる束感、ってやつを演出させるためだ。自転車に乗って風に吹かれても、ワックスとスプレーできちんとセットしたその髪型は崩れない。

 前髪は常に左側に鮮やかなカールを描いて流れ、女子に不評の薄眉の野球部みたいには、眉毛はいじりすぎていない。むしろ、ほとんど触っていないだろう。それでも、きちんと斜め上に上がっている。

 一見意志の強そうに見える切れ長の二重瞼。それと、真っ直ぐ下りた鼻。

 ところが口角は、それだけで顔全体のチャラい男という雰囲気との調和を図るように、常に上がっていて(要するにいつもにこにこしている)、頬には可愛らしいえくぼができる。

「おはよう」

 そう言うだけで、笑った痕跡ができる人間なのだ。

 指はしなやかで長く、身長も高い。中学の途中までやっていたという水泳のお陰で、身体は引き締まり逆三角。おまけに頭も良く、学年では常に成績上位だ。本当はただワタルさんに近づきたいがために、勉強を教わろうとする女子どもにもきちんと対応するらしい。

「正直うざいけどな」

 ワタルさんは笑って、俺にだけ言った。

 地元の普通科に通っている理由は俺と同じく「家が近いから」だという。声が若干高くて本人も悩んでいるが、女子からすればそこがギャップというやつらしい。短所さえ(それが本当に短所なのかすら微妙なところだが)長所に変えてしまうくらい、ワタルさんの容姿は優れていた。

 加えて、美容にも抜かりない。コラーゲンかなにかのボトルを毎晩飲んでいるという変な噂まで立って、その時ばかりは、俺も笑った。

 



 俺も時々イケメンだと言われる。客観的に見ても、中の上か上の下くらいはあると思う。それでも、ワタルさんの隣を歩くと、必然的に比べられてしまうものだ。同じ学ランを着ているはずなのに、ワタルさんは制服に着られず、むしろ着こなしているような、支配しているような雰囲気があった。

俺はワタルさんと比べると背も5センチほど低い。頭も悪い。サッカーも下手。劣化版にすら、なれないと思う。

 ワタルさんに会ってしまったせいで、中学までなんとも思っていなかった自分の顔に対しても、言葉にできないような、漠然とした劣等感を抱いている。例えば目の黒色の部分がもう少しだけ大きかったらとか、左の眼の下のほくろが気に入らないとか、どうでもいいことが気になり始めてしまう。

一つとして、勝っていない。あの人の欠点を、見つけてみたかった。

 それほど、ワタルさんは完璧すぎて、美しかったのだ。

「俺は瞬の顔、好きだけどね」

 だからワタルさんにそう言われると、やはり照れる。

「うるせえ、童貞のくせに」

 だから俺も、そう言い返す。少し俯いて。

 その小さな声も、ワタルさんは必ず拾ってくれる。

「お前も童貞だろうが、ははは」

「いやー、俺は彼女いるんで、もうすぐっすよ」

「どうだか」

「ていうか今日、風強すぎじゃないっすかね」

「自転車乗ってると、行きも帰りも向かい風だよな」

「行きも帰りも向かい風、まるで人生みたいですね」

「はっはっは、俺みたいなこと言って」

「そりゃ、ワタルさんは俺の憧れですからね」

「なんだよいきなり、変なやつ」

 俺たちは並んで、風の中を突き進む。いつもみたいに。




 先輩が引退して一ヵ月。

 二年生の六月頃には、俺はサッカーのスパイクも、練習着もソックスも、学校に持っていかなくなった。どうせ部活に出ないなら、少しでも荷物を軽くしたほうが楽だ。単純な理由だった。

 サッカー部の連中も、特に何かを言ってくるわけではない。俺はもともとサッカーがそこまでうまくないし、部活自体も中学からの惰性で続けていたような部分があった。

 俺が抜けてもチームは困らないと思うと、少し悲しくはあったが。

「お前がうらやましいよ」

 教室でサッカー部で固まって弁当を食っていたら、遠藤に言われたことがある。

「なにが」

「ワタルさんと仲良くて、うらやましい」

「遠藤は部長になるんだから、そんなこと言ったらだめだろ」

「それでも、部長なんかやるより、ワタルさんと遊んだほうが絶対楽しい」

「まあ、それはそうかもしれないけど」

「だから、お前が羨ましい。サッカーなんか続けても、どうせ私立には勝てないから」

「うん」

「たまには練習出ろよ」

「うん」

 遠藤は微笑む。右の口角だけ上がった、引きつった表情だった。ワタルさんのと違って、ちょっと不気味な、不器用な笑顔。

 なにを伝えたいのか、分からない笑顔。




 あの人と仲良くなってから、男女問わず、ワタルさんのことをよく訊ねられるようになった。

 中には、そんなこと聞いて何になるんだ、という質問もあった。俺は正直、面倒だった。

 だけど、やっぱり少しだけ、嬉しくもあった。

「ねえ、ワタルさんって、好きな食べ物なに?」

「ねえねえ、ワタル先輩と普段どんな話してるの?」

「なあ、ワタルさんって、彼女いるのかな」

「ワタルさん彼女いるの」

「えー、いたらショックなんだけど」

「わたしも気になるぅ」

 その日は、ワタルさんについて知りたがる連中が、俺の席の周りに群がっていた。大して親しくもない連中が、ワタルさんのことを名字で呼ばないことに、少し苛立った。

 だが同時に、やはり優越感も感じてしまう。

「好きな食べ物は知らないけど、この前はラーメン奢ってもらったよ。普段はそんなに特別な話はしないけど、サッカーについてよく話すかな。彼女はいないよ、他の高校に好きな女の人がいるらしい」

 そんな俺だって、その時はまだワタルさんと仲良くなってから一ヵ月ちょっとしか経っていなかった。三年生が五月に引退して、付き合いはほとんどそれからだった。

 まだ六月だ。でも、今ではもう蝉が鳴き始めている。

 季節の変化が、着実に訪れようとしている。

「彼女いないんだ」

「よかったー」

「でも、好きな人ってどんな人なんだろう」

「気になるねえ」

 女子は満足して、俺の席の周りから散っていった。

「今度、俺もワタルさんと遊んでみたいんだけど」

 遠藤が言った。

「お前もワタルさんのファンなのかよ」

「だって、かっこいいだろ」

「仕方ねえな。また聞いといてやるよ、遠藤もどうですかって。同じ部活なんだし、大丈夫だろ」

「ほんとかなあ」

 遠藤は髪を伸ばし始めた。前までセンターで分けていた髪を、今では左に流している。




 ワタルさんは、俺に嘘をつくようにあらかじめ指示してあった。

 あの人がまだ高校一年生で入学したての頃、隣の席の女の子にボールペンを貸してあげただけで、その女の子がクラスの女子にいじめられそうになったことがあったらしい。

 モテすぎると、時に信じられない伝説が生まれるのだ。

 一方俺はまだ、そんな伝説を生んだことはない。

「女子って男には分からないところで、派閥があったり確執があったりするもんなんだよ。だから俺に彼女いるか訊かれたら、他の高校に好きな人いるらしいって誤魔化しといてくれ。巻き込まれたら面倒だから。そう言われたら、特定の女子を標的にいじめるとかなくなるし、好きな人がいるなら諦めようって思う子もいるだろうし、俺も、しんどいんだよ」

「大変ですね」

「このままじゃ俺を奪い合って戦争に発展しかねない」

「そうやってまた調子乗る」

「まあまあ。でも、頼んだよ。迷惑かけるけど、すまん」

「ぜんぜん」

 ワタルさんが童貞だということも、みんなには隠した。童貞が悪だと言うわけではないけど、そのことで、みんなの中のワタルさんのイメージが傷つくのを、少し恐れた。




 俺はワタルさんのことを褒められたら素直に嬉しく思った。周りからの話を聞けば聞くほど、ワタルさんへの『畏敬の念』をますます抱いた。

「ワタルさんかっこいい」

「ワタルさん頭良い」

 そんな言葉を一つ一つ手に取って、脳内のワタルさんのイメージの像に、ぺたぺた貼り付けていった。それは毎日膨張した。膨張しすぎてどこまでも大きくなって、自分でも、怖くなった。

 これが心理学で言う栄光欲ってやつなんだなあと、客観的に見ることもできた。




「晩飯行こうぜ」

 部活に行く予定もなかったから、その日も俺は迷わず頷く。母親に「今日晩飯食ってくる」と連絡を入れ、自転車を学校に残したままワタルさんと駅に向かう。

 下校中でさえ、すれ違う学生全員の視線を感じる。困ったものだ。

 不意に、どうしてお前なんだ、と言われた気がして、たまに視線を落とすことがある。そんなとき、ワタルさんは、いつも呑気に口笛を吹いている。

 



 横須賀中央で降りて、しばらく歩き、おしゃれなイタリアンに入った。照明が眩しくて、灰皿が置いてあって、ピザが一枚二千円もするようなところだ。

 ワタルさんは俺に好きなのを頼んでいいと言った。俺は遠慮して、一番安いスタンダードなマルゲリータを頼んだ。ワタルさんは生ハムとアスパラのピザと、シーザーサラダを頼んだ。

アルバイトもしていないのに、ワタルさんはいつも奢ってくれる。初めて二人で外食に行ったとき、いいですよ、と言ったら、

「俺には彼女いないから、いいんだよ」

 と言って、ははは、と白い歯を見せた。

今日もそうだ。奢ってもらえると分かっていたけど、俺は一応建て前だけ、払いますと言っておく。

「先輩面したいんだよ、後輩に奢って」

「でも……、いいんですか?」

 でも、の後のわざとらしい沈黙に、ワタルさんは笑みを浮かべる。俺もつられて、笑ってしまう。

「瞬はその分、彼女に金使ってやれ。いいな?」

 ワタルさんはそう言う。俺は彼女のことについてあまり話すタイプではないけど、ワタルさんには、その存在だけは話を通している。そのほうが、俺たちの関係が信頼関係の上に成り立っている気がして、気分が良いと思ったのだ。

 最初にシーザーサラダが運ばれてきて、一応、後輩として小皿に取り分けた。ワタルさんはにやにや笑って満足そうだ。

 サラダを食った後、ピザが運ばれてきた。一切れずつ交換して、ワタルさんは溢れたマルゲリータのチーズを麺みたいにすすって食っていた。

 この人も普通の男となんら変わらない、俺はやはり時々そう思う。だからといって、それは軽蔑というより、むしろ安心感だ。

「俺、そっちのピザのほうが好きだわ」

 ワタルさんは言う。

「隣の芝生は青い、ってやつ?ですかね」

「もう一つ交換しない?」

「喜んで」

「今の、瞬がもっと生ハムのやつ食いたいかなっていう、優しさだから」

「それ、言っちゃうんですね」

 そして俺はいつもみたいに、笑ってしまうのだった。

 こうして話をしていると、ワタルさんが同級生の幼馴染のように思える瞬間がある。今まで先輩と仲良くなったことがあまり無かっただけかもしれないけど、俺はもっと、先輩後輩の関係では、気を使うものだとばかり思っていた。

 学校の誰も知らないワタルさんの側面、それを自分だけが知っていることの優越感も、自分だけがこうして奢られていることも、それらすべてを超越して、気の許せる親友のように思える瞬間が、あるのだった。

「マルゲリータって、なんか下ネタみたいだよな」

「それを言うならペペロンチーノでしょ」

「たしかに。でも生ハムも、なんだか怪しいな」

「ほんと最低な会話ですね」

 そんなことを話しながら、三年生はそろそろ本格的に受験勉強を始める頃だろう、と思った。

 こんなに気が合うのだったら、ワタルさんが現役の時、もっと話しかければよかったのだ。




「サッカーと人生は泥臭く。岡崎のダイビングヘッドみたいに」

 仲良くなってからそう言っていたけど、ワタルさんのサッカーは、ちっとも泥臭くなんかなかった。相手の股を抜くドリブル、引退試合で私立の相手を翻弄させた左右のフェイント、ゴール前でのクッションコントロールも、ボールが地面に吸い付くように正確だ。練習は絶対に休まないくせに、髪型が崩れるからと言ってヘッドは嫌い、その代わり浮いたボールを完璧にボレーで合わせた。

 泥臭いとは表現が違うかもしれないけれど、今のワタルさんは、生き生きとして見える。時に冗談を言って、時にナルシストなキャラを演じて、俺を笑わせようとしてくれる。世界一爽やかな笑顔で。

 そのくせ、学校ではいつも無口みたいだった。モテたいからなのか、よく、わからない。

「ワタルさんと付き合う女って、絶対幸せになると思いますけどね」

「でも、俺と付き合った女の子、絶対いじめられるやん」

(ひとみ)さんとか、どうなんですか」

「えー」

「ワタルさんが守ってあげればいいのに」

「やーだよ、めんどくせえ」

 瞳さんはワタルさんと同い年のサッカー部のマネージャーだ。頻繁に俺にメールをくれるけど、ほとんどの内容がワタルさんのことだ。俺の彼女とも仲が良い。

 瞳さんがワタルさんのことを意識していることは、多分、ワタルさん自身も気づいている。

 ワタルさんは、彼女はしばらく作らないらしい。受験勉強もあるしな、と吐き捨てるように言う。




「そういや遠藤が、俺もワタルさんと一緒に遊びたいって言ってましたけど」

 自転車で家まで帰っている途中、言ってみた。少し蒸し暑い、いつもの午後だ。

「え、誰」

「サッカー部の俺の同期ですよ」

「ああ、あの眉毛が濃い奴か」

 はい、と言うのも遠藤に悪い気がして、俺は黙る。

「遠藤君、次の部長じゃなかった?」

「そうです」

「だったら、部活は休んじゃいけないでしょう」

 俺は、部長とか役職関係なく、現役はちゃんと部活に出るべきだと言おうとして、やめた。こんな俺が、言えるセリフではなかった。

「じゃあ、日曜とかは?」

「正直に言おうか」

 ワタルさんは自転車を漕ぐスピードを弱める。その日は珍しく風が強くなく、ゆっくり、走っていた。

「せっかくの休みに、気を使わなければいけない人間と、飯とか行きたくないんだよね」

「はあ」

「それに……、あいつ眉毛濃いしさ」

 いつもの冗談のつもりなのか、ワタルさんは笑った。いつもとは違う、作り物のような、笑い方だった。

 だったらどうしてほとんど関係のなかった俺に声をかけてくれたのだろう、という疑問だけが残ったまま、コンビニの前で別れた。わきの下と首元にじんわりとした汗を感じて、夏になったんだな、と思う。




 後日、遠藤に会って説明した。雨が降っていた。

「ワタルさん、ああ見えて人付き合いが苦手っていうか、少人数が好きらしいんだよね。これまでも何人かワタルさん紹介してくれっていう人いたけど、全部断ってんだ。ごめん」

 ワタルさんと仲良くなってから、二ヵ月と少し。それでも実際、俺も、私も、ワタルさんと仲良くなりたい、紹介して、と声をかけてくる連中が多く存在した。そのたび断りを入れるのは俺で、ちょっと迷惑だった。

 遠藤は、「そっかあ」と呟いて、落ち込んでない風に声を張って話し始める。

「だよな、俺みたいなのと仲良くするだけ意味ないもんな」

「そう悲観的になるなよ」

「いや、わかってんだよ」

 遠藤は顔の前で大袈裟に手を振った。

「女子も男子も関係なくてね、だいたいどこもそうだけど、同じくらいの外見の偏差値のやつらがグループになってるんだよ。お前はわかるよ、女子もお前のことイケメンって言ってたし、だからワタルさんもお前のこと可愛がるんだよ」

「そんなことねえって」

 謙遜でもなんでもなく、自分は到底ワタルさんと釣り合えるほどの男だとは思っていない。

 ワタルさんのせいで、コンプレックスも、百個くらい増えた。

「そんなこと、あるんだよ」

 遠藤は泣きそうになっていた。目は細くなって、口が開いている。頬骨は出ていて、勝手な偏見ではあるけど、よく見ればサッカー部というよりはむしろ、ラグビー部のような印象の顔だった。

 こいつも色々抱えてるんだろうな、と思った。毎晩鏡を見て、ここがこうだとか、自分の、一生変えられない顔に、文句を言う。

 何かを言わなきゃ、と思う。それでも、俺は思春期のデリケートな部分に対してフォローを入れることができるほど、器用じゃない。そう遠くない将来、食パンを食いながらプロポーズするような男なのだ。

「眉毛でも、剃って、みたら?」

 余計なことを言った、とすぐに後悔する。

「眉毛?俺ってそんなに眉毛濃い?」

「いや、そんなことないけど……」

 どうして俺がこんなに気まずい思いをしなければならないのだろう。遊ぶくらい付き合ってやってくれたらいいのに、泣き出しそうな友人の顔を見て、どうしたものか、と悩んだ。




 美佳とは、この頃から既に付き合っていた。同じ学校だったけど、こいつとはクラスが別だった。美佳はまだワタルさんと会ったことはないはずだけど、俺はよくワタルさんの話をした。

「最近、楽しそうじゃん」

 ワタルさんとは毎日会っていたから、俺の話題は尽きない。ネタに困るたびに、その日のワタルさんの話をした。美佳も聞きたがった。

「で、美佳はどう思うの」

「遠藤君?」

「うん、俺にはワタルさんが避けているように思えるんだけど」

 美佳はマックシェイクをストローで吸っている。ずず、という音が鳴る。

「私には男の人が考えることは分からないけど、気を使わなきゃいけない人と遊びたくないのは、少しわかる」

「同じ部活だったんだぜ?」

「同じ部活だったからこそ、あいつとは気が合わなさそうだな、っていう風に感じたんじゃない?」

「そんなもんかなあ」

 ワタルさんが声をかけてくれた理由が、自分と気が合いそうだから、という理由なのだとしたら、やっぱり嬉しい。

「きっと、そうだよ」

 美佳とは放課後によくマクドナルドに行って談笑した。学生だしあまり金が無かったから、ワタルさんがおしゃれなレストランに連れて行ってくれたことが余計に謎だった。家が金持ちなのだろうか。

 女に貢がせているのか、なんていう嫌な予感もしたけれど、ワタルさんはそんなことはしないだろうと首を振る。

 果たしてどうだろう。

「この前、ワタルさんがイタリアンに連れてってくれたんだよ」

「へえ、なんてお店?」

「忘れた。でも、横須賀中央だよ」

「行きたいな」

「クリスマスとか、そこ行く?」

「そういうのって、内緒にして自分で予約するものじゃないの?」

 美佳は笑ってそう言う。ワタルさんと同じようにえくぼができる両頬に、俺は愛着がある。

どうして俺にはえくぼができないんだろう。えくぼは目の一重二重と同じように親から遺伝するらしいから、俺には一生えくぼはできない。また一つ、小さなコンプレックスができた。

「でもさ、実際さ、美佳、サプライズされたら嬉しいか?」

「えー、ケースバイ・ケース」

「なんだそりゃ」

 会計は俺が払う。見慣れた桃色の長財布を美佳が開こうとしたから、俺は、

「いいから、いいから」

 と言ってそれを押さえつけた。

 初めて彼氏らしいことができたと思って満足していると、

「それ、ワタルさんから言われたんでしょ」

 と美佳はまた白い歯を見せる。

「私も、ワタルさんと会って、お話してみたいなあ」

「遠藤が無理だったから、美佳なんてもっと接点ないし、無理だろ」

「瞳さんと私たち四人で、とか、どうかな」

「さあね」

「それって、ダブルデートみたいだよね」

 ワタルさんと俺、プラス誰かっていう光景は、予想もつかない。遠藤を避ける理由も、そこにあったんじゃないか。そう思うと、安心する。




「おーい、瞬」

 昼休みに、自販機で買ったバナナオレを廊下で飲み歩きしていたら、背後からワタルさんの声がした。

 ワタルさんは他に男を連れていた。色黒でショートカットの、ワタルさんより背がほんの少しだけ高い男。

 見覚えがある。たしかテニス部の奴だ。全校集会で体育館のステージで何度か見た。校長から、テニスの大会の賞状を貰っていたはずだ。全校生徒のほうに一礼するときも、その自分を全く疑わない目は揺れることがなく、立ち振る舞いも堂々としていた。

 普段はこういう人と一緒にいるんだな、と思った。

「初めまして」

 俺はぶっきらぼうに挨拶する。ワタルさんがこの男とひどく打ち解けているみたいで、少し、悔しかった。

「えーと、きみが瞬、くん?」

 ていうか俺も瞬君て呼んでいいのかな、と彼が言ったので、俺はどうぞ、と言った。

「あ、あの、柏木さんですよね?」

 俺はその男に言った。するとその男はワタルさんに、なんだよお前俺の話してたのかよ、と言って肩を叩いた。してねーよ、と笑ってワタルさんは言った。

どうやらこの人は柏木さんで間違いないようだ。何度も全校集会で名前を呼ばれていたから、勝手に覚えていた。

「で、瞬、お前一人なのかよ」

 ワタルさんが言うと、だったら学食行こうぜと柏木さんに肩を組まれ、俺は半ば連行された。これから遠藤たちと教室で弁当を食うつもりだったし、弁当も教室にあったが、俺は初めて話した男に肩を組まれて圧倒されていた。これが体育会系のノリなのかな、と思った。




 柏木さんは第一印象ほど危なっかしい人ではなく、ちゃんとした人だった。

「さっきは悪かったよ」

 学食のテーブルに着くなり柏木さんはそう言った。俺たちは向かい合って座っているから、相手の表情がよくわかる。

 初対面でのやりとりは難しい。ワタルさんとソフトクリームを食べたあの最初の日も、お互い無言で、地獄みたいだったのだ。

「ワタルから話聞いてて、勝手に親近感湧いちゃって」

「全然、平気です」

「泣きそうだけど?」

「そりゃ、緊張しますよ、初対面ですから」

 俺が肩を落とし無理やり笑顔を作ると、柏木さんはようやく笑ってくれた。

「おまたせー」

 そう言っておぼんの上にうどんを3つ乗せて、ワタルさんが歩いてくる。ワタルさんはどっちの隣に座るんだろうと思っていたら、柏木さんの隣に座った。

 俺たちの横の席は4つも空いていて、食堂は生徒で一杯だが、誰も座ってこない。俺だって、目の前の二人のオーラに圧倒されている。

「いつも食堂で食ってるんですか?」

「うん、そうだよ」

「ワタルさんと同じクラスなんですか?」

「せやで」

「そうなんですか」

「そうなのよ」

 ずるずるずる、という麺をすする音。こんな真夏に暑いうどんを一気にすするなんて自殺行為だと思いながら、柏木さんを見ていた。

「瞬君も、たまには一緒に食べようよ」

 そう言われて断るわけにもいかず、はい、と答えた。ワタルさんは俺たちを見ながら、にこにこ笑っている。




 教室に戻ると遠藤たちサッカー部の連中は俺抜きで飯を食っていた。

「どこ行ってたの」

「先輩に捕まった」

「またあの人かよ」

「わりい」

 俺は急いで合流して、うどんでいっぱいになった腹に無理やり弁当を押し込んだ。胃の中のうどんもびっくりしてるだろうな、なんて考えたら本当に吐きそうになって嗚咽して、連中は笑う。

「なにやってんだよ」

 遠藤が手を叩いて笑う。左向きに流れた髪の下、眉毛がカットされて細くなっていることに気づく。

 カミソリで出来た細い傷が、見ていてかなり痛々しい。




 その夜、帰ってから鏡をじっくり見てみた。鏡はいつも見ているけど、今日はじっくりと時間をかける。

 俺はいつの間にか、前髪をサイドに流すようになっていた。昔どうしていたかなんて覚えていないけど、とにかく鏡に映った自分の髪は、サイドに流れていた。

 鏡の下のコンセントには、ヘアアイロンが差しっぱなしになっている。

 洗面台には、蓋の閉まり切っていないギャツビィのワックスがある。

 最近、かっこよくなったね、と言われることが多い。

 何が変わったんだろう、と思って鏡に向かって微笑む。

 白い歯が見える。歯というより、飛び出した骨みたいだ。

 相変わらず、俺にはえくぼができない。

 なにもかもワタルさんとは違うのに、俺はワタルさんになろうとしているのかもしれない。

 俺は眉毛を剃らないけど、やろうとしていることは遠藤と同じだ、と思った。




 俺はその週の土曜に理容室に行って髪の量を減らしてもらい、自分ではちょっと広いと思っていたおでこを出してみた。

 月曜日、ちょっと早起きしてワックスで髪をぐちゃぐちゃに固めて、登校する。

 ワタルさんは意外にも「悪くないじゃん」と言ってくれる。

 俺は遠藤に、

「お前、絶対センター分けのほうが似合ってるよ」

 と言った。

「やっぱり?」

 と言って遠藤は笑う。八重歯が見えて、幼い笑顔だ。

「遠藤、ワタルさんに憧れすぎてたかもな」

「そうかも」

「眉毛、そんなに太くないから気にすんな」

「してねえよ」

 遠藤に腹を殴られ、鳩尾あたりに拳が入ったけど、俺は歯を食いしばって耐え、死ぬほど笑ってやった。遠藤も笑った。




 ワタルさんと仲良くなって三ヵ月。そろそろ夏休みに入る。

 俺はワタルさんの真似事をやめたけど、それでもワタルさんはかっこいい。遠藤は部活を頑張っている。俺は部活をさぼってワタルさんと遊びながらも、自分らしさを見つけようと決めた。

 ワタルさんとの決別ではなく、ワタルさんと対等になりたい、と思うようになったのだ。

 季節が変わるみたいに、意識は転換した。じわじわと温かくなっていくみたいに、春がいくつもの段階を踏んで夏になるみたいに、きっと俺の心が、少しずつ、変わっていったのだと思う。

 柏木さんとはたまに廊下ですれ違った時に話をして、たまたま一回だけ遠藤と会って話もした。

「はじめまして、遠藤です」

 あいつは馬鹿みたいに頭を下げた。柏木さんは笑った。

「瞬君の友達のくせに真面目なんだなあ」

「こいつとは、違いますから」

「おい!」

 最初は友人に彼女を紹介するような気分だったけど、すぐにそんな気持ちはなくなった。

 男同士の付き合いだ。変な馴れ合いなんか、ちっとも、いらないのだ。

 遠藤と柏木さんが謎の握手をして、柏木さんは遠藤の手をテニスで鍛えた自慢の握力で捻りつぶした。

「いい人だったな」

 遠藤はあとで俺に言った。

「そうだろ」

「俺、今度はあの人の真似しよっかな」

「やめとけよ」

 俺は遠藤の腹を殴ってやった。鉄板みたいな腹筋が、俺の拳を跳ね返す。




 ある日、ワタルさんが熱を出した。

 最初はただの風邪だと思っていたけれど、一週間ずっと休み続けていたので、さすがに心配になってお見舞いに行った。

 ガリガリ君を二つと、レンジだけで調理できるおかゆと、冷えピタを買った。アイスが溶けちゃいそうなくらい暑かったから、リュックの中に入れた。よくよく考えれば俺が行かなくても親がいると思い出したが、俺が行ったら喜んでくれるだろう、それに病気だって撃退できるんじゃないか、っていう謎の自信があった。

 家がどこなのかは知っていたけど、実際に訪ねるのは初だった。

しっかりと垣根で囲まれ、松の木と鯉の小さな池がある二階建ての、田舎の典型のような家だ。

 インターフォンを押すと、すぐに玄関からワタルさんのお母さんらしき人物が出てきた。

 俺はすらっとした美人を想像していたが、小太りで皺の目立つ、美人とは程遠い人物だった。

「あなた、瞬くん?」

「はい、瞬です」

 ワタルさんは俺の話を母親にもしていたみたいで、驚いた。お母さんは驚きよりも、素直に喜んでくれているみたいだった。すっぴんのくせに、それをちっとも恥ずかしがらないのが潔くて素敵だと思う。

 美術の女教師を、ワタルさんは厚化粧妖怪と呼んでいる。

「ワタルー、瞬君がきたよー!」

 二階の部屋に向かってそう叫んだけど、返事はない。

「寝てるんですかね」

「そうみたい」

 俺は靴を脱いで家の中に入れてもらい、二階の部屋に案内された。風邪が移ったら申し訳ないとお母さんにマスクを渡され、死ぬほど暑い中マスクをつける。お母さんは一階の台所で晩御飯を作っていた最中だったらしく、それを詫びると「なんで謝るのよ」と笑いながら普通のことを言った。

 起こさないようにゆっくりドアを開けると、部屋はこもっていて少し汗の匂いがした。ワタルさんは胸のあたりまで毛布を被せていて、毛玉だらけのグレーのパジャマを着ている。

 ワタルさんは部屋の奥のベッドの上で寝ていた。部屋の両サイドには洒落たコートやアイロンをかけたシャツが吊るされてあって、その下にはジーパンやTシャツが畳まれて置いてある。私服をほとんど持っていない俺は驚いた。普段は制服しか着ないから、私服なんて夏用と冬用それぞれワンセットずつあれば十分なのだ。

 あまり部屋を物色するのも悪趣味な気がしたが、ベッドの横の学習机に立てかけた集合写真に目が入る。ワタルさんが現役最後の大会の開会式で撮った集合写真だ。

 ワタルさんは完璧な人だが、唯一人生で完璧な敗北を味わったとしたら、やはりサッカーなのだろうか。あれだけ真面目にサッカーの練習をして、それでも初戦の私立相手に敗北して、やはりワタルさんは悔しかったのだろうか。俺は机の上に見つける。「サッカー選手になる!」と汚い字で大きく書かれた色紙。幼い頃のワタルさんは、サッカー選手になりたかったのだ。

 窓のカーテンは開いている。窓から差し込む夏の日差しが、マスクを着けて寝ているワタルさんの顔に降り注ぐ。ワタルさんはそのせいで悪夢を見ているようで、不憫に思った。顔が歪んでいる。だから俺はカーテンを閉めてやった。シャッという音がするけど、ワタルさんは起きない。クーラーで温度が下がった部屋が、暗くなる。ワタルさんは死んだのではないか。俺は寝顔を覗く。汗で額に貼りついた前髪、額には意外にもニキビが2つある。顔全体が赤くなっていて、息に合わせてマスクが上下する。肩もきちんと動いている。

 ワタルさんでも、弱ることがある。

 結局、その日ワタルさんは目を覚まさなかった。俺が部屋にいたのはせいぜい十五分程度だった。帰ろうとしたらお母さんが濃厚なバニラアイスを食わせてくれて、俺は大満足して帰った。家に帰って晩飯を食って風呂に入り、自分の部屋でリュックを開けてから気づいたが、ガリガリ君がドロドロに溶けて冷えピタも人肌以上の熱を帯びていた。

 次の週の月曜、ワタルさんに会った。

「お見舞い来てくれたらしいな」

 ワタルさんは少し恥ずかしそうにして、俺の顔を見ようとはしなかった。

「ずっと寝てましたけどね」

「机の引き出しとか、勝手に開けてないだろうな」

「開けてないっすよ。エロ本でも入ってるんですか」

「俺も男だから。見られたくないものもある」

 ワタルさんが自転車を漕ぐ。病み上がりだからか、肩で息をしている。

「俺が着てたパジャマ、めっちゃダサかっただろ」

「まあ、確かにださかったです」

「見られたくなかったわ、いっつもカッコつけてるのに」

「そんなの、俺は気にしないっすよ」

 そう言うと、しばらく無言になった。自転車を漕ぎながら、隣でぜえぜえ息を吐く。

 ちなみに、今日も向かい風だ。俺は病み上がりじゃないから、こんなの慣れている。変速ギアを1に回して、軽やかに進める。




 終業式を迎え、この日は午前で学校が終わった。

 太陽は照り、どこまでも続くんじゃないかっていう稲の大群は濃い緑一色で、それが時々不安定に揺れる。

 小川は俺たちのすぐ横でちょろちょろと流れ、小魚が波打ちながら駆けていく。

 山は遠くでそびえている。薄い緑の塊。風はあの山の肌を撫でてから、俺たちのところにやってくる。

 風は一瞬で、俺たちのところにやってくる。

「涼しいなあ」

 ゆっくりと自転車を漕いでいると、むしろ吹き付ける風が、俺たちの熱しすぎた体温を奪っていく。今日だけは、俺たちの味方をしてくれているような、そんな気がする。

「瞬、聞いてんのかよ」

 俺は風の音に耳を澄ます。蝉の声が聞こえる。車の音、原付の音。

 ワタルさんは、夏休みの間はほとんどの日、塾に通うらしい。




 この日、家に帰って私服に着替えてから、夏休み前最後にワタルさんと外食に行くことになっていた。

 ワタルさんはどんな服を着てくるんだろう、俺は部屋を思い出して、楽しみにしていた。

 ワタルさんのお母さんが、駅まで車で送ってくれることになっていた。俺はワタルさんの家に行ったときに見たグレーのシエンタをコンビニ前で見つけて、駆けて行った。

「おじゃましまーす」

 後部座席に乗り込むと、ワタルさんは助手席に乗っていた。バッグミラー越しに目が合い、俺は敬礼する。




 駅について車を降り、ワタルさんは急に笑い始めた。

「おい、服装ダサすぎだろ」

「うるさいっすよ」

 ワタルさんは黒のスキニー(こんな真夏に肌の密着する長ズボンなんて、俺は信じられない)、白のビッグシルエットTシャツにクロムハーツのネックレスをつけていた。東京でドラムを叩いていそうな雰囲気だ。

 一方俺は紺の短パンに、普段学校で着ているYシャツの腕の部分にストライプが入っただけのどこで買ったのかも覚えていないシャツを着ていた。そしてサンダル。

 ダサいを通り越してダサすぎると言われたから、電車の中では常に人からの視線を感じて赤面した。

 中央に着くと、ワタルさんは俺をショッピングモールに連れて行った。

「店回ろうぜ」

 晩御飯の予約の時間にはまだ余裕があった。

 ワタルさんは無言で二階、三階を順番に見て、ようやく四階の服屋に入っていった。「服のサイズいくつ?」と言われたからわけもわからず「MとLどっちもいけます」と言った。

 しばらくしてワタルさんが店から出てきて、3つのシャツの内からどれか好きなやつを選べと言った。

「え、服買ってもらうのはちょっと……」

 ご飯をご馳走になるのは分かるが、物を買わせるのには抵抗があった。

 ところが、ワタルさんはどや顔で俺の後ろを指さす。なんだ、と思って振り返ると、壁紙に「二点以上のお買い上げで一点無料」と書いてあった。

「便利なシステムですね」

「たまにこういうセールやってる店あるんだよ」

「知らなかったです」

 俺は3枚のTシャツのうち、一番シンプルな白いTシャツを選んだ。履いているのが紺の短パンだから、他の青やワインレッドのシャツでは釣り合わないと思ったのだ。

「あと、そのチェーン、まじでダサいからやめとけって」

 ポケットの中の財布を盗まれないように繋げてあるチェーンをワタルさんは指さした。

「それが許されるのは小学生までだよ」

 自分らしさを求めようと決めた俺だったが、まだまだ、ワタルさんから学ぶことは多いようだ。

 それにしても今時財布のチューンは中学生でも許されないのか、てっきり俺は、これがイケてるものだとばかり思っていた。

 俺はプレゼントされたTシャツを着て、姿見の前に立った。これだけで、随分とマシになったような気がした。

 良い買い物できたわー、とワタルさんは言った。この人は家に何着服を置くのだろう。




 二人でしゃぶしゃぶに行った。

 出汁が二種類選べるらしくて、ピリ辛のやつとシンプルな昆布出汁にした。ワタルさんは俺に二つとも選ばせた後で「俺もその二つが良かったんだよね」と言った。こういうのが優しさなんだろうな、って思った。

「食べ放題だから昼飯抜いてきたんだよ」

「俺もっす」

 そう言った途端、俺の腹がぐうぅと鳴った。俺は赤面したけど、ワタルさんには聞こえていないみたいだった。聞こえていたら、多分笑うだろうから、俺は救われた気持ちになる。

 出汁と肉が運ばれてきて、二人でがっつく。ワタルさんはよほど腹が減っているのかまだ肉が赤いままポン酢に付けてうまそうな顔をするので、心配になる。

「そんなんじゃまた体調崩しますよ」

「へ?」

 口いっぱいにほおばって子供みたいな顔をするので、俺は微笑んだ。

「なんか飲む?」

「ドリンクバーないんでしたっけ」

「別料金」

「まじっすか」

「酒でも飲むか」

 メニューを見ながらあながち冗談ではなさそうな感じでワタルさんが言う。

「いや、捕まって刑務所ぶち込まれますよ」

「大丈夫だって」

 ワタルさんは勝手に「すみませーん」と大声を出した。俺は本当に焦って、どうしようかと真剣に怯えていた。

 やがてやってきた店員にレモンサワー2つ!と言うと、案の定年齢確認をされ、やっぱいいです、とワタルさんは下を向いた。

「だから言ったんですよ」

 店員がいなくなってから小声で言う。

「いやー、いけると思ったんだけど」

「だってまだ俺なんて十六ですよ」

「俺の酒の童貞は瞬が貰ってくれると思ってたのに」

「成人してから、また二人で飲み行きましょうよ」

 ワタルさんは、レモンサワーが飲めなくて、思ったより残念そうだった。

「成人するまで、俺ら仲良くしてられるかな」

「わかんないっすけど、俺が二十歳になったら絶対連絡しますよ」

 絶対連絡しろよ、とワタルさんは笑った。約束です、と俺は言った。




 自分が二十歳になることも、ワタルさんが二十歳になることも全く想像できない。その時もちろんワタルさんは大学生で、俺も大学生なのだ。

 ワタルさんはあと一年も経たないうちに、大学生になる。

 俺はそもそも、進学できるのだろうか。今の俺は、部活にも行かず、勉強もしていない。

 時間は流れている。実際、明日からワタルさんは受験勉強を本気で始める。毎週日曜日だけは勉強時間を減らしてゆっくりするらしいが、そんな休日にわざわざ俺と会ってくれるとは限らない。

 鍋に灰汁が浮いてきている。その色は、一日の間のぼーっとしてるような無駄な時間をかき集めたみたいに、淀んで濁っている。

「俺って灰汁みたいなやつですよね」

「なんだよ、それ」

「なんでもないっす」

 俺はワタルさんを笑わせることができるような冗談を、言ってみたかった。




 この日は割り勘だった。ワタルさんは払おうとしたけど、俺が無理やり出した。

「ワタルさんの受験勉強頑張って会じゃないっすか」

そう言っても納得しなかったから、俺はワタルさんともっと対等になりたいんですとはっきり言った。ワタルさんは寂しそうな顔をしたが、結局折れた。




「この前、美佳に奢ってやったんです」

 ワタルさんのお母さんの車を待っている間、俺は言った。

喉が渇いた。自動販売機の淡い光が俺を誘惑する。

「喜んだろ?」

「喜びましたけど、はい」

「なにかあったのか」

「奢るようにワタルさんに言われたんでしょ、って笑われました」

 なんだよそれ、と言った後、ワタルさんは空を見上げた。他の県の夜空事情を知らないけれど、神奈川の空は星がわりと綺麗に見えた。

「美佳ちゃん、なあ」

「はい」

「一回、会ってみたいけどな」

「まじすか」

 珍しいですね、と俺は言った。流れ星が見えた気がする。目を擦ると視界がぼやけ、淡い光が闇を包む。

「瞬の彼女だからな、普通に気になる」

「学校ですれ違ったことくらいならあるかもしれないですね」

「だなあ」

「そう言えば、美佳もワタルさんと会ってみたいって言ってましたよ」

 ほんとかよ、とワタルさんは笑った。

 真夏なのに、吐いた息が白く見えた。

「瞳さんと四人で会って、とか言ってました」

「なんで瞳も、ははは」

「女一人じゃ気まずいんじゃないですかね」

「そんなもんかな」

「瞳さん、ワタルさんのこと好きらしいですよ」

「知ってるよ」

「付き合わないんですか」

「付き合わないよ」

 その時、灰色のシエンタが、ヘッドライトを灯しながら現れた。駅前の俺たちの目の前で停車すると、ワタルさんはまた助手席に乗り込んだ。

「来た時の服と違うじゃない」

 後ろに座った俺に、お母さんは俺に向かってそう言った。バッグミラー越しにワタルさんが苦笑いする。

 最初に着ていた服は、よっぽどダサかったのだ。自分らしさとかじゃなくて、最初から間違っていたのだ。

「ワタルさん」

「ん?」

「受験、頑張ってください」

 俺は本心からそう言った。

「忙しくなるから、瞬君ともあまり会えなくなるかもねえ」

 お母さんが言った。

 目の前の信号が赤になり、シエンタは減速する。三秒数えて、窓の外の風景が固まる。俺はこのまま時間すら止まってしまうのではと思ったが、実際にはきちんと呼吸をしていて、地球の闇はこの一瞬でさえもその濃度を高め、やがて明日になると薄れて、太陽は東の空から風を連れて昇る。血液がぐるぐると循環するみたいに、時間は、風は、きちんと回りながら循環している。

左折待ちの灰色のシエンタは、向かい風を遮断しながら、カッチ、カッチと、ウインカーの音だけを鳴らし続ける。

 カッチ、カッチ、ふさわしい言葉が見つからないまま、信号は青に変わる。




「美佳」

「……どうしたの」

「ごめん、やっぱり無理だわ」

「なんで?」

「……」

「怖いの?」

「分からない」

「じゃあ、なんでよ」

「理由はないけど」

「なにそれ」

「ごめん」

「……わかった」

 美佳の両親は仕事に行っている。部屋で二人きりだ。

 夏休みになったから、平日の昼も学校にはいない。

 俺は、美佳の部屋にいる。何度も来たことがある部屋だ。

 それでも、カーテンを閉じて電気を消した部屋は、完全に隔離されたような、この世界とは別物のような空間のように思える。

 まるで宇宙に浮いた箱舟のようだ。

 美佳は俺の背中に回した腕をほどく。俺はその腕を見つめる。部屋の中は蒸し暑いのに、その手は震えている。

「私だって、怖いよ」

「うん」

「血も、出るんだってね」

「うん」

 しばらく黙る。壁にかかったミッキーマウスの時計の秒針が、どこかで聞いたことがある音を鳴らす。それは紛れもない、時間を刻む音だ。

 一秒、一秒、俺はそのたび歳を取る。

「こちらこそ、ごめんね」

 まだ早いよね、と美佳は言った。




 家に帰ってから、ワタルさんにメールを送った。

「童貞の俺に相談することじゃないだろう」

 という文章と共に、動画サイトへのURLが送られる。

 俺はそのURLを開く。すぐさま動画が始まる。

 動物園で、オランウータンが客の目の前で交尾をしている動画だった。恥ずかしげもなく、バックの姿勢で激しく腰を振る。それを録画している外国人の笑い声が終始、俺の耳に焼き付く。ガラス越しだから、その声が聞こえないのだろうか。

「馬鹿にしないでくださいよ」

 送信。

「わりいわりい」

 また新しいURL。俺はそれを開く。

 二匹のアメリカンショートヘアの猫が、お互いの身体を舐め合って毛づくろいをしている動画だ。

「可愛いですね」

「猫もお互いに舐め合うし、交尾だってするんだぜ」

「でも、俺の問題はもっと深刻なんです」

 そう返信をすると、ケータイが震えて、俺は慌てて電話に出る。23時08分。ワタルさんは塾から家に帰って、あの勉強机の前に座っていたという。

「不安なのか」

「……はい」

「好きなんだろう?」

「……はい」

「男だったら」

 ワタルさんは咳払いをした。

「瞬が引っ張らなきゃ駄目だろ?」

「はい」

「サッカーと人生は泥臭く」

「前にも言ってましたね」

「瞬は傷つけてしまうかもしれないって恐れているかもしれないよな。でも、努力すれば、泥臭く前を向けば、美佳ちゃんだって分かってくれるんじゃないかな」

「そうですかね」

「美佳ちゃんは、お前のことが好きなんだろ?」

「わかりません」

「お前はいい男だよ」

「そんなことないです」

「そんなことあるんだよ」

 ワタルさんは、ははは、と笑う。電話越しでも、脳内にはワタルさんの顔が浮かぶ。

「一つ聞いてもいいですか」

「なによ」

「セックスって、大富豪で言えば何のカードですかね」

「うーん」

 沈黙があった。俺は時間を数えてみた。秒針は、なんと46回も聞こえた。

「人それぞれなんじゃないかな。相手を気持ちよくさせるとか、お前はまだそんな次元じゃないんだよ」

「はい」

「だから、二人でよく話し合って、やっていくしかないんだよ」

「はい」

「何回イかせてやろうとか、そんな馬鹿なこと考えるなよ。2とかジョーカーを目指すな。童貞の実力じゃ、セックスのカードなんてたかが3か4だ」

「そうっすよね」

「そんなこと言ってる俺も童貞だけどね」

 俺は笑った。こんな時ですらあの人は冗談を言うのだ。その冗談が面白いかどうかは問題ではなくて、こんな場面に冗談を言ってくれるワタルさんが、俺は大好きだった。「すっきりしたか?」とワタルさんが言って、俺は、はい、と言った。

「童貞の薄っぺらい言葉、少しは役に立つだろ」

「ええ」

「あんまり考えすぎるなよ」

「ワタルさん」

「あ?」

「やっぱ、ワタルさんって、俺にとって、なんでしょう、男として、最高の先輩です」

「ははは、ありがと、嬉しいよ」

「こちらこそ、ありがとうございました」

「おやすみ」

「ありがとうございました」

 ワタルさんは、俺のどんな言葉でさえも、つるっとしたゼリーに変えて返してくれるのだ。俺はそれを、無心で呑み込む。

 どんな味でも、呑み込む。

 ワタルさんの欠点なんて、やはり何一つ、存在しない。




 その五日後に、俺は童貞という不名誉な称号を捨てた。

 美佳はシーツを両手でがっちり掴んで痛がったし、俺は途中で怖くなって中折れしたけど、どうにかなったと信じたい。

 美佳の中で射精はしなかった。ゴム越しに美佳が手でやってくれた。

「出そう」

「うん」

 性器がびくんって動いた、と美佳は言った。相当慌てたらしい。

 裸のまま毛布に入って、入ってから自分たちが相当汗をかいていたことに気づいて、急いでエアコンをつけた。それから笑って、お互いの頬をつねったりして遊んだ。

「おわったね」

「うん」

 おわったと美佳は言ったけど、これは俺たちにとって、むしろスタートなのだ。俺はいつか美佳を満足させてあげなきゃいけないし、男として、まだまだでっかくならなきゃいけない。

 童貞だけど、ワタルさんは大きな存在だ。




「童貞卒業」

 俺はその四文字熟語を、ワタルさんにメールで送る。

「おめでとう。やったな」

 やったな、のあとに、ピースの絵文字。

「先輩も、早く彼女作った方がいいっすよ」

 俺はワタルさんの先を越したことに、有頂天になっていた。

「そうかな。俺も童貞、捨てないとな。

 とりあえず瞬の卒業祝いに、飯でも行くか」

「いいんですか!焼肉、食いたいっす」

「よし、次の日曜日とか、どうよ」

「やったぜ。日曜日ですね、何時にします?」

 早く会いたくなった。自慢してやりたかった。

 頑張ったんですよと自慢したい。ワタルさんより先ですよと言って悔しがられたい。

 なによりワタルさんの顔が早く見たかった。




 一週間ぶりの再会に、俺はこの前ワタルさんに貰ったTシャツを着ていった。

「それしか服ないのかよ」

 そう言われたけど、悔しさはない。




 焼き肉を食いながら、俺は色んなことを話す。

 ワタルさんの話を美佳にすることはあったけど、美佳の話をワタルさんに、それもただの断片的な話だけではなく、深く話すことは、今思えばあまりなかった。

 中学三年生の頃に告白してからずっと付き合っていること、同じ高校に行くために美佳が勉強を頑張ったこと、両親も公認で父親同士仲が良く、毎月一緒に海釣りに行っていること、どんなことを話しても、ワタルさんはコーラをストローで吸いながら、神妙そうに頷いた。

 俺から話をするなんてことは、比較的珍しい気がした。

「美佳ちゃんと、俺も会ってみたいな」

 ワタルさんが、また言った。

 



 電車を待っている間、ワタルさんが言う。

「俺も童貞、卒業しなきゃいけないかな」

 ワタルさんなら童貞卒業くらい口笛を吹くより簡単でしょ、と笑って言ってみた。

「そんな簡単な問題じゃないんだよ」

「ワタルさんなら、余裕っすよ」

 なんとなく酒をのんでみたい気分になった。大人になるってこういうことなんだって、俺はこの時、とてつもない勘違いをしていた。

「テキトーな女と付き合って、セックスしてから別れればいいんですよ」

「うーん」

 翻弄されていくワタルさんを見てみたくて、俺はつい、冗談を言った。




 深夜、家から抜け出し、一人で夜道を歩く。

 風が背中を押す。早く歩けよ、そう言われた気がして、俺は走り出す。

 お前は歩けるんだよ。歩いて、いいんだよ。走れよ。

 ざっく、ざっく、スニーカーがコンクリートを踏み抜く音。街灯も木も空も星も、スニーカーの音を跳ね返す。

 俺は近くの酒屋に着いて、その店の前の自動販売機に、五百円玉を入れる。

 チューハイを一本。続けて二本目。がたん、がたん、という音がして、自動販売機から吐き出される。

 それを宝物みたいに抱えて、部屋に戻る。

 飲むのがもったいなくて、学習机の一番下の引き出しに、そっと隠した。




 夏休み、あまりにも暇すぎて、俺は部活に出ることにした。日曜日以外ワタルさんには会えないから、仕方がない。

 ワックスを付けずに家を出るのが久しぶりで、違和感があった。

 一時間遅刻してグラウンドに登場した俺を、みんなは手を振って迎える。

「ばーか」

「うるせえ」

 部長になった遠藤の軽口が、懐かしい。

 遠い昔のようだった。

 ドリブル練、パス練、なにをとっても久しぶりで、そもそもアップの50メートルダッシュの段階で、俺はへとへとになっていた。

 シャツをめくって顔の汗を拭いたら、腹の部分に少し肉がついている。

 これからは、きちんと部活にも来よう。

 美佳に失望されないためにも、ワタルさんの隣を歩くためにも、俺はかっこいい男でなければいけない。このままニートのような生活を続けていたらぶくぶく太ってしまう。

「瞬!シュート練やるぞ!」

 俺はみんなに合流する。思い切り息を吸う。緑色のゼッケンを着た群れに混ざると、俺の居場所は昔、ここにあったんだと思った。

昔と言っても、たかだか三ヵ月前だけれども。

 左サイドから上がってきたクロスをダイビングヘッドで合わせて、頭から突っ込んで、泥まみれになる。そんな俺を見てみんなが笑っているけれど、お前らだって、十分泥まみれだ。

 そのあと飲んだ水道水の味は、なんともいえず、甘かった。




 日曜日に、四人で晩御飯に行くことになった。

 この会を企画したのは、ワタルさんだった。

「瞳と美佳ちゃんと、瞬と俺でいい?」

「いいですけど」

「じゃあ、また」

「勉強頑張ってください」

「おう」

 こんな感じで電話が終わって、次の日曜日を迎える。




 18時に、汐入に集合。

 瞳さんは、白のワンピースを着て先に待っていた。トップスとボトムスを白で統一している。肩まで伸びた黒髪がコントラストになり、白がより映える。

 俺の存在に気づき、開いていた英単語帳を閉じる。

「瞬君、ひさしぶり」

 瞳さんはにこっと笑う。服装もそうだけど、上品、という言葉が良く似合う。俺は少し照れて、無言でお辞儀。隣で美佳が笑っている。

 三年生が部活を引退してから、瞳さんとは会っていなかった。メールも最近はしていない。きっと勉強が忙しかったのだろう。私服を着ているからだろうか、随分大人に見える。

 最後にワタルさんが来た。

「はじめまして、美佳です。いつも瞬がお世話になっています」

「こちらこそ」

 熟練の夫婦みたいなことを美佳が言って、ワタルさんは頭を掻きながら、ちょっと気まずそうに口角を上げた。美佳のほうが堂々としているように見えた。あとで誉めてやろう、と良い気になる。

 美佳は控えめだけど、化粧をしてきた。俺は美佳のすっぴんが好きだったけれど、「今日はワタルさんと会うから」と言ってはりきっていた。

 ワタルさんはジーパンに黒のTシャツ、前と同じクロムハーツのネックレスという格好。俺の服装がぱっとしないのは、ネックレスがないからだろうか。

「じゃあ、行くか」

 ワタルさんが先頭を歩こうとすると、するするっと、瞳さんはその隣につく。今にも腕にくっつきそうなほど近づくもんだから、やっぱり好きなんだな、と思って美佳と顔を合わせる。

「お似合いだよね」

 美佳が俺の耳元で、そう囁く。

 



 テーブルを挟んで向こうに瞳さんとワタルさんが座っている。俺は瞳さんの前に座ることになったから、緊張した。

「瞬君、美佳ちゃん、なに飲む?」

「わたし、アップルジュースで」

「俺はレモンサワーがいいっす」

 ワタルさんのほうを見たが、最初に運ばれてきた水を飲みながら、ケータイをいじっている。

「瞬君まだ未成年でしょ」

 美佳と瞳さんは笑ってくれた。俺はやっぱコーラで、と言い、瞳さんはアイスティーにするらしい。

「ねえ、ワタルは何にする?」

 瞳さんはメニューを広げ、身体をワタルさんのほうに寄せる。

「ああ、俺もコーラでいいよ」

 と、ワタルさんはメニューも見ないで言った。




 居酒屋チェーン店に来ていたから、大皿の食べ物をみんなで分けて食べるというスタンスだった。運ばれてくる料理を、瞳さんが素早くみんなの皿に分けていく。どこか、手慣れているようにも見える。

 居酒屋は料理の値段がやけに高いイメージがあったけれど、そんなことはなかった。

「ワタルさん、疲れてるんですか?」

 雑談しながら料理を食べている途中、美佳が言った。

 俺もおかしいと思っていた。いつもの調子ではないというか、ワタルさんは元気がなかった。

「いや、そんなことないよ」

 ワタルさんはようやく、本心といった笑顔を見せる。強張っていた表情から、力が抜けたといった感じだろうか。

 チャンスだ、と思った。

「あんまり寝られなかったんだよ」

「勉強のしすぎですか?」

「まあ、それもあるかな」

 ワタルさんが言ったから、俺は「ワタルさん美佳と会うの楽しみにしてたんだよ、だから寝られなかったんだ」と言ってからかってやった。

「ほんとですかあ」

「まあ、嘘じゃないけどね」

「俺の彼女、可愛いでしょ」

「からかわないでよ」

「瞬にお似合いだよ、とても」

 ようやく話が回り始めた。危うく忘れそうになっていたが、美佳とワタルさんは初対面なのだ。今日は、俺が引っ張る必要があるんじゃないか。そう思うと胸が熱くなった。瞳さんは、にこにこしてフライドポテトをつまんでいた。

 美佳とワタルさんは話が合うみたいだった。三年生の引退試合を見に来ていたことを美佳が言うと、ワタルさんは喜んだ。

「まあ、結局負けましたけどね」

 こんな感じで俺は横槍を入れ、瞳さんは話に加わりたそうに「そうだったんだあ」などと相槌を入れる。

「美佳ちゃん、瞬のどこが好きなの」

「そんなこと、ここで言わせないでくださいよ」

 俺が真っ赤になって遮ると美佳は笑う。俺は二人のえくぼを左右に見ながら、幸せだと思った。

 さっきからあまり喋っていない瞳さんに気を使って「瞳さんも受験勉強忙しいんですか?」と訊ねたら、「そんなことないよ」と言われて話は終わった。

瞳さんは空いたお皿を重ねたり、空になったコップを見つけて次は何が飲みたいのか聞いたり、そんなことに忙しいみたいだった。

「うーん、美佳ちゃんは、いい子だねえ」

「そんな、おじさんみたいなこと、言わないでください」

 もう冗談まで言い始めたかと、ちらっとワタルさんの表情を盗み見ようとしたら、目が合って、ワタルさんは静かに頷く。




 解散してから、最寄り駅からワタルさんと帰る。美佳は親の車に乗って帰って、瞳さんは最寄り駅が違うから、先に降りて帰っていった。

「楽しかったよ」

 瞳さんは別れ際そう言ったけど、彼女が今日した発言を一つも思い出せなかった。ワタルさんと一緒にいれたことが楽しかったのだろうな、と思った。恋なんて、重要なのは内容じゃないのかもしれない。

 自転車で二人乗りして帰る。ワタルさんが漕いで、俺は後ろに乗る。来るときは駅まで親に送ってもらって来ていたから、俺には自転車がなかった。

 ふらふら揺れる自転車、街灯が百メートル間隔にしかない真っ暗な田舎の川沿いの細道で、俺はワタルさんの腹に手をぎゅっと回す。

「痛いわ、ばか」

 ワタルさんの笑い声。夜の空気の間に滑り込むような、笑い声。




「美佳ちゃん、やっぱり良い子だった」

 アイスの破片が、ぼと、と落ちた。昼間の熱をたっぷりと蓄えたアスファルトが、冷たい破片を一瞬で溶かしていく。

「ほんとですかあ?」

「顔、可愛いし」

「まあ、確かに」

「明るくて、気が利いて、たまにうるさいけど」

「まあ、否定はしないです」

 いつも俺たちが別れるコンビニ前に自転車を止めて、いつか食いそびれたガリガリ君を、空を見上げながら食っていた。

「いつから付き合ってるんだっけ」

「中学です」

「結婚するの」

「その時、次第っすかねえ」

「寝取っちゃおうかな」

「はああ?」

「いやいや、冗談だよ」

「ワタルさんが手出したら、俺、まじで振られるかもしれないっすよ」

「美佳ちゃんなら、大丈夫だろう」

 そんなことはあり得ないけれど、もし美佳が、ワタルさんに告白されたら、どっちを選ぶだろう。

 俺は、大丈夫だと言い切れる自信が、まるでない。




 ガリガリ君は、両方とも外れた。

 棒を持ったまま、星を眺める。

 星だって、毎日少しずつ、空を移動している。

 その日決められた軌道の上を、星々は移動している。

 はあ、という溜息。

「俺も彼女、欲しくなってきちゃったなあ」

 ワタルさんが言った。

「羨ましい」

 ワタルさんが言った。

「瞬は、すごいなあ」

 よく分からないけれど、ワタルさんに褒められるのは、久しぶりだった。

 空から目を落とし、ワタルさんを見ると、横にいる彼は目を閉じたまま、未だ空を見上げていた。

「なにが見えるんですか」

「目瞑ってるし、なにも見えない」

「その体勢、首、疲れますよ」

「たしかに」

 俺もワタルさんと同じように、目を瞑り、顔を空に向けてみた。そこには完璧な暗闇があった。雲に覆われた夜空よりも明白な、画用紙を黒のクレヨンで塗りつぶしたような闇が広がっていた。

「明日から、また受験勉強だよ」

 闇の中で、ワタルさんの声がした。




 その夜、俺はクリスマスの予約をした。

 前にワタルさんと行った、イタリアンの店。

 人生で初めてした予約。今までは、クリスマスも、どこかに連れて行ってやったわけではなかった。

 こんな俺を、どうして好きでいてくれるのか。美佳に対して、途方もない感謝の気持ちが、どこからともなく湧いてくる。




 ワタルさんに彼女ができたのは、その三日後だった。

 相手は、瞳さんだった。

「あの二人、付き合うんじゃないかな」

 美佳の予想は的中した。俺もそうなるだろうって、思っていた。

 居酒屋からの帰り道、俺と美佳は手を繋いで、ワタルさんたちの後ろを歩いていた。瞳さんは居酒屋であまり喋ることができなかったことを埋め合わせるように、身振り手振りで語り、ワタルさんも打って変わって、瞳さんの話を笑顔で聞いていた。

 そんな光景を微笑ましく見ていたら、急にワタルさんがこちらを振り返り、二人で慌てて手を離したことが、おかしかった。別に俺たちは手を繋いで歩いてもいい関係性なのに、なぜかすごく、恥ずかしかったのだ。




「おめでとうございます」

 俺はメールを打つ。

「ありがとう。頑張るよ」

「早く童貞卒業できればいいですね」

「そうだなあ」

「冗談ですよ。後輩が言うセリフではないですけど、大切にしてあげてください」

 メールはそこで途絶えた。後味が悪かったが、ワタルさんは今も受験勉強を頑張っているのだろうと、言い聞かせる。




 久しぶりに、サッカーの試合に出た。

 四十度近い猛暑だった。

 空気が揺れているのが分かる。陽炎だろうか。そのざらざらとした空気の淀みを、風はまるでやすりをかけるみたいに、さらっていく。

「あっちー」

 俺は独りごちてから、ボールをだらだらと追いかける。

 試合に出るのも、疲れるだけじゃないか。そんなことばかり、ずっと考えていた。




 駅から自転車で、一人で帰る。

 遠藤たちは電車通学だから、だ。

 ワタルさんから誘われるまでは一人で帰っていたんだな。少し前までそれは当たり前だったのに、今ではやはり、物寂しい。

 稲と稲が擦れ合う音。木の葉も枝も、擦れ合う。

 遠くから、車のクラクションが鳴る。俺かな?そう思って振り返るけど、車なんて、どこにもない。

 雲が流れる音がする。さわさわ、という優しい音だけど、それは稲の音に似ているから、やはり聞こえないのだろう。積乱雲、わたがしみたいって言っていた女の子は、誰だったっけ。あれはたしか、幼稚園の頃だった。

 そうだ、たしか、俺の初恋の女の子だった。

 美佳ともいつか別れるのかな。そして忘れてしまうのかな。

 俺は、美佳のことが好きだ。

 



 夏休みという時間は、いとも簡単に流れる。その間、数えきれないほどの秒針が、心臓と似た一定のリズムで、時を区切っていった。

 俺は夏休みの間、美佳と四回セックスをした。

 ブラジャーのホックを外すのが難しくて、キレそうになった。

 そんな俺のダサささえも、美佳は受け入れてくれた。ワタルさんに似たえくぼを作って、俺を見つめる。

 下着を取る時は、毎回手で拒んで、恥ずかしそうに身体をくねらせた。




 二人で花火大会にも行った。

 屋台でわたがしを買って、二人で食べた。

「甘いね」

「だなあ」

 階段に座って花火を見た。美佳が俺の肩に、頭を乗せた。

 ドラマとか映画でよく見るやつだ、と思って、嬉しくなった。

 ばらん、ばらん、花火が弾ける。

 人々の歓声。俺は階段から立ち上がり叫ぶ。

「たーまやー!」

 声がでかすぎて、人々が一斉にこっちを向く。今日だけなら許される気がして大声で叫んだのに。こっち見るなよ。




 アウトレットに、美佳と一緒に行った。

 店を見ながら、二人で歩く。

 何も買わなくても、二人で歩くだけで楽しいものなのだ。俺は改めて、そのことを知る。もっといろんな場所に連れて行ってやろう、俺はそう思った。

「おそろいの服、買いたいな」

 美佳が言う。

 二人でパーカーを買って、俺が金を払ってやる。

「私が言ったんだから、いいのに」

 美佳は申し訳なさそうに言う。

「好きな女には、金払いたくなっちゃうんだよね」

 真顔で言うのもなんだから、にやっと笑う。俺が稼いだ金ではないけれど、父さん、母さん、格好つけたいから、今回だけは、許してほしい。

 愛があるからこその、無償の優しさ。恋愛って偉大だ。貢ぐとかじゃなくて、本当に好きな相手に、喜んでもらいたい、たったそれだけなのだ。




 サッカー部の連中と、練習後、ジョイフルに行った日だ。

 練習後で、今日は珍しく顧問が来たせいで、ダッシュのメニューをさぼれなかった。その日はくたくただった。

 ドリンクバーだけ頼んで二時間ほど居座って、さすがに良心が痛んでポテトを頼んだら、一分もしないうちに消えた。

「瞬が復活して、本当によかった」

 遠藤が言う。

「あのまま、部活辞めるのかと思ってた」

「心配かけたな」

 俺は遠藤のコップを奪ってドリンクバーの前に行き、コーヒーやら炭酸水やらメロンソーダやらをブレンドしたスペシャルドリンクを作ってやった。飲んだ瞬間、遠藤が噴き出して、青春なのかも、と思う。

 俺の居場所はここにもある。




 四人で会ったあの日から、日曜日前になってもワタルさんから誘いがこなくなった。

 俺より彼女になった瞳さんを優先しなきゃいけないのは分かるけど、それでも寂しい気もした。

「ワタルさん、どこの大学行くんだろう」

 美佳が言った。日曜日は美佳が所属するバドミントン部も部活が休みなので、ワタルさんの代わりに会うようになっていた。

「聞いてない」

「うそ」

「あの人頭良いから、横浜国立とか、行くんじゃないかな」

「そうかもねえ」

「関東には残りそうだけど」

「私も、そんな気がする」

 



 楽しいけれど、一年後にはもう完璧に忘れているような、そんな日々が続いた。ただ楽しいだけの、いつの間にか、というような時間だった。

 夏休みが終わろうとしている。もうすぐ九月。

それでも、パーカーを着るには、まだ暑い季節が続く。




 後期。登校日初日。俺は朝練をさぼって、ワタルさんと登校する。

 コンビニ前で待ち合わせをしたワタルさんの第一声はやはり「久しぶり」だった。忙しいのに、相変わらず、髪の毛の手入れは完璧だ。まだ暑いのにシャツの上にカーディガンを羽織っているあたりが、さすがの美意識だ。

 新学期だから、自転車のタイヤに空気を入れておいた。がたがた道でも、なめらかに進む俺の自転車。ワタルさんの目の下には、隈ができていた。

「美佳ちゃんは、元気?」

「元気っすよ。めちゃめちゃ元気」

「そっかあ」

 感情が抜けた声。俺はワタルさんの笑い声が、聞きたかった。

「夏休み、めちゃくちゃセックスしたんすよ」

 馬鹿だなあ、そう言った後、避妊だけはしろよ、と言われ、俺は「はい」と答える。

「祭り行ったんですよ。カップルで花火って、みんな憧れるじゃないですか」

「そうだな」

「海にも行ったんですよ。俺なんか海パン持ってなかったから、パン一で飛び込んだんですよ。そしたらクラゲに股間刺されて、死ぬかと思いました」

「あほだなあ」

「クリスマスの予約した話しましたっけ?ワタルさんが連れて行ってくれた、あそこですよ。やっぱ、ワタルさんは頼りになります、あざっす」

「よかった」

 ワタルさんは、こっちを向こうとはしない。自転車で並走している俺は、常にワタルさんの、固まった右の横顔だけ、眺めている。

「そういえば、ワタルさん、瞳さんと、どうなったんですか」

「別れたよ」

 ワタルさんは言う。口笛を吹くみたいに、あまりにも簡単に。

「え?」

「だから、別れた」

 ワタルさんが、こっちを見る。

 ははは、という、あの笑い方。

 それは空耳だった。ワタルさんは、笑っていない。

 それからまた、さっきみたいに、前を向く。

 意識してなのか、ワタルさんの自転車の進むスピードが上がった気がした。俺はギアを3に入れて、追いかける。

 



 放課後、ワタルさんは塾に行ったから、俺は部活に行こうと思う。でも、部活の道具を持ってくるのを忘れて、帰ることにした。

 並木道を通っている時、もう九月なのに、相変わらず蝉が鳴いていた。九月と言えば、もう秋だ。

 蝉は夏の虫なのに、どうして秋にもいるんだろう。

 鳴く。鳴いている蝉は、たしか雄だ。雄しか、発音器を持っていない。

 どうして雄だけ、鳴かなくてはならないのだろう。

 雌は楽だ。雄は鳴いてくれるから。声のする方向へ、向かえばいい。男女差別とかじゃないけれど、俺は男だから、そう思ってしまう。

 九月。

 秋という季節に取り残された蝉たちは、交配する相手を求め、広い大地を彷徨う。その声がどこまで届くか分からないのに、雄は声を枯らす。

 相手がどこにいるのか、つゆ知らず。

 もしかすると、雌は、もうこの世界のどこにも存在しないかもしれないのに。




 次の日、俺は朝練に行くため、家を早く出た。

 朝練が終わり、一限目が終わり、休み時間に生物室に向かっている最中、瞳さんと会う。

「今日、予定ある?」

 唐突な声に、俺はなんと言っていいのか分からず、首を横に振った。今日は部活の道具も、きちんと持ってきていた。

「じゃあ、放課後正門のところで、待ってて」

 そう言うと、瞳さんは俺の背後に消えていった。




 放課後、ドキドキしながら瞳さんを待つ。

 一応美佳にバレないように、バド部が練習する体育館に目をやりながら。

 正門を、ワタルさんが通過する。向こうが気づいていなかったから、俺も気づかない振りをした。ここでワタルさんと駄弁っていたり、一緒に帰るぞと誘われたら、計画が破綻しかねない。

 五分後に、瞳さんがやってくる。

「ごめんね」

 会って早々、瞳さんはそう言った。




 瞳さんの最寄りの駅まで連れていかれて、ファミレスに入る。まだ時間が早いし平日だから、店内はがら空きだ。

「好きなの頼んでいいよ」

 そう言われたけど、なにも食べる気がしない。とりあえず水を飲みながら、瞳さんの話を待った。

 瞳さんはケータイを何度か開き、溜息をついて、俺の顔を見つめたまま、急にぼろぼろと泣き始めた。すうーと頬を伝う涙ではなくて、一粒一粒の、大きな塊の涙だった。その涙の物質的な大きさが、瞳さんの悲しみのスケールの大きさを、そのまま表しているように感じた。

 俺は考える力を奪われた。瞳さんは無言で、ただ、ぼろぼろと涙をこぼし続けている。テーブルに置かれた瞳さんのコップに瞬く間に涙は注がれ、目には見えない波紋を作り続ける。

「大丈夫ですか」

 嘔吐のような感覚で無理やり捻り出した俺の言葉は、それだった。

 トリガーを引いたように、瞳さんはうつ伏せになり、声をあげて泣き始めた。




 黙って見守ってやるのが優しさだろう、一丁前にそんなことを考えたが、実際は、俺がただ何も言うことが出来ないだけだった。久しぶりに、俺ははっきりと、空中に浮かぶ秒針の音を捉えた。

 それは、時間は確実に進んでいて、俺たちは確実に年を取っているという、当たり前で陳腐で言葉にするのも恥ずかしいような、ルール以前の常識だった。

「あのね、瞬君にこんなこと言うつもりはなかったんだけど」

 顔を上げる瞳さん。涙に濡れた顔で、笑う。

 この人も、闘っていたんだ。

「あいつ、最低だよ、ほんとに」

「そうですか……」

「なんで好きになっちゃったんだろうって、思ってるもん」

「はい」

「でもね、でも……うん、楽しかったなあ、幸せだったなあ、って思ってる自分もいるんだよね。それが一番、つらいことなんだけど」

 それから瞳さんは、しばらく咳き込んだ。

「受験、がんばらないと」

 黒髪は、涙にぬれて、瞳さんの顔じゅうに、べたべたと張り付いていた。




 その夜、ワタルさんに電話をする。

 23時ちょうどに電話をかけてやろうと思って、22時半からずっと、部屋で待っていた。

 ワタルさんは、4コール目で電話に出る。

「おう、どうした瞬」

 さっぱりした声に、苛々する。

「なんで瞳さん、振ったんすか」

 向こうの男は黙る。

「その前に、なんで瞳さんと付き合ったんですか」

 うーん、という声。

「瞳さんのこと、好きだったんですか?」

「うーん、好きじゃなかったかも」

 ワタルさんはそう言った。いとも簡単に。

 



 俺は聞こえるように、わざと溜息をつく。

 不思議な感覚だ。喉元で、言葉が張り付いているような違和感がある。

 ワタルさんは、瞳さんを傷つけた。

 わずかに、体温が上がっていくのを感じた。

 卑怯なやり方かもしれないが、俺はついに、ワタルさんを責める理由を見つけたのだ。完璧だと思っていたあの人に、俺は発言する権利を、得たのだ。

 ワタルさんと、対等になりたい。憧れではなく、肩を並べたい。

 コンプレックス。身長、顔、運動神経、頭脳、もしかすると、この性格だって、そうかもしれない。

 俺はワタルさんに、ずっと、なりたかった。




 そう思うと、俺の中の暴力は、不自然なほど大きくなっていった。

 傷つけろ、そう思う自分がいるのだ。

 ワタルさんを責めるチャンスなのだ。

 完璧だったあの人の、欠点を、口実を、見つけてしまったのだ。

「大切にしてあげてください、って言いましたよね?瞳さん泣いてましたよ。ワタルさんのことずっと好きだったのに。俺にもメールで相談してきたんです。美佳だって、ダブルデートしたいねって、嬉しそうにしてたのに」

 だから俺は、わざとワタルさんに棘を刺す。

 後戻りできない場所へ、踏み込もうとしている。

「瞬、落ち着いてよ」

「落ち着けるわけないっす」

 俺は口調を、わざと冷ましていた。

「童貞捨てたいとか言ってましたよね?あれですか、身体目的とかだったら、俺、ほんと許さないですよ」

「瞳がそう言ってたのかよ」

「ワタルさん、そんな人だとは思いませんでした。ずっと、尊敬してたのに」

 俺は唐突に電話を切った。唐突過ぎた、と思った。俺は実際、そこまで、ワタルさんに怒りを感じていたわけではなかったのだ。




 ワタルさんは優しい人間で、人を傷つけるような人間じゃない。それは俺が一番分かっている。だから、理由も知らないのに怒るなんて、間違っている。

 そう思ってしまう良心が、俺にフィルターをかけた。

 意図した怒りは、あそこが限界だった。

 瞳さんの涙は、ワタルさんのせいで流されたのだ。ワタルさんのせいで。そう何度も反芻することで、俺はようやく、ワタルさんに対して怒りを覚えることができた。

 それも、ほんの少しだ。

 瞳さんは、結局最後まで、なにがあったのか、教えてはくれなかった。泣くばかりで、ずっと黙っていた。




 その後もワタルさんから着信があったが、俺は電話に出なかった。電話に出ないことが、せめてもの反抗のような気がしていた。

 俺が好きだったワタルさんは、あっさりと崩壊させることができた。出来たばかりのかさぶたを剥がすように、俺はわざと、傷ついている振りをする。

 好きでもない人と付き合って、一ヵ月もしないうちに振って、そんなの、もてあそんだだけじゃないか。

 何があったのかは知らないけれど、これだけで、ワタルさんは百パーセントの悪者になることができた。




 そもそも、俺はこう考える。そもそも俺には、ワタルさんのなにが分かっていたのだろう。すべて知った気になって、勝手に尊敬して、勝手に軽蔑した気になって、勝手に振り回された。

 俺はあの人の、何を知っていたのだ。

「モテすぎて、誰と付き合ったら良いのか分かんねえ」

 あれは冗談でもなんでもなく、本心だったのかもしれない。そう思い込む。

 あいつは最低な人間だ、俺はそう思い込む。

 少し距離を置こう、そう覚悟を決める。本当はものすごく会いたい。だけど、それは俺の中の何かが、頑なに拒んでいた。

 



 それに、ワタルさんは、受験生だから。

 俺に構ってる暇なんてないから。

 なんて都合の良い、言い訳なんだろう。




 その日から、俺はワタルさんに会わなくなった。

 ワタルさんは学校に来なくなった。それはなにも俺のせいじゃなくて、成績の良い生徒は学校の授業に見切りをつけて、ある時期から学校に来なくなり、家や塾の自習室で勉強をするらしい。

「私のクラスでも何人か、そういう人いるよ」

 瞳さんは言っていた。




 秋がなんとなく、終わろうとしているのが見える。

 部活帰り、ふわっと香った金木犀の匂いが、そう思わせた。

 もう十月だもんな。

 気が付けば、蝉の声も聞こえなくなったものだ。

 



 家に帰ってから、金木犀の香りについて想った。

 金木犀は、過去の匂いがする。あの匂いで過去を連想するのは、俺だけじゃないはずだ。

 直接的な関係はないけれど、金木犀は、俺に幼少期の夢とか、いろんなことを思い出させる。




 人間は時々、未来のことを考えて憂鬱になる。

 過去は憂鬱というよりかは、後悔といった感情だ。

 今日もいつか過去になり、だとしたら、俺は今日のことを、いつか悔やむのだろうか。

 ワタルさんは小さい頃、プロのサッカー選手になりたかった。小さい頃のワタルさんは、将来のことを考え、憂鬱になったのだろうか。




 俺は机の引き出しを開けてみる。

 思い出が、物質として詰まった引き出しだ。

 一番上の引き出し。使いかけの消しゴムや、鉛筆。小学生の頃に集めたBB弾が、袋いっぱいに詰め込まれている。その他、きれいだから集めていたおはじき、ネジ、B球。がらくたばかり。

 二番目の引き出し。中学校の頃に市で二位になった時の、サッカーの銀メダル。美佳から貰ったラブレターに、転校した友達から貰ったブレスレット。



 一番下の引き出し。缶チューハイが、二本。すっかり忘れていた。

 どうして俺は、二本も買ったのだろう。

 ワタルさんに一本、あげようとしていたのではないか。




 サッカーを頑張る。

 俺は試合に出られるようになっていた。

 パスをつなぎ、前線へと抜け出す。

 俺は高校生活で初めて、相手ゴールを揺らした。

 審判のフラッグが上がる。練習試合だから、誰も落胆しない。審判のほうに詰め寄ったりもしない。

 オフサイドなんつうルールは、誰が考えたんだ。




 十一月のある日、放課後、柏木さんがテニスコートにいた。

「先輩、勉強しなくていいんですか」

 テニスコートは乾き、ひびが入っている。雑草一つない。

「俺、スポ推で、進学決まってるんだ」

「へえ、すごいっすね」

「だろ?」

「ワタルさん、どこの大学行くのか知りませんか?」

「知らねえなあ。受験生って案外、お互いの志望校とか、言わないもんだから」

「そうなんですか」

「それに、センター試験の結果で、どこ受けるか決める人が多いし」

「なるほど」

 柏木さんは、スパアアン、と硬球をラケットでしばく。俺は打球を目で追う。その黄色い軌跡が、しばらく目に焼き付いた。俺はその軌跡から、昔家の近くの用水路で見た蛍を思い出す。

 いつの夏だっただろうか。

オン・ザ・ラインだ。硬球は地面に叩きつけられて、ネットまで転がる。

 センター試験は、一月。あと二ヵ月しかない。




「最近ワタルさんと話した?」

 遠藤が言う。何気ない顔で。

「話してないよ、学校いねえもん、あの人」

「そっか」

「それより、寒くなってきたよな」

「確かに。時間経つの早すぎ」

 あと少しで俺たちも受験生だもんな、遠藤はそう言って、空に向かって白い息を吐いた。

 俺はどこの大学に行くのだろう。俺はそもそも進学するのだろうか。偏差値ってなんだっけ。いつまで美佳と一緒にいられるだろうか。もうすぐクリスマスじゃないか。去年寒かったから、今年はヒートテック買いたいな。マフラーだって欲しい、ネックウォーマーでもいい。

「あと半年で、こいつともお別れか」

 遠藤はサッカーボールを抱えながら、それを一回地面にバウンドさせる。

「遠藤は、大学行ってもサッカーやるの?」

 俺がそう言ってみると、遠藤はしばらく考えたあと、「多分、やらないかな」と微笑んだ。

「もうすぐ三年生になるんだな」

 人はいつか死ぬんだよな、って感じで、遠藤が言った。




 休みの日、俺は一人で買い物に出かけるようになっていた。

 この頃の俺は、アクセサリーがお洒落の必須要素だと思い込んでいた初期段階の人間だったから、ネックレスが欲しかった。

 ちょっとした反抗心から、ワタルさんと同じブランドは避けようという気になった。店を回っていると、ワタルさんと似た十字架のネックレスが、千円くらいで売っている。メッキを塗っただけの偽物だろうが、俺はそれを購入した。

 実際に付けて、鏡を見てみる。悪くない。俺は微笑む。

 店を出るとビル風が、俺の髪をぐしゃぐしゃにしていった。そういえばいつからか面倒になって、ワックスを付けるのをやめた。ヘアアイロンも、部屋の隅で埃をかぶっている。

 俺には彼女がいるんだから、学校で格好つける理由なんか、最初からなかったはずなのだ。デートの時だけ、きちんとした格好をすればいいんだ。

 その後、ユニクロで私服用のニットとボーダーのシャツと、他の店でちょっと値段の張るロングコートを買って、満足して家に帰った。




 十二月。本格的な冬の寒さが、肌を刺す。

 ニュース番組では今年も、十年に一度の寒波がやってくると言っていた。去年も同じこと言ってたよな、むかついてテレビの電源を切る。




 部活は、ダッシュ中心のメニューが増えた。

 ダッシュは原点に返ったような、新しい気持ちにさせる。それでも、新学期を迎えるあのドキドキ感のような感情では、まるでない。

「どうせ私立には勝てないけど」

 部長の癖に、遠藤は言う。

「俺らも引退に向けて、スパートかけていくぞ」

 遠藤は、学校で使われている英単語帳を、休み時間の間に見るようになった。瞳さんがやっていた、もうすでに覚えたページを折っていく方法や、逆に覚えていないページに付箋を貼ることを教えてやると、

「お前も勉強した方が、いいんじゃないか」

 と歯を見せる。




 クリスマス。

 ワタルさんと来たレストランに、美佳と行く。今年のクリスマスは土曜日だったから、俺はこの前買った黒のコートを羽織って、少し大人ぶる。

「いいじゃん」

 だってお前のために買ったんだから、お前のために俺はお洒落をすれば良いって気づいたんだから。

 隣を歩く人が格好良くて、嫌になるやつなんて、いないだろうから。

「ほら、行くぞ」

 美佳の手を握ってやると、冷たい。

 俺の手が、温かいから。




「生ハムとアスパラのピザがうまかったんだよ」

 俺は言った。

「ここ、ワタルさんと来たって言ってた、あの場所?」

 美佳は壁際に並べられたワインやコルクボード、クリスマス用にイルミネーションされたモミの木を、目を泳がせるといった感じで見ていた。

「心配しなくていいよ」

「こんな大人みたいな店、来たことなかったから」

「今日は、俺に全部、任せときなよ」

 柄にもなく、格好つけてみる。今日は何をやっても許される日だし、この店は、もうすでに予習済みだから。

 美佳とピザを分け合って、チキンを食べた。食べながら、美佳は「おいしい」と六回言った。俺はなぜか、その回数を数えていた。

 自分の口の中は、緊張と幸福で、ぱさぱさに乾いていた。

「これ、お酒みたいな味する」

 シャンメリーの一口目、美佳が言う。ワイングラスに注がれていたから、どうせプラシーボ効果みたいなもんだろ、と鼻で笑う。

「酒、飲んだことないくせに」

「実は、あるんだよね」

「うーわ、ヤンキーだわ、不良だわ」

「親戚が集まった時にね、今日だけって、飲まされたの」

「おいしかった?」

「この飲み物のほうが、おいしい」

 おいしい、また言った。

「俺も、美佳と一緒にお酒、飲みたいな」

「だったら、あと三年間、一緒にいないと」

「三年って、どれくらい長いんだろう」

「高校を入学して、高校を卒業するのと同じだね」

「そっか。でもさ、中学から付き合って、もうすぐ俺ら、高三でさ」

「うん」

「俺たち、もう三年以上の付き合いになるけど」

「うん」

「ずっと一緒にいたいよな」

「うん」

 美佳は頷いた後、「これ、本当においしいね」と言って、ワインを酸化させるみたいに、グラスを揺らした。




 駅前のイルミネーション。

 膨張するような、その光。青や、黄色や、赤。

 人が光を美しいと感じるのは、それが暗さとは、対極にあるからだろう。

「綺麗だね」

 美佳は当たり前のことを、感動的に言う。

 ベンチが空いていなかったから、俺たちは、近くの花壇に腰掛けた。土が付くとか、どうでもよかった。花壇の花にさえ、紫色の、淡いイルミネーションが飾られている。

「寒い」

「マフラー、入る?」

「うん」

 美佳は自分のふわふわのマフラーの中に、俺を入れてくれる。顔が接近するけど、恥ずかしくはない。

 周りには、同じように自分たちの恋愛に酔う若者が、腐るほどいた。

 イルミネーションの周囲には、いつも若者しかいない。

「あそこの街灯、あるじゃん」

 俺は指さす。

「うん」

「イルミネーションより、あれのほうが眩しいよな」

 ワタルさんは今日も勉強か、と思う。

「関係ないけど、今日、とても嬉しかった」

 消えてしまいそうなその声を、俺は聞き逃さなかった。

 俺が生まれた町、美佳が生まれた町、ワタルさんや遠藤や瞳さんが生まれた町。いつか出ていくことになるかもしれない、この町。

 俺は一生ここにいてもいい。小さな進歩で良い。昔は都会に出て大きくなりたいと思っていたけれど、悪くない。

 好きな人と、一緒にいる。それだけで十分じゃないか。

「瞬、マフラー持っていないんだよね」

 美佳が小さな声で、囁く。小さな声でも、近いから聞こえる。

「もうすぐ、瞬の誕生日だね」

 センター試験前日が、俺の誕生日だ。一月十八日、その日はセンター試験。




 大晦日は家で紅白を見て、0時ちょうどに、美佳に電話をした。

 日本中のたくさんの人間が電話をかけているらしく、回線が重い。

 美佳に電話が繋がったのは、0時6分だった。

「あけましておめでとう」

「瞬も、おめでとう」

「今年も、よろしく」

「こちらこそ」

「これからも、よろしく」

「馬鹿みたい」

 いつもとは違う重みがあった。今年の俺は、相手を思いやる心を、持ちたい。




 一月三日、初詣に行く。信じられないくらいの人が、階段に列を作っていた。俺たちは先に絵馬を書く。

「幸せが続いてほしい」

 俺はそう書く。神様に向かって、これ以上欲張ったら、罰が当たりそうな気がするほど、俺は現状に満足していた。

 絵馬は「~大学に合格できますように」と書かれたものが、圧倒的に多い。初詣に行くくらいならその時間を使って勉強しろよと笑うと、美佳は俺に絵馬を見せる。

「先輩たちが、大学に合格できますように」

 瞬は気が利かないから私が書いておいた、と美佳は言った。

 おみくじは俺が大吉で、美佳が末吉だった。




 四日には、俺だけ美佳の家族に混ざって食事をした。おせちの残りとお雑煮と、簡単なものだったが、美佳のお母さんが作ったものを食べるのは嬉しかった。

「かっこよくなりやがって、瞬!」

 美佳のお父さんは、俺がせっかくワックスで固めた髪をぐしゃぐしゃにした。会うのは一年ぶりだったが、何も変わらないオヤジだった。




 冬休みが終わり、学校に行く。

 模擬試験があって、俺の全教科総合の偏差値は、ついに50を割った。

 地頭は悪くなかったから、その分で補っていた貯金が、ついになくなったという感じだった。

 塾に行かなきゃ、そう思ったけれど、近くの某有名塾にはワタルさんが通っているはずだ。

 俺はワタルさんに会うことを、ためらっていた。

 会わないまま、連絡すら取らないまま、四ヵ月が経とうとしていた。



 センター試験前々日、俺は美佳から、予想通りマフラーをプレゼントされる。

「一日早いけど、誕生日おめでとう」

 美佳の部屋で、ベッドに腰掛け、俺はマフラーを巻いてみる。赤と青のチェック柄。

「ありがとう、嬉しい」

「学ラン黒いし、瞬のコートも黒いから、マフラーは派手な方が良いと思った」

「さすが相棒」

「でしょ」

 馬鹿みたいに、グッドのサインを出す美佳。愛しくなって、ベッドに突き倒す。しばらく無言で抱き合って、秒針の音が聞こえて、忘れかけていたテーブルの上にぽつんと直立していたショートケーキを食べた。ロウソクは消さなかったし美佳は歌ってくれなかったけれど、十分だ。




 センター前日、ワタルさんにメールを打つべきか、悩む。

「頑張ってください」

 それだけで良いはずなのに。

 今日がたまたま俺の誕生日だったから、向こうからメールがくるかもしれないと、俺は家のベッドの上で、毛布を三枚肩まで掛けて、片思いの女の子みたいに、待ち続けた。

 いつになってもメールはこなかった。

 今俺が連絡しても動揺するだけだろう、そう言い訳して、俺は寝る。

 



 センターが終わっても、まだ二次試験がある。だから受験生は、二月の下旬まで、忙しい。

 何かから逃げるように、俺はサッカーに打ち込んだ。

 ヒールでボールをクッションした時、以前の俺ならこんなプレーはできなかったはずだ、と思う。

「今のプレー、ワタルさんみたいだったな」

 遠藤は素直に、俺の成長を喜ぶ。




 二次試験が終わるのが、2月25日。

 その日が終わると、ワタルさんに連絡をするべきだろうか。

 国公立の前期試験にもし落ちたら、後期試験がある。すなわち三月上旬まで試験勉強が続くわけだ。

 合格したんですか?そう聞いて、もしワタルさんが落ちていたら、失礼に値するのではないか。

 結局俺は、ワタルさんに一切連絡せず、三月に突入した。

 卒業式の日、学ランのボタンを引きちぎられたワタルさんを廊下で見たが、同級生と話をしていて、声をかけそびれる。周りの同級生は、ワタルさんの肩を掴み、涙を流している。

 このまま終わるんだろうか、俺は夏の出来事を、たまに思い返した。








 ワタルさんは、唐突に、俺の前に現れた。







 春休み。それは俺が、練習試合に出ている時だった。実力が同じくらいの県立高校と競ったゲームで、一点差で勝った。

 この試合にはフル出場。俺は、レギュラーとベンチのちょうど中間くらいで、出る試合も全く出ない試合もあった。

 その試合の観客席に、ワタルさんがいたのだ。試合観戦をしにきた保護者に紛れて、髪を完全な茶髪に染めた見覚えのある男。

 ワタルさんは、笑顔で俺に手を振ってくる。

「しゅーん!」

 自分でも不思議だったが、俺にはその時、違和感というものが全くなかった。ワタルさんとは一昨日も会っていて、昨日も一緒にいたように思えた。

 気が付けば、俺は駆けていた。

「ワタルさん」

「久しぶりだなあ」

「ほんと、それっす」

「上手くなったな」

「まあ、何ヵ月も練習しましたからね」

 俺が真面目に練習をしていた歳月は、そのまま、俺がワタルさんに会っていなかった歳月と、イコールだったはずだ。

「今日このあと、飯、行こうか」

 そうくると、分かっていた。

 時間なんて問題じゃないんだ。俺とワタルさんには、きちんとした、絆みたいなものがあった。時間がどれほど経っても、大切なのは、そこに戻ってくるかどうかだろう。

男と男の付き合いだ。

 ずっと、俺だけ女々しかったのかもしれない。

 ワタルさんは純粋に、試験勉強の期間として、俺と距離を置いていたのだろう。




 中央駅に着く。

 イルミネーションは消えた。街行く人々はまばらに歩を進め、それは、それぞれの人生を象徴している。彼らがこれからどこへ向かうのか、知っている人間は、彼ら自身でしかない。

 駅前には、今日も誰かを待つ人々の人生が、風景化している。切り取られた写真みたいに、ただ、そこに存在している。




 パンケーキの店に入った。周りには男女のペアが多かったから、少し恥ずかしい。

 ドリルみたいな形に盛り上がったクリーム、星屑のように小さくカットされた、ストロベリー、バナナ、ブルーベリー。ナイフとフォークを握りながら、俺は美佳とのデートやこの何ヵ月間のことを、ワタルさんにべらべらと喋り続けた。

 ワタルさんは時々頷き、ははは、と笑ってくれた。

 その笑い方だけでも、やっぱりこの人だ、と俺は感じる。

 この人はずっと、俺の憧れだったのだ。




「誕生日おめでとう、遅くなったな」

 しばらくつついて、ワタルさんがリュックサックから取り出したのは、小さな箱だった。開けてみると、それはお揃いの、クロムハーツのネックレスだった。

「誕生日、覚えててくれたんですか」

「当たり前だろ」

 満足そうに、にこにこ笑う。

「ワタルさん、一生ついて行きます」

「現金なやつだなあ」

 ははは、と声をあげて笑うから、俺も笑った。俺は、ワタルさんの合格祝いなんて、用意していなかったのに。

「瞬に、嫌われちゃったかと、思ってたから」

 ワタルさんは言った。

「どこの大学、受かったんですか」

「えーと、九州大学」

「まじですか」

「言ってなかったっけ」

「聞いてませんよ」

「しばらく、お別れかもな」

「そうっすね」

「また、会えるよな、多分」

「会えますよ、多分」

「瞬も、やっぱり、そう思う?」

「そう、思います」

 俺は言った。吞み込めていなかったのか、サバサバしていた。

 この人となら、ずっと、一緒にいられると思った。




 家に帰って、ネックレスを眺める。夜も深い。

 十字架の先端部分。ナイフのように、鋭利だ。それは一定の方向を示す矢印みたいに、常に尖っている。

 それは何かを傷つけてしまえるくらい、尖っていた。

 大人になるまで、これはしまっておこう。

 クッションに挟んで、ケースに戻して、一番下の机の引き出しを開ける。

 冷えた缶チューハイが二本。

 冬の終わり。もうすぐ春が来る。

 いつか二人で酒を飲もう、俺はワタルさんとした約束を、ちゃんと覚えていた。

 ネックレスと酒、俺はそれを交換するみたいに、この場所では共存できないというみたいに、入れ替える。そしてベッドの上に置いて、眺めた。

 まだ二十歳じゃないけれど、今日だけは、許される気がした。





「もしもし」

 ワタルさんは、6コール目で電話に出た。

「ワタルさん、今から外に出ませんか」

「え、どうして」

「ワタルさんに、会いたいんです」

 持って行こう。近くの公園のベンチで、乾杯しよう。

 すべて話そう。

 これからの俺たちのことも、ずっと尊敬していたってことも、本当はずっとワタルさんに連絡しようと思っていたということも。

 ずっとワタルさんに、憧れていた。

 あなたに、なりたかった。

 あなたに、認めてもらいたかったんです、俺は。

 ずっと。

 あなたが話しかけてくれたあの日から、ずっと。もしかすると、その前から、俺はずっとあなたに憧れていたのかもしれない。

 初めて飲むアルコールは、きっと俺に力をくれるはずだ。

 火照った顔で、ワタルさんが笑う。

「照れるじゃん、やめろよ」

 俺の名前を、呼んでくれる。

「瞬、やめろよ」

 ははは。

「……ああ、今荷造りしてるんだよ。ちょっと忙しいから、無理かも」

 ワタルさんの声がした。

 たった今、電話越しに、耳に入ったワタルさんの声だ。

 荷造り?

「旅行でも行くんですか?」

「いや、違うよ。引っ越しするから」

 嫌な汗が流れる。拒否反応みたいに。

「俺、もう明日には、福岡行くから。あとで、連絡しようと思っていたんだけど」

 黙ってて悪かったよ、とワタルさんは謝る。そのあと、新幹線の時間を言った。10時54分。福岡行き、のぞみ号。

「いきなりすぎませんか」

「ずっと前から決めていたんだよね、明日行くこと」

「見送り、行っていいですか」

「いいけど、明日も練習だろう?」

「さぼります」

「わざわざ、俺のためにさぼらなくてもいいのに」

 結局、ワタルさんのお母さんの車で、横浜駅まで行くことになった。






 急に訪れた、最後の一日。

 あとで連絡しようと思ってた。それが嘘だって、俺にははっきり分かる。

 なにか理由があるな、悲しむ前に、裏切られたと思う前に、俺はそう思っていた。

 だって、俺とワタルさんの関係なんだから。

 俺に言わないなんて、そんなの、ありえないじゃないか。



 なかなか寝付くことができなかった。

 酒でも飲んでやるか、そう思ったけれど、明日起きることができなかったら困る。

 目を瞑る。いつか見た、真っ暗な闇。完璧な闇だ。

 画用紙を塗りつぶしたような、真っ黒黒だ。

 人工的なほど、真っ黒だ。

 ワタルさんもきっと今、全く同じ闇を見ているんだろう。






「母さん、悪いけど、瞬と二人で話したいから」

 無言の車内から降りて、ワタルさんは言った。お母さんは、運転席で、いってらっしゃい、と言った。

「頑張ってくるから」

「頑張るんだよ」

「帰りは、こいつ、ちゃんと家まで送ってあげてね」

 ワタルさんは、俺の肩を、ぽんと叩く。お母さんは、頷く。

 車内から出ると、春が来ていた。コートが暑くて、俺は脱いだ。ワタルさんがキャリーケースを運ぶ、がらがらという音が、本当に不快で、俺は倒れそうになる。

 東口のエレベーターを昇って、歩いて、改札を通り、ホームを確認してから階段を上る。一つ一つが、単調な行動になる。まさに、行動は点のようだ。

 その点と点を結び、結んだ結果、一本の線になる。最終的に、新幹線乗り場に、到着する。



 10時27分発の新幹線が、俺たちの目の前で発車していった。俺はなぜかそれを、視界の中で感じて、鬱陶しく思っていた。

 ワタルさんとベンチに座って、なにもなくなった空間を、無言で眺めた。

 行ってしまうんだな、そんな気分だ。身体がずっとふわふわしている。春の暖かい風に吹かれる綿毛のように、この身体は、どこかに飛んで行ってしまいそうなくらい、不安定だ。

 自分の意志とは無関係に、綿毛は飛ぶ。着地するのは、海の上かもしれないのに。待っているのは、海の底の、深い暗闇だ。

 俺たちの心は、危なっかしくて、ずっと不安定だった。

 出発まで、あと少し。

 どうして俺に言ってくれなかったのか。どうして黙って行こうとしたのか。ワタルさんから話してくれるだろうと思っていても、こっちからも言いたいことが多すぎて、俺は怒りをぶつけることすらもできない気がした。

 俺が憧れた人。その人が、決断したことだから。

 すべて優しさだったのかもしれない、そう思う。部員みんなで書いたワタルさん宛ての色紙に「優しくて格好良い先輩でした」と俺は書いた。

 顔を合わせることは雰囲気をぶち壊してしまう気がして、俺たちは、さっきからわざと、前を向いていた。錆びた線路を見つめ、錆びがついた小石を見つめ、錆びた看板を見つめていた。

「色々、楽しかったです。仲良くなれて、よかった」

 俺がずっと何も言えなかったのは、涙をこらえていたからだと、気づく。

「俺のことなんて、早く忘れちまえよ。あと、部活頑張れ」

「そんなの、無理っすよ。部活は、頑張りますけど」

 ははは、と笑う。雲に隠れた太陽。それでも風は雲を流し、太陽はいずれ、目の前の景色を照らす。






「楽しかったか?」

「はい、とても」

「そうか」

「はい」

「俺は、お前の中で、どんな人間だった?」

「めちゃくちゃ格好良くて、優しくて、完璧に近い人でしたね」

「めっちゃ褒めるじゃん」

「だってそうだったんですから」

「完璧に近い、っていう、ニュアンスが引っかかるけど」

「瞳さんと付き合ったの、あれは謎でしたよ。好きでもないのに」

「ああ、あれか」

「あれはないっすよ」

「でも、どうしようもなかったんだよね」

「そうですか」

「うん、ごめんな」

「俺は全然いいっすけど」

「……なあ、瞬、今から、めっちゃ気持ち悪いこと言っていい?」

「どうぞ、お構いなく」

「吐くかもしれないぜ、気持ち悪すぎて」

「俺、胃腸わりと強いですよ」

「じゃあ、言うわ。あのさ、瞬のことずっと好きだったって言ったら、どうする?」

「…………へえ、そうだったんだな、って感じですかね」

「はは、ほんとかよ」

「本当です」

「俺、ゲイなんだよね」

「そうっすか」

「うん、マジで」

「……なんか」

「え?」

「なんか、色々、納得したっていうか」

「やっぱ気持ち悪いよな」

「そんなこと、ないっすよ」

「……冗談じゃないから、これ」

「信じますよ。俺、ワタルさんのこと、信じてますから」

「美佳ちゃんより?」

「ある意味では」

「ははは、嬉しいよ」

「ずっと思ってたんですけど、ワタルさん、笑い方独特ですよね」

「それ、今言うか?」

 ははは、と、隣でワタルさんが笑った。あと何回聞くことができるんだろう、俺はそう思った。

 そして、これで最後だから我慢してくれな、と、ワタルさんは言った。

 それから、すう、と息を吸った。



 時は過去に向かって、流れることはない。

 記憶を巡らす。どんな場所に行ったっけ。どんな言葉を貰ったっけ。

 人間は、過去には戻れない。その矢印は、常に未来を、先を指している。

 俺は電光掲示板を見る。残された時間との、引き算もできない。

 隣に、ワタルさんがいる。

 本当に最後だから、とワタルさんは言った。






                        *






 

……冗談だと思った?

 俺のことだから、その可能性も、ありえるのかもな。

 でも、本当なんだよね。俺はゲイ。同性愛者。

 間違いないんだ、それは。

 だってお前のこと、ちゃんと好きだったし。

 嫌だったら聞かなくてもいいけど、聞いてくれたら、俺は嬉しいな。

 本当に、最後にするからさ……。



 ……瞬。今まで黙ってて、ごめん。

 俺のこと、気持ち悪いと思ってくれても構わないからな、うん。

 だって同性愛者なんか気持ち悪いもん、冷静に。ははは。



 全部話すよ。

 俺がこうやって話すことで、瞬の中で綺麗だった思い出が、滅茶苦茶になってしまったら、ごめんな。


 こうやって自白してることも、俺自身のただの、自己満足だよな。

 ほら、卒業式当日に、好きな子に告白する奴、いただろう?あの、痛い奴ら。

 あれと、同じだよ。もう時間は少しも残されていないのにさ、自分のけじめってやつのためだけに、告白する奴。あれと同じ。



 ……葛藤はあったよ。今日だけじゃなくて、ずっとね。

 中学を卒業するまで、俺は恋をしたことがなかったんだ。おかしいな、と思ってた。でも、高校二年生になって、お前が入学してきて、あいつ格好いいなってところから始まって、仲良くしたいなって思うようになって、気が付けば、こうなってた。要するに、俺はその時、初めて恋をしたんだな。

 でもね、最初は自分が信じられなかったんだ。だって受け入れられるか?そんなの。顔がもっと格好良かったらとか、身長がもっと高くなりたいとか、太りやすい体質だとかそんなのどうでもいいんだよ。俺が抱えたコンプレックスっていうのはね、俺自身が、多分、同性愛者なんだってことだった。

 つらいなんて、度を越してた。



 これってきっと、先天的に供えられたシステムだから、俺にも、どうしようもない問題だったんだよ。意志の強さとかじゃなくてね。

 女の子と喋るようにして、どうにか俺にも、まだ女性を好きになれる可能性があるんじゃないかって、試したよ。でも、駄目だった。俺は生物的観念からも外れて倫理的にも問題がある、気持ち悪い同性愛者だったんだ。はっきりわかった。そのせいで瞳まで傷つけた。何か変わるんじゃないかって、思ったんだ。





 悲しかった。





 同性愛者に対して偏見があるとかないとか、そういう議論をするのはいつも、同性愛者ではない一般人なんだよ。同性愛者にだって人権はあります!なんてね、そんなの言わなくたって当たり前のことじゃないのかな。同性愛者だって人を好きになる権利があるんだ!いやいや、やめてくれよ。言わないでくれよ、そんなの言わなくたって、当然じゃなかったのかな……。だって、俺も人間なんだよ。どうして好きになる相手の性別がお前らとは違うからって、馬鹿にされないといけないんだ、区別されないといけないんだ、なあ、うん、わからないよな。



 そもそも日本ってさ、同性愛者にとってみれば地獄みたいな場所なんだよ、なんでだと思う?

 理由は簡単。憲法ってあるだろ、憲法。まさにこれなんだ。

 これはね、俺たちこっち側の人間の中では有名な話なんだけどね、憲法の24条、こう定められてる。「結婚は両性の合意のみに基づいて成立する」ってさ、そういう風に。両性って意味、分かるか?うん、そうだよ、男と女、ってことだな。だから、そもそも俺らみたいな人間が生まれてくることすら想定してないんだな、みんな。誰も俺たちの苦しみなんかわかってくれないし、存在だって、無いもの同然として、決められてる。「基本的人権の尊重」だなんて言うけど、俺たち、好きな人と結婚する権利すら無いんだよ、うん。

だから黙って、耐えるしかないんだ。だって、その権利を獲得するために戦おうとすれば、自らの同性愛っていうコンプレックスを世間にさらけ出すことになるんだから。ゲイにも人権を!って叫ぶだけで、あいつはゲイなんだな、ってみんな思うだろ?親にも、友人にも、みんなにさらけ出すことになるんだ。自分の一番の脆い部分を。

 

 分かるかな、この感覚。


 でもね、それ以上に一番辛いこと、あるんだよ。それは、自分が恋をしている人間に、自分の気持ちを正直に伝えてしまっていいのか、それすら分からなくなるってことだった。

 俺が告白する。お前ホモかよ、って気持ち悪がられる。

 周りに言われる。あいつホモなんだぜ、っていう風に。それをアウティングって言うんだけれど。友人、先生、親にまで伝わるかもしれない。すると居場所がなくなる。きっと絶望して、引き籠る。そんなの、目に見えてた。

 だから、こうやって本当の本当に最後にしか、伝えられないんだよ。

 好きな女の子に告白して振られて、それを友達に馬鹿にされて、悔しいけど笑って、やめろよって言って、もっと馬鹿にされて、また新しい女の子を好きになったりして、どきどきして、そういう普通の恋愛が、羨ましかった。



 普通の人間に、この気持ちは、分からないんだろうな。



 ……俺はお笑い番組が好きなんだけどね、いつかテレビで見た漫才やってる芸人の突っ込みの方が「お前ホモやんけ!」って相方に突っ込んで、それだけで客席がどっと沸いたんだ。まばらな拍手と、大袈裟なくらいの、呻くような笑い声。

 俺はね、その時ほんとに寒気がした。怖くなった。ヘイトスピーチとか差別的発言がしょっちゅう問題になっている社会でも、俺たちは、その保護下にすらもいないんだな、って思った。それ以来、お笑いを見なくなっちゃった。

 俺たちを侮蔑する言葉なんて、そこら中に転がってるんだって。

 


 本当に怖いんだ、何もかも。自分も、世界も。信用できるものなんて、世界にない気がして、また怖くなる。それの繰り返し。

 俺は自分がゲイだっていうのを今まで誰にも言ってこなかったけど、それでも、いつも周りに指をさされている気がしたんだ。それくらい、本気で悩んだ。生きているのがしんどくなって、そんな時、あったなあ。



 でも、まあ、そうだよな。うん、そうだよ、ははは。実際俺は自分で自分のことを、気持ちの悪いホモのクソ野郎なんだって、ずっと思って、ずっと悩んで、高校生活を、過ごしてきたから。みんながそう思ってしまうのも仕方ない、そう思うようにしてる。嘘じゃないよ、ほんとだよ。



 ……引退してから急に俺に声かけられてさ、驚いたろ。ごめんな、あの頃にはもうすでに、そうなってた。

俺にとって、お前に声をかけることは、本当に、心臓を握りつぶされるほど、勇気のいることだったんだな。あの日、コンビニ行ってソフトクリーム食った。俺はなぜか汗をだらだら流していたけど、実際、そんな暑い日じゃなかったよな。笑える話だな。瞬は、覚えてる?そっか、覚えててくれてたか。



 俺は迷っていた。ずっと、ずっと。自分が異性を愛せない人間だなんて、受け入れることができなかった。瞬に、俺が気持ち悪い同性愛者だなんて、バレるわけにはいかなかった。



 だから俺は、お前にとって、死ぬほど憧れるような格好良い先輩になってやろうって、そっちに切り替えたんだ。恋愛とかそういうのじゃなくて、もっと単純に、人としてとか、そっちの方向に。

恋と呼んでいいのか分からないよ。でも、俺は早い段階で、それを諦めた。お前には彼女がいたし、最初から望みなんてなかったから。



 でもね、俺は逆に、自分が男でよかったとさえ思っているんだ。だってもし俺が女として生まれてきていたら、彼女がいるお前に、近づくことすらできなかっただろうから……。

 美佳ちゃん、本当に素敵な子だな。初めて会ったあと、学校で美佳ちゃんに会って、メールアドレス交換して、色々話したんだよ。最初にメールした日だったかな、簡単に話して俺がそろそろ勉強しなきゃって言った後で「いつも瞬と仲良くしてくださって、本当にありがとうございます」って言ったんだ、あの子は。覚悟だよ。お前とこれからもずっと一緒にいるっていう、覚悟だよ。

 美佳ちゃん、お前のこと、めっちゃ好きだぞ。一生放しちゃ、駄目だから。傷つけるなよ、いいな。あの子と、結婚するんだぞ。俺が認めた、女の子だからな。きっと世界で一番、お前のこと幸せにしてくれるよ。だから、お前もあの子を、世界で一番幸せにしてあげなきゃ、駄目なんだよ……。



 お前と一緒にいるだけで、俺は幸せだったんだ、ずっと。

 俺が我慢さえすれば、瞬は俺を、慕ってくれていたんだから。



 完璧って言ってくれて、嬉しかった。だって、俺はお前に格好良いと思われたくて、ワックスつけたり、色々頑張っていたんだから。男が好きな男っていう感覚、瞬は理解できないかもしれないけれど、本質的には、実際何も変わらないんだよね。好きな人に良く思われたい気持ちって、みんな、一緒だから。



 最後にお前の心にでかい爆弾を投下して、逃げていくような卑怯者だけど、これが俺自身なんだ。完璧なんかじゃない。傷だらけで、ぼろぼろで、それに自分だけじゃなくて人も傷つける、最低な人間だよ。お前と一緒にいたくてお前を部活さぼらせたり、そんな身勝手な人間なんだ。

 だから瞬が俺に電話で怒ってくれた時、これでよかったと思ってた。ああ、これで嫌われることができた、これでもうあいつを傷つけることもないんだ、ってね。でも俺は身勝手だから、汚れてるから、昨日お前に会いに行ってしまったんだよ。誕生日プレゼントだって、受験の前に、もう買っちゃってたんだ、笑えるよな。



 本当に、ごめんな。俺が全部やったことは、瞬のためじゃなくて、全部、俺自身のためのことなんだ。そのせいでお前を巻き込んで、傷つけて……俺は色んな人を被害者にした。だから、逃げるんだ。九州に。最後まで、俺は卑怯者を貫くんだよ……。そんな、弱い男だから……。

 





 重い話になっちまったな。ははは。

 なあ、瞬、知ってるか?博多にはゲイバーとか、あるらしいぜ。俺はそこにでも逃げようかな、って思ってるんだ。どうせ俺の顔だったらゲイにもモテるだろうしな、ははは。おい、瞬、今の笑うところだぜ?俺って今までいろんな冗談言ってきたけど、これも全部、お前の笑った顔が大好きだったから、ってだけだったんだよ。気持ち悪いかな?ごめんな、最後だから、許してよ。



 俺はね、お前と自転車で通学するのも、一緒に飯を食うのも、本当になんだって幸せだったんだ。お前の笑顔が見たかったんだ、いつも……、ずっとそうだったんだよ、俺は。

 

 もっと早く、お前に声かけとけば、よかったなあ。

 時間って、一日って、一年って、めちゃくちゃ短いよな……。

 めちゃくちゃ、短いよ……。


 なんなんだよ、ほんとに。人生ってさ、なんなんだよ……。

 ほんとに、俺って、なんなんだろう……。

 




                       *






 広がる音。接近する未来。福岡行きの新幹線は、空気を轟かせ、風を切って到来する。それは真っ赤な椿の花にとまるミツバチのように、ためらうようにスピードを落としたあと、徐々にその胴体を世界の空間に預けていく。そして、風よりも早い文明の利器は、最初からそう決まっていた運命のように、決められたようにぴったりと停止した。

 俺は最後に、ワタルさんの表情を見ようとする。だが、そのときにはもうすでに、ワタルさんは歩き出していた。

「じゃあな、瞬」

 そして彼は、最後に一瞬だけ、振り返る。

 最後まで、頬のえくぼは、その形をはっきりと残していた。

 振り向いたワタルさんの目を、俺は見る。たった一瞬だけ。

 


 答えのない時間の中で、誰もが迷っていた。

 そこに留まることは、楽なことだから。それは、分かっていることだから。

 どこに行けばよいのか、わからないから。

 どこに行っても正解なんて無いのだとしたら、人は結局、そこに留まる方を選ぶ。

 目を瞑ると、すべて分かったような気になれた。

 ワタルさんは、俺に手を振る。最初から俺が来ることが分かっていたみたいに、一度だけ振り返る。

「じゃあな」

 それは、またな、ではなかった。



 かける言葉を見失ったまま、ワタルさんは新幹線の中に、呑み込まれていく。あの人なら振り返るだろうと思って窓の外からじっと見つめたが、そのまま人々の群れに呑み込まれて、そのまま消えた。

 風を切る文明の利器は。九州という、俺の知らない街へと消えていく。

 風より早いスピードで消えていく。

 俺はワタルさんのことを、気持ち悪い奴だなんて、思わない。

 卑怯だなんて、思わない。

 新幹線の、背中を見送る。錆びたレールの上を走り、トンネルの向こうに消えた。あっという間だった。



 エスカレーターを一人で降りた。歩く気にもなれず、流れのまま、ゆっくりと降りる。

 駐車場には、ワタルさんのお母さんの車があった。

 後部座席に乗り込むと、お母さんが一言。

「ワタルと、これからも仲良くしてあげてね」

 涙声だ。俺は、泣くわけにはいかなかった。

 お母さんはどんな気持ちで、旅立つ息子との最後の別れを、俺に預けたのだろうか。すべて、知っていたのだろうか。ワタルさんは、どこまで、誰に、言ったのだろうか。そう考えるだけで、俺の中の責任が、風船みたいに膨らんだ。いつ破裂するかな、と思っていたけど、唇をぎゅっと嚙みしめて、持ちこたえた。



 話すこともないまま、俺はワタルさんの人生について考える。

 俺は告白されたんだな。

 嬉しいとか、気持ち悪いとか、そんな感情ではない。


 ワタルさん流の言い方で言うならば、ワタルさんは、逃げようとしていた。

 だから、俺に黙って、消えようとした。

 最後にすべてを伝えてしまうことから、逃げようとした。

 伝えてしまうと、俺にもう二度と、会えなくなると思ったから。

「黙って行って、わるかったよ」

 夏休みなんかに帰省して、俺に会いに来るワタルさんなら、俺に向かってそう言ったと思う。そういう未来に、したかったんだと思う。半袖シャツを着て、少し焼けたワタルさん。俺は俺で、男の友情って絶対に変わらないよな、そんなことを、思っていただろう。

 


 同性愛者に対して、俺は偏見なんてものは抱かない。ワタルさんがいなかったら、ワタルさんじゃなかったら、もしかすると考えることすらなかった命題だったかもしれない。

 俺は同性愛者じゃない。だから、こう言ってしまうことは、無責任なのかもしれない。ワタルさんが言ったように、普通に異性を好きになる俺たちが、同性愛について考えることは、余計なお世話なのかもしれない。

 それでも俺は、否定しない。

 なぜなら、ワタルさんが、そうだからだ。

 

 俺の中のワタルさん。何があっても、俺がワタルさんに貰ったものの美しさは、今後も変わることはない。

 共に過ごした短い時間は、俺の中で、きっと人生の一部として、今後も機能し、生き続ける。

 

 俺は学んだ。それは、未来は、現在は、決して過去には届かないということだ。どんなに絶望的な未来が待っていたとしても、かつてそこに輝いていたものは、絶対に消えることなんてないということだ。

 未来は、現在は、過去に対して、傷一つつけることができない。

 美しかった思い出は、美しいまま、いつまでも心の中に残り続けるということだ。

 

 歳の離れた弟の頭を優しく撫でるような、そんな暖かい優しさを、俺に与えてくれた。真っ直ぐに気持ちを伝えることが許されないから、ワタルさんは、その気持ちをちょっと変えて、俺に与えた。俺はあの人の葛藤の、一番近くにいた。隣でクールにたたずんでいたあの人の中では、いつも渦が巻いていた。


 もがいて、葛藤して、諦めて、それでも前に進むことを選んだ。


 ワタルさんの生き様は、泥臭く、美しかった。

 俺はそう、断言することができる。



                       *

   


 その後、順調に時は流れた。

 俺はサッカー部を引退した。入学してきた新一年生にレギュラーを奪われ、俺が試合に出ることが出来たのは後半のロスタイムの二分間だけだった。

 瞳さんも、試合を見に来てくれた。東京の私立に受かって、ロシア語を勉強しているらしい。

 与えられた、二分間。俺はせめてダイビングヘッドでも決めてやろうと思っていたが、俺はその間、一度もボールに触れることができなかった。

 私立に負けるのは当たり前だと言っていた遠藤は、大泣きした。五点差をつけられ、こっちはノーゴールの惜しくもなんともない試合だったのに、遠藤は大泣きした。

「俺、大学でも、サッカー続けるよ」

 遠藤は言った。



 受験勉強も頑張った。美佳と共に勉強し、ワタルさんが通っていた塾に通った。機械的に偏差値を上げ、美佳の両親に、大学生になったら同棲させてくれと土下座をした。

「潔くて良い」

 美佳のお父さんは、あっさりと、美佳との同棲を許可した。俺たちは勉強して、勉強して勉強して、東京の大学に二人そろって進学した。上京して、二人でアパートを借りて住んだ。

「これって、覚悟だよね」

 初めて部屋を見た時、美佳が言った。

 



 大学生になっても俺は、浮気を一度もしたことがない。三人の女の子に告白されたけど、迷うことはない。

 何人と付き合ったとか、何人とセックスしたとか、どうでもいい。

 失われていく時間、その時間の中で、同じ人間を、どれだけ愛せるかということじゃないか。

 それに、あの人に言われたから。

 きちんと日が回るまでに、毎日家に帰った。




 大学生という四年間を超え、その間に俺たちは二十歳にもなった。きちんと四年で卒業して、初任給も貰い、税金の多さに驚愕し、自分たちが世界を回していることに、気づき始めた。




 ワタルさんも、この世界のどこかで、俺たちと同じだけ、歳を取ったはずだ。

 世界を、回しているはずだ。

 どこに、いるのだろう。



 あの人は、どこにいるのだろう。



                       *



「……これがあの人の、恋愛観らしいよ」

「……へえ」

 美佳は学生の時より少しふっくらしたあごに右手を添えて、しばらく考えていた。

「だから瞬は、食パン食べてる最中にプロポーズしちゃうような、変な人になっちゃったんだね。影響されて」

「だって恋愛って、大富豪だからな」

「ほんと、笑える。あのプロポーズ、カードで言ったら3だよね」

「うるさい」

 ははは、と、俺は笑って見せた。きっと俺だけしか知らない、ワタルさんの笑い声。ワタルさんは最後の 最後まで冗談を言って、俺を笑わせようとした。

 しばらく笑っていた美佳も、口を開く。

「ところでワタルさん、女子の間で、ホモじゃないかって言われてたの、知ってた?」

 どき、とした。引き出しにしまってあったチューハイが親に見つかった時と、同じような気持ちになる。「あんたもそんな歳になったんやな」言い訳を考えながら焦っていた俺に、母親はそう言った。

「ホモって、差別用語なんだぜ」

「へえ」

「ゲイって言わなきゃ、駄目なんだよ」

 ワタルさんは自分のことをきちんと、ゲイと言った。

「まあでも、瞳さんと付き合ったくらいだし、それはないのかもね」

「そうだよ、うん。そうだよ」

「ワタルさんがもしホモだとしたら、好きだったのは瞬のことだったのかもしれないね」

「どうだろう」

「みーんな、噂してたよ」

「まじか」

 表情が強張る。何年も前の出来事で、今さら、なんてことはない。ワタルさんがゲイだったとばれても特に困らないはずなのに、俺は今でも、あの人のことを庇っていた。

「そういえばさ」

 美佳は言う。

「ワタルさん、結婚式、呼ぼうよ」

 なんとなく、自分から言い出すのを、避けていた言葉だった。

どうしてワタルさんと会わないの?上京してからずっと美佳に言い続けられて、そのたび誤魔化してきた。

 二十歳になったら連絡するって、俺が言ったのに。

 そろそろ、じゃないだろうか。

 いや、遅すぎた。

 俺は笑う。

 きっと、感動の再会とか、大袈裟すぎるくらいのきっかけを、俺は、待っていたんじゃないだろうか。

 だから、ずっと連絡しなかったんだ。

 そうじゃないんだ。

 俺は言う。真面目な表情で。

「結婚式なあ。それ、俺も考えていたんだよね」

「もう何年、連絡取ってないの」

「何年だろう」

「電話番号、あるの?」

「あの人が機種変更とかしてなかったら、だけどね」

「ねえ、電話かけてみようよ」

「かけてみるか」




 あの日と同じだ。

 俺は不思議と、緊張をしていない。

 違和感?

 ワタルさんの勇気に比べたら、電話することなんて、なんてことはないだろう。




 何年経っても、変わらないものがある。

 記憶。俺の場合、短い時間の中だからこそ、それはむしろ凝縮され、輝いた。

 メモ帳一ページの伝記でも良い。その中に、俺にとって本当に大切だった時間が、全部詰まっているから。

 暑かった記憶。大切な恋人。親友であり憧れの人であり、俺のことを愛してくれていた、そんな人。

 自分の人生を泥臭く、生きようとした人。




 人生とは、一本の線である。

 俺がたった今、考えた人生論だ。

 真っ白な画用紙。それは世界だ。

 人々は、画用紙の上に、自分の線を引く。好きな人の線に合わせて、ときどき弧を描き、時には直角に曲がりながら、それでも線を引く。

 人生を、誰かと共に歩こうとする。

 誰かの線が逸れたら、自分もそっちに、逸れればいい。

 画用紙は今日も、世界中の人々の黒い線で、宇宙のように、真っ黒に塗りつぶされている。星も月も太陽もない殴り書きの世界で、誰かと夢を見ようとする。誰かの夢を見ようとする。

 これが俺の、人生論だ。

 




 俺は電話を掛ける。二十歳になったら酒を飲もう、そう約束してから八年が経った。

 電話帳の名前。消さずにいたのは、この日のためかもしれない。

 俺はずっと、会いたかったのだ。

 ワタルさんが認めた女は、俺のことを愛してくれる人で、初めての相手で、結婚する相手で、ワタルさんの夢を奪った、宿敵でもある。

 美佳ちゃんは良い子だね、それでもあれは紛れもない、本心だった。皮肉でも、なんでもない。

 ケータイを耳に当てる。美佳は顔を寄せて、俺の方を見ている。

 第一声は、どんな言葉がふさわしいのだろうか。

 俺は美佳と、ワタルさんと、ずっと一緒に、いたい。

 だから、俺は線を曲げる。



「久しぶりっすね」

 俺は3のカードの回答を用意しておく。これは恋愛じゃないけれど、人生も恋愛も大富豪に似ていて、そして、どこか泥臭い。

 そもそも、恋愛とは、あの時の俺たちの人生そのものであった。



 電話は、繋がる。生きている。

 コールが鳴る。コールが鳴る。

「出ない?」

 美佳が言った。

「いや、出るよ、あの人なら」

 俺は言った。



 世界に風が吹く。昨日とは違う、今日の風だ。

 風が彼の背中を押す。彼は、振り返る。俺の名前を呼ぶ声。

「久しぶりっすね」

 用意しておいた言葉、俺の声は、感動的なほど、大きく裏返るだろう。そんな、気がする。




僕自身は作中の主人公の瞬と同じように、同性愛者ではありません。


今の時代、BLや女性同士の恋愛が非常に美化された漫画や小説、アニメなどが目立ちます。そして、そのような作品は、登場人物たちの、自らが同性愛者であることについての悩み、葛藤などが描かれないまま、美しい物語として完結することが多いです。


僕は違うスポットの当て方をしてみようと思いました。物語の世界をできるだけ現実に近づけ、そこに登場する同性愛者の心に、出来るだけ寄り添ってみようと考えたのです(それが満足にできたのかどうかは作者である私自身には分からないところではありますが)。



作品の中にある通り、同性愛者でもない私が、同性愛がどうとか、どうあるべきかどか、とやかく語ることは、当の本人からすればただの迷惑なのかもしれません。僕には、彼らの気持ちは一生分からないのかもしれない。


それでも、僕は言いたい。僕は彼らに理解を示します。誰かを好きになることを否定されるのは、とてもつらく、寂しいことだと思うから。




初投稿なので、この小説がどこまで人に読んでいただくことができるのか、予想すらできない状況でこの後書きを書いています。この作品が少しでも、読んでいただけた人の心に残るものであったなら、僕は幸せです。

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