魔法使いマルクレーン
森の中は暖かく、眩しかった。光に濡れた緑の葉が、エレナを出迎える。
いつものように道に迷い、やっとのことで屋敷のある空地へと出た。
駈け出そうとしたエレナは、思わず足を止めた。
その光景は、いつもと同じはずなのに、なんだか違っていたのだ。
すべてが殺気立っている。
――――おかしいな、どうしたんだろう。
ただならぬものを感じて屋敷に向かう。そこで、エレナはぞっとした。
門の前に血で出来たしみがあったのだ。その上、いつも閉じたままの門が開け放たれていた。
嫌な予感がして、庭に駆け込む。
魔法使いに会ってしまうかもしれないが、今はそれよりも、あの子がどこにいるのか確認したかった。
「クリス! クリス!!」
名前を呼ぶが、返事がない。
きっともう連れていかれてしまったのだ。
何も不思議ではない。ダリウスは明日迎えに行くと言ったのだから。けれどそれは、魔法使いと話し合った上でのはずだ。
なぜ、こんなにも草花がへし折られているのだろう。
エレナは全身が恐怖で覆われていくのを感じた。
怖い。
辺りは水を打ったように静かで、物音ひとつしない。
クリスはおろか、人の気配すらなかった。心臓の拍動する音だけが、身に染みて伝わって来る。
恐怖のあまり、抑えていたものが溢れ出していく。感情は小さな体から満ち溢れ、触れた草花に襲い掛かった。
優しげに香るラベンダーも、大輪のベゴニアも、彼女の感情に蝕まれ、項垂れて行く。
次々と葉を掻き分け、枯らしながら、エレナは叫んだ。
「クリス!! どこにいるの!? クリス!!」
庭中を駆け回った。いるはずもないのに、くまなく探し回った。
小さな指先が触れるたび、カスミソウが、イヌノフグリが、アリッサムが、次々と萎れて花びらを落とす。
そうしてエレナは、庭中の花を枯らしてしまった。
茶色い枯草の山となった庭に、一人、茫然と立ちすくむ。
花々は悲しげに折り重なり、風に吹かれて嘆くように身を震わせた。
墓場のような庭に、沈黙を続ける屋敷。
家の主はどこにもいない。
胸を抑えて俯くと、血が点々と地面についているのに気付いた。
エレナはゆっくりと、思い出していた。
少年は、居てはいけない存在だと言われていた。
危険だから、ここに閉じ込められていると。
昔、リーラの屋敷に住む、子どもの一人が言っていた。
――――大人はすぐに嘘をつく。
――――俺達を簡単に騙せると思ってるんだ。
ダリウスは、息子を探していたのではないかもしれない。
協力が頼めるよう、適当な嘘をついたのであって。
もしかしたら、殺すべき子どもを探していたのかもしれないのだ。
エレナの心臓は張り裂けそうになった。
叫ぶこともできず、血のしみを食い入るように見つめる。
落ち着け、と働かない頭に言い聞かせる。
落ち着くんだ。今はこの血をたどるしかない。
一歩一歩、ただ足を動かす。
花を枯らしたことを気に留める余裕もなかった。
血を辿っていくと、それは屋敷の前から始まり、庭の外まで続いていた。開いたままの門を抜け、屋敷のある空地も越えて、森の中へ向かっていく。
エレナは一つ息を吐くと、全速力で走り出した。開け放たれた鉄格子は、もう魔法の力が消えたように、黒くさびついているだけだ。その間を通り抜け、血のしみを見つめながら、生い茂る緑の森へ入っていく。
森は金の光がいくつも差し込んで、大層美しかった。いつもと変わらない風景だからこそ、エレナは怖くてたまらない。
息を切らしながら進んでいると、不意に誰かの声が聞こえて来た。はっとして木陰に身を隠す。辺りの様子を伺えば、木々の隙間から二人の男の姿が見えた。
片方は朝焼け色のローブを着た魔法使いで、その向こう側に漆黒の外套を纏ったダリウスが立っていた。血のしみは魔法使いの背中から流れたものだ。彼の足下に血だまりが出来ているのを見て、エレナは息を呑む。
「しつこい奴だ。その体でまだ追ってくる気か」
「ああ、どこまでも追ってやる。あの子を返せ……っ」
魔法使いが叫ぶたびに、血がぽたぽたと流れ落ちた。その目は恐ろしいほど見開かれていたが、ダリウスはびくりともせず、血だまりをつまらなそうに眺めるだけだ。
その人間離れした様子に、エレナはぞっとして木の幹を握りしめた。
何かがおかしい。ただ一つ分かるのは、自分は騙されたということだけだ。
ダリウスが嘲笑するように目を細める。
「言っておくが、あの子はもう馬車に乗せてある。私も後から乗り込むが、お前はその前に死ぬだろう」
「ふざけるな、私から何度奪えば気がすむと言うのだ。妻も、クリスも、お前のせいでどんなに苦しんだか」
「マルクレーン、クリスは私の物だ。闇に生まれた者は皆そう。第一、先に奪ったのはお前だろう? 私はただ、取り返しただけだ」
魔法使いは歯を食いしばった。砕けてしまうのではないかと、エレナが心配になるほど。
彼の足はふらつき始め、それでも気丈に立っていた。
「クリスを、返せ」
「馬鹿な魔法使いだ。私がなぜ一人、ここに残ったか分かっているのか?」
ダリウスが残酷な笑みを浮かべ、片手を持ち上げた。その手は、銀色に光っている。今まで見た魔法と、比べものにならないほど強い光だった。
――――助けなきゃ!
今では、どちらがクリスの味方か分かっていた。
エレナは地面を蹴って、魔法使いの前に飛び出す。
ダリウスが手を掲げたまま、訝しげにこちらを見た。
「お前は……」
その手は未だ、銀色に光っている。後ろで魔法使いが身じろぎしたのが分かった。
「や、やめて」
大声で叫んだつもりだった。けれど、実際に出たのは間の抜けたような声だ。
底冷えのする目に、心臓を射抜かれるような気分がした。あまりの怖さに、いつの間にか体が震えている。
目の前の男は、恐ろしい気迫を放っていた。今まで感じていた違和感は確信的なものに変わり、この男は人間ではないのだと、本能で感じた。
「何の真似だ。お前にはもう対価を払ったろう」
地の底から這いだしたような声。そのまま体ごと握りつぶされてしまうのではないかとエレナは身を縮めた。それでもからからになった喉で、つっかえるように言葉を放つ。
「わ、わたしを騙したんでしょ。クリスを、どこに連れて行くの? 助けてくれるって、言ったのに」
「邪魔だ、どけ。私はそいつに始末をつける」
「いや。ちゃんと、説明してよ」
ダリウスの目が鋭く光った。
「どかないなら、お前ごと消すまでだ」
射殺すような視線に、底知れない恐怖が湧き上がる。
魔法使いが叫んだ。
「やめろっ!」
視界が銀の光に包まれる。
けれど、その光を朝焼け色が遮った。ローブに覆われ、エレナは目を見開く。
魔法使いが自分を抱きしめ、ダリウスに背を向けたのだ。
抱きしめられたなんて、初めてかもしれない。
その温かさに、なぜか懐かしさを覚えた。
昨日まで怖い人だと思っていたのに、どういうわけだろう。
「がはっ」
魔法使いの口から、血が溢れる。
こんな時なのに、光を背に受けた彼は神々しく見えた。
エレナは揺れる瞳で魔法使いを見つめた。夢の中にいるような心地で、それでも悲しくてたまらなかった。
「悪い、な」
魔法使いは眉根を寄せた。
「巻き込みたく……なかったんだ。クリスも、お前も」
彼の瞳は綺麗だった。なぜか泣きたくなるくらい、優しかった。
「あの庭を造ったのは、守るため、だったんだ。間違って……いたのかなあ」
エレナは唇を噛んだ。
「ごめんなさい。こんなことになったの、わたしが騙されたせいだわ」
銀色の光の中、魔法使いはまっすぐにこちらを見つめた。
「いいや、私が閉じ込めなければ、こうはならなかったろう。教えてくれ、どうすれば良かったのか。あの庭はもう、役目を果たすことはできないのか」
食い入るような目だ。
苦しげに吐き出される問いに、なんとか答えようとしたが言葉が出て来ない。代わりに、彼の瞳を強く見つめ返した。
「お前……」
不意に、彼の腕の力が強くなった。
「その目、まさか……ル……ゼの……っ」
それ以上続かなかった。魔法使いは懸命に口を開いたが、そこから溢れるのは言葉ではなく、真っ赤な血だけだ。
エレナが身を縮こませると、彼は安心させるように微笑んだ。最後の力を振り絞るようにして、ひどく温かな目で。
そのままぐらりと揺れ、次の瞬間、地面に倒れ伏した。
「っ……」
男はもう、動かなかった。エレナは茫然と立ち尽くす。はっとしてダリウスの方を見たが、そこには誰もいなかった。
風が吹き抜けていく。まるで、何事もなかったかのように、静かに葉を揺らしていった。
ダリウスは影も形もなくなってしまった。クリスと共に、消えたのだ。
けれどエレナは諦めきれなかった。懸命に辺りを見回すうちに、とうとう見つけ出した。
少し離れた場所から、車輪の跡が地面をえぐり、くっきりと木立の奥へ続いているのを。
エレナは小さく息をついて、魔法使いを見下ろした。
「……あなたは、本当は誰だったの?」
彼はもう、答える気配もない。その傍にしゃがみこんで、エレナはそっと覗き込んだ。
今はこの事実に恐れる余裕も、涙する余裕もない。
だからただ、そっと話しかけた。
「クリスを閉じ込めるのは、確かに間違っていた気がする。でもあの庭は、守るために作ったんでしょ? その思いは無駄にしないわ。――――時間はかかるかもしれないけど、必ず彼を探し出してみせる」
そう言うと立ち上がった。車輪の跡を強く見つめ、歩き出す。
クリスを取り返すまでは戻らない。そう決心して。




