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ハルシュトラールの夜の果て  作者: 星乃晴香
第八章 流れ星が照らすもの
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物語のはじまり



 遠い東の空が、うっすらと白んでいる。

 辺りはまだ薄暗く、空の向こうから、かすかな光が差し込んでいる。


 城の裏口の扉が、おもむろに開かれる。

 中から出て来た男は、慎重に辺りを見回すと、音を立てないよう、そっと扉を閉めた。


 早朝の空気はすがすがしい。冷たくひんやりとしていて、どこか懐かしさを覚える。

 城はまだ眠りについたままで、あたりはひどく静かだ。

 時折聞こえる足音は、朝が早い馬屋番のものだろうか。人の話し声はなく、今なら誰にも気付かれずに出発できそうだった。


 風が吹くたび、辺りの木が揺れ、葉をこすれさせる音がやけに響いた。

 城の一角に立ち並ぶ木立。それは森へ、やがては大陸の各地へつながっている。

 行く当てなどない。どこへだって行けるのだ。

 幾年ぶりかの感覚が不思議で、けれど戸惑うこともなかった。

 通いなれた地を踏みしめ、男は音もなく歩き出す。

 その背に簡素な荷物を抱え、人目を(はばか)るようにして。


 もうここには戻ってこないだろう。

 小さく息をつくと、それは冷たい空気に溶けて行った。



「どこへ行くの?」

 怒ったような声が、静かな空気に響き渡る。

 男がはっとして足を止めれば、目の前に金髪の娘が立っていた。

 急いで着替えたのか、白いドレスは薄手の物で、風邪を引きやしないかと男は少し心配になった。

 彼女は木に寄り掛かるようにして、腕を組んだままこちらを睨んでいる。


 その鋭い瞳に、ロレンツォは苦笑を漏らした。

「これは女王陛下。あなたこそどうやって抜け出して来たんです?」

「私のことなんてどうでもいいわ。あなたがどこへ行くのかって聞いてるの」

 その声は、明らかに怒りを含んでいる。

「私に黙って出て行こうなんて、どうかしてるわ。エレナの次はあなた? 私が許すとでも思っている訳?」

「それではお言葉ですが、僕が諦めると思っているんですか」

 そう言うと、シルヴィアの顔が僅かに歪んだ。

「私はこの国の女王よ。命令一つで、あなたを引き留めることだってできるわ」

「あなたはお優しい方だ。エレナの時も最初はそんなことを言って、結局彼女を送り出したのでしょう」

 その言葉に、シルヴィアはぐっと押し黙る。

「ほら、図星だ。僕もそろそろ、行かせて頂いてもいいですか?」

 これ以上一緒にいると、余計なことを言ってしまいそうな気がした。男は早く、城から離れたかったのだ。


 目を伏せたシルヴィアは、急に静かな声になった。

「……なぜ、そんなに出て行きたいの」

 男は肩を竦める。

「以前言ったと思いますが。僕は元の生活に戻りたいんです。好きな時に好きなところへ行き、やりたいことをやる。――言うほど簡単なことじゃないのは身を以て知っています。崖崩れで死にかけましたしね。……でもきっと、僕にはこれがあってる」

 それは真実だったが、すべてではなかった。

 城を出たい理由は他にもある。けれどそれは、口に出してはならないものだ。


 シルヴィアは理解できないというようにロレンツォを見た。

「どうしてわざわざそんなことをするの? 城にはなんでもあるわ。食べ物だって寝床だって、全部用意してあげられるのに」

「僕の欲しいのは自由です」

 言いながら、愛おしそうに女王を見つめた。

「他に欲しいものなど、ありません」


 男は知っていた。

 彼女がよく、自分に手を伸ばしてくれることを。

 とっくの昔から知っていた。

 その手をとっても幸せにしてやれないことを。


 彼女の幸せこそが、男の望みだった。


「僕はあなたの物語を、世界中に広めます」


 金の女王が、荒れ狂う魔物を弓矢で射抜いた。そればかりではなく、幾百年にも続く、憎しみの歴史を終わらせた。

 魔法を持つ者を許し、手を差し伸べたのだ。

 「(ミッド)」と「(ノヴル)」の架け橋となり、ハルシュトラールの新たな歴史を築いた女王。

 例え真実と違っていたとしても、身勝手な自分はそれを広めたかった。


「人々は、あなたを愛すことでしょう」


 わがままで、寂しがり屋の少女。

 言葉に出さずとも、いつだって人の温もりを欲しがっていた。

 誰かが彼女の傍にいなくてはならないのだ。

 けれど自分は、これ以上いられない。

 英雄になった彼女は、どんどん遠のいていくのに、どうして傍で眺め続けられるだろう。


「ロレンツォ、また何か難しいことを考えているのね。そんなことはいいから、ここにいてちょうだい。――エレナだってもう、出て行ってしまったのよ」

 食い入るような目の女王に、男は優しく微笑みかける。

「あなたは立派に成長なされた。僕はもう必要ないはずです。あなたもいつか、他に大切な人を見つけるでしょう」

 その言葉を聞き、シルヴィアは唇をわななかせた。

「そうよね。あなたは私のことなんて、何とも思ってないものね」

 必死に拳を握りしめ、泣きそうな瞳で言う。

「結局私はあなたにとって、ただの仕事相手でしかなかったんだわ。どうせ出て行った後、私の事なんてすぐに忘れるんでしょう!」

「忘れる訳がないでしょう」

 うまく返したつもりが、声が掠れてしまう。

「本気でそう思ってるんですか? どうして――」

シルヴィアがハッと顔をあげて、濡れた瞳でこちらを見つめた。

「ロレンツォ?」



 名を呼ばれて、男は我に返った。

 言ってはいけない想いを、口にしてしまうところだった。


「申し訳ありません。言葉が過ぎました」

 頭を下げると、静かに荷物を持ち直した。

「もう行きますね。陛下もお元気で」


「ひどいわ!」

 シルヴィアが叫んだ。

「どうしてこんなことができるの!? 私の気持ちを知っているくせに!」

 僕がひどいならあなたも同じだ。そう言いたいのを我慢して、男は歩みを続ける。

 その背に、なおも言葉が飛んでくる。

「あなたを愛してるのよ! これだけ言っても分からないの!?」

 息をつき、男は振り返った。

「言ったでしょう、あなたに僕を捕まえることはできない」


 確かに自由が欲しかった。

 本当はもう、とっくに彼女に捕らわれているのだ。

 だからこそ、彼女から自由になりたかった。

 そうして彼女を、自由にしてあげたかった。


「あなたには幸せでいてもらわなくちゃ、国王陛下に顔向けができません」

 ただの願いをねじまげ、無理矢理に建前で塗りつぶす。

「――ほら、日が昇ってきてしまいましたよ。部屋に戻らないと、召使いたちが心配します」


 その言葉通り、城の方からはざわめきが聞こえて来た。シルヴィアを探す高い声。あれはきっと、侍女のリタだ。


 女王は動かない。悲しげにこちらを眺めるだけだ。

 男はおもむろに手を伸ばし、彼女の手を取った。そうでもしなければ、自分もここから動けなくなってしまうと思ったのだ。

 彼の瞳は様々な感情を押し隠し、ただシルヴィアだけを見つめた。

「女王陛下、別れの挨拶を――御手に口づけすることを、お許し下さいますか?」

 シルヴィアは食い入るように男を見つめた。青い瞳はかすかに揺れ、やがて静かに細められた。

「許すわ」

 男は音もなくかがみこんだ。女王は黙ってそれを見下ろす。

 白くしなやかな手に、男は一つ口づけを落とす。

 そうして静かに顔をあげた。

「どうかお元気で。……美しい方」

 そっと離された手を、青い瞳が追いかけた。



 城の騒ぎに乗ずるように、何かがこちらへやって来る。緑の翼をはためかせ、小さな竜が飛んできた。

 いち早く女王を探しに来たのだ。立ち尽くしていたシルヴィアは、竜を見つけて小さく息を吐いた。


 男はどこかほっとしたように、目を細めて微笑んだ。

「……この国には、あなたを守ろうとする者がたくさんいる。僕はもう、役目を終えたんです。長らくお世話になりました」

 少し朗らかにそう言うと、いつものように丁寧に一礼した。

「あなたに会えて良かった。……失礼します」


 シルヴィアは瞳を揺らし、一心に叫んだ。

「お願い、待って!」

 本当に、本当にこれで最後なのか。

 彼女の想いが、突き刺さるように伝わって来る。何か止める手立てはないのか。未だに現実が呑みこめないと。

 男は振り向こうともせず、歩き出した。木立の向こうでは、昇ったばかりの朝日が輝いている。


 早く行かなければ。決心が揺らがないうちに。


「なんでもあげるわ。私の持つすべてをあげる! だから、行かないで!」

 その声を振り切るように、男はただ足を進める。

 シルヴィアが喉をつまらせ、その後ろ姿を見つめた。

 そうして不意に、静かな声で言った。


「……ねえ、ロレンツォ」

 呟くように。引き留めるように。

「もし、身分が違っても結婚できるような国を作ったら、あなたは戻ってきてくれる?」

 男は立ち止まった。

 そんなものは実現できるはずがない。


 いいや、実現してしまった子がいた。

 誰もが無理だと思ったことを、その少女はやり遂げてしまった。一人ぼっちだった王女を、国中に慕われる女王へと変えたのだ。

 ならば、すべてを最初から諦めるのは間違っているのかもしれない。


「それは、とんだ夢物語ですね」

 彼方の朝日を眺めながら、ふと笑みが浮かんだ。

「でも、そんな国があったら見てみたいものだ」


 後ろから、息を呑む声が聞こえた。

 そんな彼女をよそに、男は静かに告げた。

「さようなら、女王陛下」

 今度こそ背を向け、まっすぐに歩いて行く。


 突然、シルヴィアが声を張り上げた。

「私、絶対にあなたを振り向かせて見せる!」

 辺りに響くのも(はばか)らず、男に届くように、あらん限りの声で叫んだ。

「絶対に、この国を変えてみせるわ!!」


 男は足を止めなかった。

 それでもいつの間にか、その瞳は輝いていた。


 シルヴィアの言ったことが、突拍子もないものだとは分かっている。

 だから、現実になるなんて簡単には信じられない。

 それでも、未来に明るい光が差した気がした。


――――ああ、僕は世界中を巡ろう。


 彼女が言ったことが実現しなくても構わない。

 ただ、彼女のために動けることが幸せだった。


――――出会う人ごとに、女王の物語を話して聞かせよう。


 寂しがり屋の彼女に、一人でも多くの人が寄り添うように。

 自分が傍にいることになっても、そうでなくとも。

 彼女が欲しがっていた愛を、その腕いっぱいに得られるように。


――――そうだ、あの子の行方も探そう。


 もし城に戻ることがあるなら、束の間に終わっても、シルヴィアを永遠に喜ばせられる、そんな土産話を持って行きたい。

 飴色の髪の少女は、どこかで無事に暮らしている。

 そんな事実を、シルヴィアだけでなく自分も、心のどこかで知りたいと思っているのだ。




 最初から最後まで、一人の少年を追い続けた少女。

 あの子は、どこへ行ったのだろう。


 彼女はあれで、幸せだったのだろうか。





 昇りきった朝日はいよいよ輝き、辺りを一斉に照らした。

 陽射しを浴びる城を背に、男は木立の中を進む。

 数えきれぬ木の葉は煌めき、風に吹かれては、笑い声をあげるようにさざ波を立てた。

 幾つもの陽射しが差し込み、見つめる先は眩いばかりだ。


 遮る物のない景色に、男は目を細める。

 木立の向こうは光で溢れ、道なき道を照らしていた。



 男は歩く。

 行く当てもなく、それでも道の先を見据えて。



 その後、彼はおろか、誰一人として、消えた少女の行方を知る者はいなかった。





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