物語のはじまり
遠い東の空が、うっすらと白んでいる。
辺りはまだ薄暗く、空の向こうから、かすかな光が差し込んでいる。
城の裏口の扉が、おもむろに開かれる。
中から出て来た男は、慎重に辺りを見回すと、音を立てないよう、そっと扉を閉めた。
早朝の空気はすがすがしい。冷たくひんやりとしていて、どこか懐かしさを覚える。
城はまだ眠りについたままで、あたりはひどく静かだ。
時折聞こえる足音は、朝が早い馬屋番のものだろうか。人の話し声はなく、今なら誰にも気付かれずに出発できそうだった。
風が吹くたび、辺りの木が揺れ、葉をこすれさせる音がやけに響いた。
城の一角に立ち並ぶ木立。それは森へ、やがては大陸の各地へつながっている。
行く当てなどない。どこへだって行けるのだ。
幾年ぶりかの感覚が不思議で、けれど戸惑うこともなかった。
通いなれた地を踏みしめ、男は音もなく歩き出す。
その背に簡素な荷物を抱え、人目を憚るようにして。
もうここには戻ってこないだろう。
小さく息をつくと、それは冷たい空気に溶けて行った。
「どこへ行くの?」
怒ったような声が、静かな空気に響き渡る。
男がはっとして足を止めれば、目の前に金髪の娘が立っていた。
急いで着替えたのか、白いドレスは薄手の物で、風邪を引きやしないかと男は少し心配になった。
彼女は木に寄り掛かるようにして、腕を組んだままこちらを睨んでいる。
その鋭い瞳に、ロレンツォは苦笑を漏らした。
「これは女王陛下。あなたこそどうやって抜け出して来たんです?」
「私のことなんてどうでもいいわ。あなたがどこへ行くのかって聞いてるの」
その声は、明らかに怒りを含んでいる。
「私に黙って出て行こうなんて、どうかしてるわ。エレナの次はあなた? 私が許すとでも思っている訳?」
「それではお言葉ですが、僕が諦めると思っているんですか」
そう言うと、シルヴィアの顔が僅かに歪んだ。
「私はこの国の女王よ。命令一つで、あなたを引き留めることだってできるわ」
「あなたはお優しい方だ。エレナの時も最初はそんなことを言って、結局彼女を送り出したのでしょう」
その言葉に、シルヴィアはぐっと押し黙る。
「ほら、図星だ。僕もそろそろ、行かせて頂いてもいいですか?」
これ以上一緒にいると、余計なことを言ってしまいそうな気がした。男は早く、城から離れたかったのだ。
目を伏せたシルヴィアは、急に静かな声になった。
「……なぜ、そんなに出て行きたいの」
男は肩を竦める。
「以前言ったと思いますが。僕は元の生活に戻りたいんです。好きな時に好きなところへ行き、やりたいことをやる。――言うほど簡単なことじゃないのは身を以て知っています。崖崩れで死にかけましたしね。……でもきっと、僕にはこれがあってる」
それは真実だったが、すべてではなかった。
城を出たい理由は他にもある。けれどそれは、口に出してはならないものだ。
シルヴィアは理解できないというようにロレンツォを見た。
「どうしてわざわざそんなことをするの? 城にはなんでもあるわ。食べ物だって寝床だって、全部用意してあげられるのに」
「僕の欲しいのは自由です」
言いながら、愛おしそうに女王を見つめた。
「他に欲しいものなど、ありません」
男は知っていた。
彼女がよく、自分に手を伸ばしてくれることを。
とっくの昔から知っていた。
その手をとっても幸せにしてやれないことを。
彼女の幸せこそが、男の望みだった。
「僕はあなたの物語を、世界中に広めます」
金の女王が、荒れ狂う魔物を弓矢で射抜いた。そればかりではなく、幾百年にも続く、憎しみの歴史を終わらせた。
魔法を持つ者を許し、手を差し伸べたのだ。
「人」と「魔」の架け橋となり、ハルシュトラールの新たな歴史を築いた女王。
例え真実と違っていたとしても、身勝手な自分はそれを広めたかった。
「人々は、あなたを愛すことでしょう」
わがままで、寂しがり屋の少女。
言葉に出さずとも、いつだって人の温もりを欲しがっていた。
誰かが彼女の傍にいなくてはならないのだ。
けれど自分は、これ以上いられない。
英雄になった彼女は、どんどん遠のいていくのに、どうして傍で眺め続けられるだろう。
「ロレンツォ、また何か難しいことを考えているのね。そんなことはいいから、ここにいてちょうだい。――エレナだってもう、出て行ってしまったのよ」
食い入るような目の女王に、男は優しく微笑みかける。
「あなたは立派に成長なされた。僕はもう必要ないはずです。あなたもいつか、他に大切な人を見つけるでしょう」
その言葉を聞き、シルヴィアは唇をわななかせた。
「そうよね。あなたは私のことなんて、何とも思ってないものね」
必死に拳を握りしめ、泣きそうな瞳で言う。
「結局私はあなたにとって、ただの仕事相手でしかなかったんだわ。どうせ出て行った後、私の事なんてすぐに忘れるんでしょう!」
「忘れる訳がないでしょう」
うまく返したつもりが、声が掠れてしまう。
「本気でそう思ってるんですか? どうして――」
シルヴィアがハッと顔をあげて、濡れた瞳でこちらを見つめた。
「ロレンツォ?」
名を呼ばれて、男は我に返った。
言ってはいけない想いを、口にしてしまうところだった。
「申し訳ありません。言葉が過ぎました」
頭を下げると、静かに荷物を持ち直した。
「もう行きますね。陛下もお元気で」
「ひどいわ!」
シルヴィアが叫んだ。
「どうしてこんなことができるの!? 私の気持ちを知っているくせに!」
僕がひどいならあなたも同じだ。そう言いたいのを我慢して、男は歩みを続ける。
その背に、なおも言葉が飛んでくる。
「あなたを愛してるのよ! これだけ言っても分からないの!?」
息をつき、男は振り返った。
「言ったでしょう、あなたに僕を捕まえることはできない」
確かに自由が欲しかった。
本当はもう、とっくに彼女に捕らわれているのだ。
だからこそ、彼女から自由になりたかった。
そうして彼女を、自由にしてあげたかった。
「あなたには幸せでいてもらわなくちゃ、国王陛下に顔向けができません」
ただの願いをねじまげ、無理矢理に建前で塗りつぶす。
「――ほら、日が昇ってきてしまいましたよ。部屋に戻らないと、召使いたちが心配します」
その言葉通り、城の方からはざわめきが聞こえて来た。シルヴィアを探す高い声。あれはきっと、侍女のリタだ。
女王は動かない。悲しげにこちらを眺めるだけだ。
男はおもむろに手を伸ばし、彼女の手を取った。そうでもしなければ、自分もここから動けなくなってしまうと思ったのだ。
彼の瞳は様々な感情を押し隠し、ただシルヴィアだけを見つめた。
「女王陛下、別れの挨拶を――御手に口づけすることを、お許し下さいますか?」
シルヴィアは食い入るように男を見つめた。青い瞳はかすかに揺れ、やがて静かに細められた。
「許すわ」
男は音もなくかがみこんだ。女王は黙ってそれを見下ろす。
白くしなやかな手に、男は一つ口づけを落とす。
そうして静かに顔をあげた。
「どうかお元気で。……美しい方」
そっと離された手を、青い瞳が追いかけた。
城の騒ぎに乗ずるように、何かがこちらへやって来る。緑の翼をはためかせ、小さな竜が飛んできた。
いち早く女王を探しに来たのだ。立ち尽くしていたシルヴィアは、竜を見つけて小さく息を吐いた。
男はどこかほっとしたように、目を細めて微笑んだ。
「……この国には、あなたを守ろうとする者がたくさんいる。僕はもう、役目を終えたんです。長らくお世話になりました」
少し朗らかにそう言うと、いつものように丁寧に一礼した。
「あなたに会えて良かった。……失礼します」
シルヴィアは瞳を揺らし、一心に叫んだ。
「お願い、待って!」
本当に、本当にこれで最後なのか。
彼女の想いが、突き刺さるように伝わって来る。何か止める手立てはないのか。未だに現実が呑みこめないと。
男は振り向こうともせず、歩き出した。木立の向こうでは、昇ったばかりの朝日が輝いている。
早く行かなければ。決心が揺らがないうちに。
「なんでもあげるわ。私の持つすべてをあげる! だから、行かないで!」
その声を振り切るように、男はただ足を進める。
シルヴィアが喉をつまらせ、その後ろ姿を見つめた。
そうして不意に、静かな声で言った。
「……ねえ、ロレンツォ」
呟くように。引き留めるように。
「もし、身分が違っても結婚できるような国を作ったら、あなたは戻ってきてくれる?」
男は立ち止まった。
そんなものは実現できるはずがない。
いいや、実現してしまった子がいた。
誰もが無理だと思ったことを、その少女はやり遂げてしまった。一人ぼっちだった王女を、国中に慕われる女王へと変えたのだ。
ならば、すべてを最初から諦めるのは間違っているのかもしれない。
「それは、とんだ夢物語ですね」
彼方の朝日を眺めながら、ふと笑みが浮かんだ。
「でも、そんな国があったら見てみたいものだ」
後ろから、息を呑む声が聞こえた。
そんな彼女をよそに、男は静かに告げた。
「さようなら、女王陛下」
今度こそ背を向け、まっすぐに歩いて行く。
突然、シルヴィアが声を張り上げた。
「私、絶対にあなたを振り向かせて見せる!」
辺りに響くのも憚らず、男に届くように、あらん限りの声で叫んだ。
「絶対に、この国を変えてみせるわ!!」
男は足を止めなかった。
それでもいつの間にか、その瞳は輝いていた。
シルヴィアの言ったことが、突拍子もないものだとは分かっている。
だから、現実になるなんて簡単には信じられない。
それでも、未来に明るい光が差した気がした。
――――ああ、僕は世界中を巡ろう。
彼女が言ったことが実現しなくても構わない。
ただ、彼女のために動けることが幸せだった。
――――出会う人ごとに、女王の物語を話して聞かせよう。
寂しがり屋の彼女に、一人でも多くの人が寄り添うように。
自分が傍にいることになっても、そうでなくとも。
彼女が欲しがっていた愛を、その腕いっぱいに得られるように。
――――そうだ、あの子の行方も探そう。
もし城に戻ることがあるなら、束の間に終わっても、シルヴィアを永遠に喜ばせられる、そんな土産話を持って行きたい。
飴色の髪の少女は、どこかで無事に暮らしている。
そんな事実を、シルヴィアだけでなく自分も、心のどこかで知りたいと思っているのだ。
最初から最後まで、一人の少年を追い続けた少女。
あの子は、どこへ行ったのだろう。
彼女はあれで、幸せだったのだろうか。
昇りきった朝日はいよいよ輝き、辺りを一斉に照らした。
陽射しを浴びる城を背に、男は木立の中を進む。
数えきれぬ木の葉は煌めき、風に吹かれては、笑い声をあげるようにさざ波を立てた。
幾つもの陽射しが差し込み、見つめる先は眩いばかりだ。
遮る物のない景色に、男は目を細める。
木立の向こうは光で溢れ、道なき道を照らしていた。
男は歩く。
行く当てもなく、それでも道の先を見据えて。
その後、彼はおろか、誰一人として、消えた少女の行方を知る者はいなかった。




