少女は歴史に残らない
「なんですって!?」
シルヴィアが声をあげる。
「あなたが城を出て行く!? 冗談じゃないわ!!」
戴冠式の一週間後、エレナは別れを決心して、謁見の間に訪れていた。
シルヴィアが怒ったようにこちらを見据える。
「そんなこと許すと思っているの? 絶対に駄目よ!」
エレナはシルヴィアを見た。もう荷物はまとまっている。この一週間、何度も考えた末の結論だった。
「わたし、クリスを探しに行きたいんです。どうしても彼に会いたい」
シルヴィアは息を呑んだ。
「誰から聞いたの!? ロレンツォね? どうして……」
エレナは微笑む。
「彼を責めないで下さい。わたしが勝手に気付いて、彼に居場所を尋ねたんです」
「でも……クリスの居場所は分からないはずよ。あの子はどこへ行くなんて言わなかったもの」
エレナは迷いもなく言った。
「居場所が分からなくても探しに行きます。彼が生きていると分かったんですから」
その声は明るい。
シルヴィアは怪訝な顔をしてエレナを見た。
「あの子の味方をするということは……あなたも『人』や『魔』を敵に回すということよ。皆に裏切り者だと言われてしまうわ」
「分かっています」
シルヴィアはこちらを睨んだ。彼女は怒っている風を装っていたが、その瞳には悲しみややるせなさが滲んでいた。
「クリスは相手構わず攻撃して、たくさんの物を破壊したのよ! 彼の傍にいれば、あなたも世界中から嫌われて、追われることになるわ。それでもいいの?」
「構いません」
深緑の瞳は、ひたすら澄んでいる。
シルヴィアはそっと、目を伏せた。
「あの時クリスを追い出さなければ……あなたはここにいてくれたのね?」
エレナは静かに微笑んだ。
「それしか方法がなかったのでしょう? 仕方のないことです」
女王となった彼女に近づき、その手を取る。
「あなたがわたしのために、彼を生かしてくれたのだと聞きました。感謝しています」
「うるさいわ!!」
ぱしり、とシルヴィアがその手を振り払った。
「あんな子、殺してしまえば良かった!! そうしたらあなたは行かずに済んだのに!!」
唇を噛んで俯くと、そのまま肩を震わせた。
「女王陛下」
エレナは笑みを絶やさず、再び彼女の手を取った。
「あなたは本当はそんなこと思ってない。わたしを引き留めようとして下さっているのでしょう?」
「エレナ」
女王は顔をあげた。そこにあるのは、先程とまるで違う表情だった。青い瞳は揺れ、すがりつくようにエレナを見つめる。
戴冠式の時の威厳は、もうどこにもなかった。
「エレナ……行かないで!! お願いよ!!」
そのままエレナを抱きしめた。
「彼を殺そうなんて思ってないわ。だけど、あの子は狂っているのよ。彼は人殺しだし、死ぬまで逃げ続ける運命なの」
シルヴィアは食い入るようにエレナを見る。
「あなたが彼と一緒に悪者だなんて呼ばれるのは、私は耐えられない。考え直して。あんな子といれば、あなたは幸せになれないわ」
エレナは喉を詰まらせた。
彼の真実を知るのは、自分しかいない。その願いは、本当は誰も知ってはならないものだった。それでも、気づいて良かったとエレナは思う。
「だからこそ、行かなきゃならないんです」
月光に濡れた、傷だらけの少年を思い出す。
俺も一人ぼっちだ、と彼は叫んだ。
「わたしが、傍にいたいから」
シルヴィアはエレナを見つめた。
「分からないわ。分からない。どうしたらあなたを引き留められるの?」
言いながら、その存在を確かめるかのように、抱きしめる腕に力を込めた。
エレナは唇を噛む。
もう何年も、こうして彼女の温もりを感じて来た。何度、こうして抱きしめられ、慰められてきただろう。
十六のエレナにとって、シルヴィアとの時間は人生の半分以上を占めていた。自分の一番傍にいたのは彼女で、離れる日が来ようとは思わなかった。
けれどその日々を、エレナは自分で捨てるのだ。
こうして出かければ、二度と戻って来ないことをエレナは感じていた。
この優しくて温かい人に会うことは、もうない。
羽のように包んでくれる温もりは、二度と得られない。
あの戦いの夜、エレナは少年の手を取らず、姫を選んだ。
それは彼女があまりにも孤独で、自分が傍にいなければ、消えてしまうように思われたからだ。
しかしあの時、すべての人に嫌われ、諦められた姫は、今こうして皆に愛される女王となった。
もう何も思い残すことはない。自分が傍にいなくても、彼女は生きていける。
それがとても嬉しくて、どうしようもなく寂しかった。
「女王陛下……わたしの大事な姫様」
エレナはシルヴィアを抱きしめる。
「どうかいつまでもお元気で」
ぎゅっと、力をこめ、顔をうずめた。
そうして静かに、体を離した。
「エレナ……」
シルヴィアがまじまじとこちらを見つめる。
青い瞳は大きく見開かれ、今にも泣きそうに揺れていた。
「本当に、行ってしまうの? 何をしても無駄なの?」
「ごめんなさい、女王陛下」
必死に笑いかけ、震える声で言った。
「もう行きます。……これ以上いたら、泣いちゃうから」
シルヴィアが喉を鳴らす。
「……いやよ、エレナ」
エレナは深々と一礼した。
顔をあげると、最後になんとか微笑みかけることができた。
「さようなら」
踵を返し、出口へと進む。
「エレナ……!!」
つんざくような泣き声が聞こえた。
部屋中の空気を揺るがす、小さな子どものような泣き声。
女王は追ってこなかった。
それがきっと、彼女の答え。
エレナは許されたのだ。
彼女の傍を離れ、遠くへ行くことを。
部屋を抜け、長い廊下を抜け、門を出た後も、エレナは振り返らなかった。
振り向いたら、ここから出られなくなってしまう。そんな気がして振り返れなかった。
大好きな彼女に、もう会えない。
あまりの切なさに、胸が張り裂けそうだった。
城門を出て、町を出て、ひたすら歩き続ける。
広い平原を進み、国境まで来たとき、エレナはやっと振り返った。
風が吹いて、飴色の髪を揺らす。一面に広がる草が、涼しい音を立てている。
いつの間にか溢れていた涙は、気付けば風に吹き飛ばされ、乾いていた。
小さくなった町の向こうに、愛しい城が見える。
エレナは息をつくと、再び前を向き、視線の先に広がる景色を見つめた。
目の前にあるのは、長い一本の道だ。
両側には平原が広がっている。その向こうには森や山が連なって見えた。
あの山には、四つの町を繋ぐザルメア街道があるはずだ。
探す場所はたくさんある。どこから探すも、自分次第。
寂しさの代わりに、小さな希望が胸に宿る。
急がねば、自分が生きているうちに、彼を見つけることはできないかもしれない。
なにせ、この世界はとても広いのだ。
片っ端から探さなければ。
太陽が眩しい光を投げかける。
風に揺れ、長い髪がちらちらと煌めく。緑の瞳に悲しみはもう見えない。
エレナは微笑むと、まっすぐに歩き出した。
そうして二度と、振り返らなかった。




