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ハルシュトラールの夜の果て  作者: 星乃晴香
第八章 流れ星が照らすもの
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歓声と閑静



 壊れた中庭の跡地。その広い空間に机や食べ物が置かれ、大勢の「(ミッド)」と「(ノヴル)」が女王の誕生を祝っていた。

 普段は見張りの居るこの場所も、今日は特別に解放され、お祭り騒ぎのようになっていた。


 この中庭は幾つかあるうち、唯一整備されたものだ。萎れた草木を抜く作業から始まり、花の代わりに休憩場所として柔らかな草で敷き詰めることになった。エレナも魔法を使って、その手伝いをしたのだ。

 ここに見目麗しい花はないが、生い茂った草の上で子ども達が走り回っていた。

 エレナはにぎやかな光景を、静かな瞳で眺めていた。


 本当はシルヴィアの傍にいるべきなのだが、彼女の周りにはたくさんの人が集まり、気がつけば輪の外に押し出されていた。

 ルーバスやレイモンド、リタがついているのを見て、気後れしたエレナはそっと抜け出して来たのだ。

 自分がいなくてもシルヴィアはやっていける。それを痛感させられて、少しだけ寂しかった。彼女の傍にいない代わりに、せめて女王を祝す人々を眺めようと思った。



 辺りはにぎやかな音楽に満ちている。その笛の音に聞き覚えがある気がして、エレナは顔をあげた。

 机や椅子がある草むらの向こうに、人や魔物が集まっている。

 即席で用意された劇場で、エイブル・ホーリエの人々が劇を演じていた。


 エレナは吸い寄せられるように、そちらに近づく。

 

「紳士淑女の皆様、ようこそお集まり下さいました。今日(こんにち)お届けしますのは、我が劇団一の名目と謳われた『金の王と黒の魔物』でございます。どうぞ、エイブル・ホーリエの紡ぐひと時の夢を、ご堪能ください」

 団長が懐かしい口上を述べる。見知った人々が現れて、次々と舞台を彩った。

 その劇はシルヴィアと並んで見た物だったが、以前とは少し違っていた。


 ライアン扮するアシオンが、アンセルモの演じるグランディールと戦っている。しかし、グランディールの周囲を見知らぬ三人の子ども達が取り巻いていた。

 新しい役者だろうか。彼らは様々な色の服をまとい、「(ノヴル)」の役としてグランディールの命令に従っていた。

 アシオンがシルヴィアと同じように、金の弓矢を放つ。それを受けたグランディールは倒れ、かつてと同じように、自由になったエマニエルが走って来た。

 以前と違ったのは、「(ノヴル)」の子ども達も駆け寄ったことだ。彼らは手を取り合い、歓びの歌を謳った。

 照明はトニーが動かしているのであろう。輝く光を浴びながら、のっぽのニールがリュートを掻き鳴らし、皆がそれに合わせて歌声を響かせた。

 エレナは新たな歌詞と歓声を耳にしながら、静かにその場を立ち去った。

 シルヴィアが愛される世界が嬉しかった。しかし、もう一緒に劇を見て笑い合うこともないだろうと思うと、どうしてもそこに居られなかったのだ。

 


 視線を巡らせれば、辺りは「(ミッド)」と「(ノヴル)」で溢れている。

 机の上に乗ったノッチェを見つけた。料理番らしき男に食べ物を分けてもらっている。

 その向こうでは、黒い魔物が子ども達を追いかけていた。一瞬どきりとしたが、どうやら襲おうとしている訳でなく、追いかけっこをしているらしかった。

 一年足らずの間に、確かに両者の関係は変わってきている。

 本当はエレナも、完全に手を取り合うのは難しいかもしれないと思っていたのだ。

 けれどこれなら、時間はかかっても、きっといつか心から分かり合える日が来ると思えた。

 


 その時、甲高い声が聞こえた。

「お姉ちゃん! お姉ちゃん!」

 子どものような声だ。思わず辺りを見回すと、「こっち!」と下から声があがった。

 見下ろすと、すぐ傍で小さな男の子がこちらを見上げていた。

「お姉ちゃん! 前会ったよね!」

 その顔は確かに見覚えがあったが、思い出せない。

 今日は色々な知り合いに会うな。そう思いながらじっと見ていると、男の子は声をあげた。

「ほら、あの時会ったでしょ! 町に流れ星が降った時!」

――――流れ星。

 その一言で、エレナはその子を思い出した。

 一年前、銀の光の降る中で、無邪気にそれを眺め続けていた子ども。


「ああ、あの子ね! 元気にしてた?」

 懐かしくなって笑いかけると男の子は声をあげた。

「うん、元気! お姉ちゃんこそ、背中になにか刺さったみたいだったけど、もう大丈夫なの?」

「背中? ……矢の事ね。大丈夫よ。もうとっくに治っちゃった」

 微笑みかければ、男の子は嬉しそうに笑った。

「良かった。流れ星のお兄ちゃんは、今日はいないの?」

 その言葉に、どくんと心臓が脈打つ。

「流れ星の……お兄ちゃん?」

「うん、手から流れ星を出していた人」

 間違いなくクリスのことだ。

 彼はもういない。

 金の矢に当たり、死んだのだ。


 周りでは、今も人々の笑い声が聞こえる。

 エレナは詰まりそうな喉から、声を絞り出した。

「その人はね……もういないの。死んじゃったから」

 言葉は口に出すと、ひどく現実味を帯びた。

 胸が悲しみに貫かれ、受け入れたと思っていた彼の死が、重しのように心にのしかかった。

 男の子は不思議そうにこちらを見る。

「どうして? 夜にはまたやって来るんじゃないの?」

 エレナは訳が分からず、男の子を見た。

「どういう、こと?」

「だってぼく見たよ。あのお兄ちゃん、お姉ちゃんの傍にいたけど、朝には町を出て行ったんだ。女王様が追い出しているように見えたけど、きっと役目を終えたからだよね。夜になったら、もう一度町に戻って流れ星を出すんだと思って、ぼくずっと待っているんだよ」

 エレナは息を呑んだ。

「朝には、出て行った?」

「うん。いつまで待っても来ないんだ。今度はいつ流れ星が見られるのかなあ」

 胸に、何かが広がっていく。

 とてつもなく、大きな何かが。

 今にも叫びたいような衝動が込み上げて、エレナは男の子を抱きしめた。

「ありがとう」

 男の子は訳も分からずこちらを見る。

 エレナは構わず、強く強く抱きしめた。

「ありがとう、ありがとう、ありがとう」

 クリスは生きていた。

 矢になど撃たれていなかったのだ。

 誰かが嘘を教えただけ。なんでもいい、彼は生きていたのだ。

 その喜びと切なさが胸をかけめぐり、最後にたった一つの思いを抱かせた。


 クリスに会いたい、と。


「マルク!!」

 聞き覚えのある叫び声が聞こえ、エレナはハッとした。

「マルク!! どこにいるの?」

「お母さんだ」

 男の子が呟いた。エレナは我に返って男の子を離すと、母親に手を振った。

 それに気づいて彼女はこちらにやって来る。

「どうもすみません」

 母親は男の子を抱きかかえた。

「まったく、あんたはいつも勝手にいなくなるんだから」

 謝る男の子を見ながらぼうっとしていると、中庭の向こうへ消えて行く、一人の男が見えた。

――――ロレンツォだ。

 机や草木をよける背中は、まっすぐどこかへ向かっている。

 エレナは唐突に、どうしても追いかけなければならないような気がして、その背を追った。

「ちょっと、あなた? お礼を……」

「お姉ちゃん!」

 後ろからの呼び声は、もう耳に入らなかった。

 追いかけながら、自分は彼に、クリスの居場所を尋ねたいのだと思った。

 あの男なら知っている。

 何故か分からないが、そう思えた。


 「(ミッド)」のしわくちゃの服も、「(ノヴル)」の鱗のついたような体も押しのけて、にぎやかな中庭を後にした。

「すみません、通して」

 エレナは声をかけながら、歓声の間をすり抜け、遠ざかる背中を追った。

 それは中庭を抜けて、人気(ひとけ)のない方へと進んで行く。

 彼は突き動かされるようにして、確かにどこかへ向かっていた。


「ロレンツォ!」

 必死に叫び、やっとのことで喧騒を抜け出すと、急いで後を追う。

 中庭を遠ざかるにつれ、あの騒ぎが嘘のように辺りは静かになった。気が付けば、整備もされておらず、草が生え放題の場所へ入っている。人気もなく、更に植物のはびこる庭はひどく広く感じられた。

「ロレンツォ! どこへ行ったの?」

 あまりの静けさに、草を掻き分ける音が嫌に耳についた。今はちょうど日が高いこともあって、城壁が庭の内側に影を落としている。そこは少し薄暗かったが、一部だけ場違いな程光が差し込んでいた。

 よく見ると、草木に遮られた城壁に、大きな穴が空いている。

 エレナはそっと覗きこんだ。向こうに男の後ろ姿が見える。訝しく思ったが、構わずに穴をくぐった。

 途端に溢れてくるめいっぱいの日差し。

 エレナは思わず目を細め、城壁の外へ出た。

 

 そこは小高い、丘のような場所だった。あたりには日の光を浴びた草が()い茂っている。城が高い位置にある分、眼下に城下町が広がって見えた。

 エレナは小さく息を呑む。窓から見るのとは、また違った景色だ。

 普段は城壁に阻まれ、直接こんな場所に出ることはない。

 家々はおもちゃのように立ち並び、行き交う人や馬車は驚く程小さい。遠くに山々が連なって見え、それを取り巻くようにして、遥か彼方まで広がる森が見えた。まるで大きな地図そのものだ。

 あれだけ人がいるのに、誰もこの場所に気づいていないのだ。隠れるような城壁の穴を知っているのは、目の前の男だけらしかった。

 


 風が吹き、少女の飴色の髪を揺らす。男の枯葉色の外套も静かに揺れた。草がさざめき、涼しい音を立てている。

 男の後ろ姿はいつもとは別人のように見えた。

 遠い遠い、絵の中の人のようだった。

 エレナはクリスの居場所を聞こうとしていたことも忘れ、どこか不思議な光景に見入ってしまう。

 風に乱れた髪をかきあげながら、草を踏み分け、彼に近づいた。

「こんなところで、何をしてるの?」

 声を掛ければ、男は肩を揺らして笑った。

「ふっ……ははっ」

「ロレンツォ?」

 驚いて見上げると、彼は声をあげた。

「ふ! ははは! もう僕の役目は終わった!! 今度こそ自由だ!!」

 エレナは目を見開いて彼を見た。

「自由……?」

「そうだよ!」

 彼ははちきれんばかりの笑顔で振り向き、エレナの両肩に手を置いた。

「君は本当にやってしまった! 僕が諦めていたことを! あの姫君は、とうとう皆に愛されるようになったんだ!!」

 エレナははっとした。一気に苦い思いが押し寄せる。

 自分は国王と約束したのだ。皆に愛される日が来るまで、シルヴィアの傍にいて、彼女を守ると。

 そうしてこの男も約束していた。

 ロレンツォは嬉々としてエレナを見つめる。

「君は国王との約束を果たしたんだ! これで僕は出て行ける!! どこへでも行けるんだ!!」

 エレナは食い入るように男を見た。苦しさに、胸が締め付けられるようだった。

「行って、しまうの……?」

 シルヴィアの顔を思い出した。この男が出て行けば、彼女はどんなに悲しむだろう。

「もちろん! 僕は約束を果たした。彼女の傍にいる理由はもうないんだ」

 エレナはからからになった喉から、声を絞り出した。

「そんな……姫様は……」

「彼女にはもう、僕は必要ない」

 男は少しだけ悲しげに言った。

「彼女は多くの愛を得たんだ。僕や君が傍を離れても生きていける。そうだろう?」

 エレナは男を見つめた。

 否定する言葉は出てこなかった。確かに今の彼女は、たくさんの人に囲まれているのだ。今までとは違う、温かな笑みを向けられて。

「姫様は、私がいなくても……?」

 どきりとする。寂しいけれど、彼の言っていることは確かだ。

 エレナが口ごもると、男は不意にまっすぐな瞳になった。

「君だって、出て行こうとしているんだろう?」

 意味が分からなかった。しかし、エレナは彼を追いかけて来た理由を思い出し、はっとする。自分はこの男に、少年の居場所を聞きに来たのだ。

 彼は困ったような微笑みを浮かべる。

「いつかはばれてしまうと思っていた。君のその目、僕に何かを聞きに来たんだろう。それを知れば、君もここから出て行くはずだ」

 エレナの目は揺らいだ。

 食い入るように男を見つめる。

「どうして……嘘をついたの? クリスは死んだって……」

「姫君と相談したんだ。どうすれば一番良いかを」

 エレナは首を振る。

「そんなのおかしいわ! わたしが気を失っている間に、わたしにとって一番大切なことを決めるなんて!」

 彼は静かな目で言った。

「……クリスは町を破壊したんだ。君も知っての通り、気が狂っていた」

 エレナは息を呑む。

 そうだった。この男は、いや国中の「(ミッド)」も「(ノヴル)」も皆、クリスが狂っていたと思い込んでいた。狂った末に町を破壊した恐ろしい少年だと。

 男は噛みしめるように告げた。

「姫君は金の矢を射った。それはまっすぐクリスの胸へ飛んで行って、飛び出してきた君に当たったんだ。だけど、誰もそのことは知らない。人々は銀の光を恐れて町の中心には近づかなかったし、彼らが見ることが出来たのは、高いバルコニーに立つ金の姫君だけだった。反対に、僕と姫君だけが、あのバルコニーから町の中央を見ることが出来たんだ。矢を受けた少女は君に違いないと、僕たちは確信した。姫君は泣いたよ。泣いて泣いて、ひどく自分を責めた」

 エレナはどうしようもない思いで、男の瞳を見つめた。

 ロレンツォは静かな目をしていた。

「僕は彼女に言った。あなたの遊び相手は生粋(きっすい)の『(ノヴル)』ではない。半分は『(ミッド)』の血が混ざっているから、今から助けにいけば間に合うって」

 エレナは何も言えずに聞いていた。

「そうして僕と彼女は、君の所へ向かった。その間、二人で相談したんだ。クリスの傍に置いておけば、君は危ないかもしれない。あの少年は狂ったまま、訳も分からず君を殺そうとするかもしれない」

 そんなことはしない! と叫びそうになって、エレナはぐっと息を呑む。

 彼がしようとしたことは、何があっても知られてはいけないのだ。


 男は息をついた。

「あの狂った少年をそのままにしておくのは危険だ、と僕らは言い合った。けれど、姫君は彼を殺したくないと言ったんだ。君が望まないだろうから」

 エレナは食い入るように男を見た。

「そうとも、彼は死んでいない。それでも、それを知れば、君は必ず彼の元へ行くだろう。狂った彼をかばった君は、どんなことがあっても、再び彼の傍へ行く。だから、姫君は決めたんだ。命を助ける代わりに、彼をこの国から……ひいては『(ミッド)』の世界から永久に追放すると」

 何かを堪えるようにして、ロレンツォはエレナを見た。

「君を助けることに必死で、僕らは気付かなかった。金の矢を射る姫を見た人々が、銀の光がなくなったことで、姫君が狂った『(ノヴル)』を殺したと思い込んだんだ。君の治療が終わるころには、城に人々が押し寄せ、歓喜の声をあげていた。姫君は驚いていたけど、あえてそれを否定しないことにした。あの少年が死んだということにして、二度と君を近づけたくなかったから」

 エレナは枯れそうな喉から、必死に言葉を絞り出した。

「どこへ……クリスはどこへ行ったの?」

「あの子は『(ミッド)』も『(ノヴル)』も敵に回してしまった。行く場所なんてないし、もう殺されているかもしれない。彼の行く末は僕も知らないし、姫君も知らない」

 エレナは息を吐いた。

 風が吹き、静かに髪を揺らす。


 長い沈黙の後、エレナはゆっくりと顔をあげた。

「わたし、彼を探すわ」

 ロレンツォは息をついた。

「そう言うと思った。だけどあの夜から一年が経っている。彼はもう殺されているかもしれないんだよ。それに、見つけられるとは到底思えない」

「それでも探すわ」

 深緑の瞳は揺れていた。

「世界中の草の根を掻き分けても、この体が朽ち果てても、彼を探す」

「あの子は生きているとは限らないんだ。『(ノヴル)』が死ねば、体も残らないんだよ」

 少女の瞳は翳ることもなく、どこまでも澄んでいる。

「構わないわ。姿かたちがなくなってしまっても、きっと彼なら見つけ出せる。……わたしはどうしても、クリスの傍に行きたいの」

「……君はたくさん花を咲かせられる。ここにいるだけで、姫君のように愛されることもできるのに。――――本当に花を渡したいのは、彼一人なんだね」

「……ええ」



 生い茂る草をなびかせ、風が吹き抜けていく。

 飴色の髪は揺れ、緑の瞳は男を見据えた。

「……結局あなたの言う通りになってしまったわ」

 エレナは静かに言った。

「姫様は、わたしが出て行くのを許して下さるかしら」

 男は優しい目をしていた。

「国王との約束は果たされた。君も僕もその権利がある。……エレナ、君から先に行くといい。後になるほど、あの方は止めようとするだろうから」

 そう言って、懐かしそうにエレナを見つめた。

「僕も君とお別れだね。……君はあの日から、大きくなった。もう止める必要はないんだ」



 その時、城壁に空いた穴から、何かが出てくるのが見えた。それは羽をばたつかせ、こちらへと飛んでくる。

 小さな緑色の竜を見て、ロレンツォが苦笑した。

「君、さっきからそこに居たろう? 出てくるのを遠慮してたのかい?」

 エレナは思わず竜を見る。赤い瞳を彷徨わせ、竜はグルル、と鳴いた。

「ちっとも気がつかなかったわ。今の話を聞いてたの?」

 竜は答えず、ロレンツォを威嚇すると、エレナの服の袖を噛んで城の方へ引っ張って行こうとする。ロレンツォは笑った。

「ここから出て行くなって。きっとそう言ってるんだ」

 その言葉に、エレナは困ったように竜を見た。

「だめよ。わたしは行かなくちゃ」

 竜は残念そうに袖を離すと、一声鳴いてエレナに寄り添った。

「ついて来るって意味かしら? ごめんなさい。わたし一人で行くわ」

 竜が顔をあげる。

「迷惑って意味じゃないわ。いつ終わるか分からない、長い旅になるかもしれない。そんなものに巻き込むつもりはないもの。あなたは姫様の傍にいて。わたしの代わりに姫様をお守りしてちょうだい」

 赤い目がまっすぐにこちらを見つめた。食い入るような、真剣な瞳だ。

 エレナは微笑んで、小さな竜の背に手を置いた。

「大丈夫よ。あなたはきっと、この国一番の守り主になるわ」

 竜は瞳を揺らし、小さく一声鳴いた。

 その声はどこか寂しげに、愛おしげに響いた。



 エレナはふと顔をあげる。

 城下に広がる町からは、時折にぎやかな声が聞こえてくる。

 それはどこか遠い世界のもののようで、確かにそこに存在していた。

 輝く陽射しに照らされ、家々の屋根は明るい色をしている。

 その中でも目立つのは、あの大きな巨人だ。彼のぼさぼさ頭は、日の光に煌めいている。

 荷馬車を押す男に、巨人が背後から手を伸ばす。巨人が何を考えているのかは分からないが、奪おうとしている訳ではないとエレナにも分かる。

 男は驚いて振り向いたが、巨人と何か言葉を交わすと、荷馬車から手を離した。

 大量の荷物を、荷馬車ごと、大男はたやすくつまみあげる。

 巨人はゆっくりと、男は小走りで進み始めた。そろって畑に向かうのを見ると、抱えていたのは肥料の類だろう。


 そんな光景があちこちで見え、エレナは小さく息を吐いた。


 

 世界はゆっくり動いて行く。エレナがいなくても、にぎやかな声を交わしながら。

 この居心地の良い世界と、もうすぐ別れなければならない。

 エレナは愛おしげに、シルヴィアの国を見つめた。


 彼女の地に生きる者達。

 彼らは今日も、笑い合っている。



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