温かいパンと重たい金貨
エレナは走った。孤児院ではなく、宿屋へ。
ダリウスは確か宿屋へ泊まると言っていたのだ。
エレナは決心していた。
あの男に、すべて伝えようと。
昼間の会話をつなぎ合わせると、彼はダリウスの息子に間違いなかった。
クリスがこれ以上、あの庭に閉じ込められているのは耐えられない。
ダリウスは貴族だ。どんなに冷たい人間でも、魔法使い程ひどいことはしないだろう。
たとえ遠く離れたところに行ってしまっても、クリスには貴族として幸せに暮らしてほしいと思った。
孤児院の外のことはあまり知らないが、道を下れば大通りに着くことは周知の事実だ。エレナは村に一つだけ宿屋があると聞いたことがある。詳しい道順までは知らないものの、一刻も早く辿り着きたくて、孤児院に戻ることもしなかった。
普段見慣れない、家が立ち並ぶ石造りの道を通り過ぎる。似たような道を幾つも進むうち、間違えてパン屋に入ってしまった。
エレナは謝ってすぐに出て行こうとしたが、ぼろぼろの彼女を見た店の主人は、パンを二つくれたのだ。
こんなことは、初めてだった。
エレナは顔をほころばせ、勢いよく頭を下げて、主人にお礼を言った。
「いやあ、それは売れ残りだからね、遠慮せずに持って行っていいよ」
人のいい主人は、パンを紙袋に入れて持たせてくれた。宿屋への道順も教えてくれ、エレナは冷めていた心が温かくなるのを感じた。
無事に宿屋へ辿り着き、ダリウスがいるか訪ねると彼は従者と共に部屋で休んでいるとのことだった。今日も村中を回り、息子を探していたらしい。
「お客様の邪魔をするんじゃないよ」と宿屋のおかみに追い出されそうになったが、なんとか説得して、部屋の場所を教えてもらった。
それは、一番奥の最も広い部屋だった。
エレナは廊下を進み、緊張しながら部屋の前に立った。
息を吸い込むと、こんこん、と扉を叩く。
少しして、見知らぬ男が出てきた。禿げかかった白髪の、黒い服の老人だった。
「なにか御用かね」
ぎろり、と老人の目が少女を眺める。人間とは思えない目つきだ。
「だ、ダリウス様にお話したいことがありまして」
エレナは精一杯答えた。
「話?」
「黒髪の、男の子のことです。わたし、ダリウス様の息子を知っています」
老人の目がぎらりと光った。
「中に入れ」
エレナが入ると、扉は音を立ててしめられた。
部屋の中は明るく、今は使われていないが暖炉も備えつけてあった。
老人は、ダリウスの従者のようだ。何やら主人に耳打ちしている。
ダリウスにじろりと見られ、エレナは身を竦ませた。
別のことを考えようと、部屋を見渡す。
傍の机には、宿屋の主人が用意したのだろう、この村にしては高級そうな料理が置いてあった。
――――あんなお肉、食べたことない。
エレナはお腹が鳴らないように願った。
ぎゅっと腕に力をこめると、紙袋がごそごそと音を立てた。中にやわらかいパンが入っているのを思い出して、エレナの胸は温かくなる。
冷たいダリウスとも、話す勇気が湧いてきた。
「お前、息子を知っているそうだな」
口を開いたダリウスに、エレナは頷いた。
「はい」
「詳しく聞かせてもらおうか」
まっすぐにこちらを見る瞳は、凍てつくような視線を投げた。
エレナは話した。
閉じ込められている少年のこと。彼は黒い髪に鳶色の瞳をしていて、昔、黒い男と暮らしていたこと。今は魔法使いに捕まっていて、助けが必要だということ。
緊張して回らない舌で、それでも丁寧に話していった。
必死だった。
なんとかあの庭から、少年を助けてもらいたかったのだ。
「話は分かった」
すべてを聞き終えてダリウスは静かに言った。
「明日、その少年を迎えに行く」
「それじゃあ、彼を助けてくれるんですね!」
エレナは思わず声をあげる。
その声には喜びと、ちょっとの寂しさが含まれていた。
「ああ、話を聞く限り、それは息子に間違いない。あの子は四年前、魔法使いに攫われたのだ。悪名高きマルクレーンに」
悪名高いことは初耳だったが、エレナは納得していた。やっぱり、と思う反面、疑問も浮かぶ。
「クリスは庭から出られないんです。それに、あの魔法使いに鉢合わせしたら、どうするんですか」
「大丈夫だ。私はあの男のことをよく知っている。なんとか説得して息子を連れ戻すさ」
「でも、あの人はあなたに無断でクリスを連れ去ったんですよね? そんな簡単に説得できますか?」
「大丈夫。できるとも」
ダリウスの声は、なぜか自身に満ち溢れている。それを聞いてエレナも目を輝かせた。
この人に頼んで、正解だったのだ。
これでクリスを助け出せる。
ダリウスが従者の老人に何か話しかけた。
どうやら、明日の移動手段についてのようだ。エレナは思わず声をかける。
「あの、わたしも行っては駄目ですか?」
クリスにお別れを言いたかった。
「駄目だ」
即座に答えが返って来る。けれど、怯んだエレナを見てダリウスは付け加えた。
「お前は一度マルクレーンに魔法をかけられそうになった。一緒に来るのは危険だ」
淡々と紡がれた言葉には、感情がこもっていなかった。
ダリウスが気にかけているのはクリスのことだけなのだ、とエレナは思った。
エレナにとっては、それで十分だった。
帰り際、老人が礼だと言って金貨の入った麻袋を渡してきた。
エレナは慌てて断ったが、彼はしつこく押し付けてくる。
こんな大金を受け取るのは怖かったが、老人のカエルみたいな目の方が怖かった。
ぎょろりとした瞳に睨まれると、体が竦む。
とうとう根負けして、エレナは金貨の入った麻袋と、パンの入った紙袋を抱えたまま、宿を出たのだった。
孤児院につくころには、あたりは真っ暗だった。
暗くなるにつれて視界も悪くなるものだから、いつもに増して時間がかかってしまったのだ。
入り口は鍵がかかっていたので、台所につながる裏口から入った。
リーラも子ども達も眠ってしまったようで、屋敷は灯りも消えて、静まり帰っている。
リーラの部屋の前を通り過ぎると、寝息が聞こえて来た。なんとなく覗けば、真っ暗な部屋の奥で、毛布がゆっくり上下していた。
エレナは誕生日のことを思い出す。
今でこそリーラは冷たいが、あの日彼女は花をくれた。あの時は本当に嬉しかったのだ。もし枯らしてしまうことさえなければ、あの後きっと、リーラは頭をなでてくれただろう。
――――そうだ。この金貨、リーラおばさんにあげよう。
あの日に貰い損ねた優しさを、心のどこかで求めていた。
金貨を渡すのを後回しにすれば、他の子ども達に盗まれることは容易に想像できる。
手柄を取られる前に、リーラを起こして渡してしまおう。
そう思い、ゆっくり扉を開けて部屋に入る。
エレナは、自分があまりいい子ではないと分かっていた。
金貨を渡すとはいえ、こんな真夜中にリーラを起こすのだ。それも彼女を喜ばせるためではなく、自分が褒めてもらうために。
「リーラおばさん」
彼女に自分から声をかけるのは久しぶりだ。緊張しながら呼べば、リーラは体をこちらに向けた。
「ん?」
半目を開いた彼女は、とても眠そうだ。
「そこにいるのは……エレナ?」
「うん。あのね、渡したいものがあって」
どきどきしながら声をかける。握りしめたせいで、袋はしわが寄ってしまった。
「あの、これ」
「なんだいこんな夜遅くに。また明日にしておくれ」
エレナが先を続ける前に、ごろりと向こうを向いてしまった。
「リーラおばさん……?」
そう呼んだものの返事はない。再び上下し始めた毛布を見て、エレナは苦笑した。
どうやら、褒めてもらう目論見は失敗したらしい。
やはり下心があってはうまくいかないようだ。ならば、仕方ない。
エレナは静かに、床に袋を置いた。チャリ、とわずかに音がする。
ここに置いておけば、明日の朝には気付くだろう。これでは誰が置いたのか分からないが、それも面白いかもしれない。
リーラが置いた人間に気づいても、そうでなくとも仕方ないとさえ思えた。
有頂天になるリーラを想像して、少女は一人で微笑む。
眠りこける義母を起こさないよう、静かに扉をしめると、そろりそろりと自分の寝床へ向かった。
この大きな屋敷では、余った部屋にベッドが四つずつ置かれ、子どもたちはそこで眠っている。エレナの寝床は窓の傍だ。他の三人の子ども達を起こさないよう、静かに歩みを進める。
音を立てないよう自分のベッドに近づき、パンの袋をベッドの下に隠して、毛布に潜り込んだ。
窓の外は、満点の星空だ。
クリスと出会ってから、世界が少しずつ広がっていった気がする。
今まではずっと屋敷で過ごしていたけれど、森に通うようになり、孤児院の外には知らないものが溢れていることに気付いた。今日一日だけで、魔法使いに襲われそうになったり、村はずれまで行ったりしたことは、エレナにとって大冒険とも言えた。
けれど明日、クリスは行ってしまうのだ。それが寂しくてたまらない。
そこでエレナは、昼間に守りきった少年との記憶を思い出すことに決めた。
なぜだろう。今日は思い出ばかりを追っている。
瞼を閉じながらそう思った。
クリスとは数えきれないほど遊んだ。
何度もかくれんぼをしたら、お互いの隠れ場所が分かるようになってしまったこと。
蝶の羽化を、長い間二人で見守ったこと。
庭に来た小鳥にえさをやろうとしたら、逃げられてしまったこと―――――たくさんのことを一つ一つ思い出しながら、いつしか眠りに落ちていった。
その日、彼と一緒に野原を駆ける夢を見た。
*
朝早く窓から差し込む光で、エレナは一人、目を覚ました。
いつもこんなに早く目覚めるわけではない。
「クリスがいなくなる」という気持ちが、そうさせたのかもしれなかった。不思議と目覚めはよく、身を起こしたエレナは窓の外を眺めた。
日はまだ登ったばかりだ。
今ならまだ間に合う。
ダリウスについて来るなとは言われたが、どうしてもお別れが言いたかった。
――――そうだ、パンも持って行こう。二つあるから一つクリスにあげるんだ。
そう思い立つと上着を羽織った。いつもはしまってある鞄を取り出し、パンを包みごと入れる。
他の子どもを起こさないように部屋を出ると、そのまま森へ向かった。
その時エレナは知らなかった。
自分がこの屋敷に、二度と戻っては来ないことを。




